昭和、男もつらかった 214 昭和40年代④ 飲酒運転
昭和初期の鹿児島で農家の一人息子として生れ、戦時中は陸軍特別幹部候補生として内外地で戦闘機の整備に当たるも、復員後はふるさとで農に生きた二夫(つぎお。父)の物語。
昭和40年代あたり、農業を取り巻く環境が変わり兼業農家が増える中、専業を続ける二夫には地域のいろいろな「役」を引き受けていくが、持ち出しも多かった。(③より続く)
前項で、さまざまな「寄ぃ」(寄り合い)のあとは参加者の自宅へ流れることもしばしばあった、と述べた。公共交通といえば国鉄(当時)とバス。いずれも令和のいまよりはるかに本数が多かったとはいえ、地域をくまなく網羅しているわけもなく、バスは国道しか走っていない。「参加者」のみなさんは、寄り合い会場へ、いまでいう「二次会」の個人宅へ、そして自分の家まではどうやって移動していたのか?――という点について書きとめておきたくなった。
昭和40年代前半、この地域にモータリゼーションの波はまだ十分及んでおらず、自家用車で往来するケースはきわめて稀だったが、クルマはなくてもオートバイに乗る人はもうけっこういた。二夫はその一人である。オートバイを持たない人は自転車か徒歩である。終戦直後あたりまでの田舎の人は徒歩が基本だから、昭和40年代でも4、5kmの距離なら平気で歩いたはずだ。
幸いというべきか、二夫たちの町(自治体)はこぢんまりしていた。もちろん山間部まで含めればかなりの広さがあるが、町の中心や農協のあるあたりまでなら、農村地帯から歩いていける距離ではあった。ことに二夫の家は徒歩でも農協まで15分くらい、小中学校まで30分弱、役場まで40分程度と比較的「恵まれた」場所にあった。
そんなわけで、寄り合いの仕上げや二次会で焼酎を飲んでも問題はなかった。
やがて多くの家にオートバイが入っていくが、「焼酎(そつ)を飲んじょってん、オトバイどまよかとよ」(焼酎を飲んでても、オートバイの運転ぐらい大丈夫だ)というのが大方の認識であった。(ちなみに鹿児島弁の短縮好きは外来語にも及び、オートバイの長音は省略された。)
飲酒運転規制の歴史(?)を検索するとAIがまとめてくれたので、さらに要約してみる。
――日本で自動車が公道を走り始めたのは明治31(1898)年だが飲酒運転に関する法律は存在しなかった。「道路交通法」施行は昭和35(1960)年、呼気アルコール量0.25mg/ℓ以上で運転禁止とされたが罰則はなく、昭和45(1970)年に初めて、酒気帯び運転に対して違反点数と罰則が設けられた。
1990年代後半悪質な飲酒運転による重大事故が相次いで社会的関心が高まり、厳罰化の議論が活発化していく。その結果平成14(2002)に呼気アルコール濃度0.15mg/ℓ以上で罰則が科されるよう改正され、酒気帯び運転・酒酔い運転の罰則も強化。平成19(2007)年には酒気帯び運転や酒酔い運転の懲役・罰金を引き上げ、平成21(2009)年には違反点数も厳罰化され令和の現在に至っている。――
二夫たちがほろ酔いで(あるいはかなり酔って)オートバイに跨っていたのは、飲酒運転の罰則がなかったか、あってもまだ適用が緩かった頃だろう。そう言えば寄り合いの前後大人たちが
「飲酒運転で捕(ちか)まらんどかいね?」(飲酒運転で捕まるんじゃないかね?)
「うしと道ょ走れば警察ゃおらんが」(裏道を走れば警察はいないだろう)
といった会話をしていた。
ここでいう裏道は文字で書けば「後ろ道」、国道を「表」とする概念で、二夫たちの地域では鉄道沿いの道路を指した。鉄道が交通の中心だった頃はこちらがメインだったはずだが、国道の交通量増加で「後ろ」「裏」へ追いやられていったのだ。
もっとも警察は、農村地帯の「表」にもいなかった。そもそも人口密度以上に「車両密度」が低かったからである。(「昭和40年代⑤」へ続く)
