番外編・第4話「仙台へ、そしてメキシコへ」
12月、日本語教育能力検定試験に合格しました。一区切りついた気持ちでした。あの部屋で積み重ねた時間が、ちゃんと形になったんだと思うと、少しだけ自分を許せた気がしました。
私は東京の荷物をほぼ全部売り払って、東京生活をあとにすることにしました。行き先は、仙台の実家です。
実家では、父が母の介護をしていました。私は母とはもともと折り合いが悪く、帰った当初から険悪な空気が流れていました。それでも、母を一人で抱えている父の姿を見て、私も何かしなければという気持ちになりました。
母の介護度は、着々と悪化していきました。若年性アルツハイマーで、体も腕力もまだ元気なぶん、対応が本当に大変でした。
母は「誰かが盗りに来る」という、ものとられ妄想に支配されるようになっていました。祖母の形見の折りたたみ傘、真珠、モヘアのセーター、可愛すぎて使えなかった手袋。それらを全部抱きしめて眠る日々でした。大切なものを守ろうとする気持ちは変わらないのに、その表現の仕方だけが、少しずつ壊れていくようでした。
外を歩いていると、自分の影を見て「ついてくるな、しっし」と追い払おうとすることもありました。スーパーの鏡に映った自分に向かって、「あいつがまた私を見てる、しつこいねん!」と言うこともありました。そんな母の姿を見るたび、胸の奥が締めつけられるようでした。一見普通だから、余計にタチが悪かったです。知らない人が見たら、本当に誰かに追われているようにしか見えなくて。
私自身も、仙台で仕事を探しました。でも派遣会社からは、当時の私の年齢では「掃除のおばさん」の仕事しかないと言われました。掃除のおばさんの仕事は大変だと思うし、それをどうこう言いたいわけではないけれど、私はそのために今まで頑張って勉強したり仕事をしてきたわけじゃない。そう思いました。悔しさよりも、もっと静かな、行き場のない気持ちでした。
そんな中、「禍福はあざなえる縄のごとし」という言葉は本当だったんだと思わせてくれる出来事がありました。散々な状態の中で、今度は人生の中で重大な意味を持つ人物と出会うことになります。
2026年の今でも交流が続いている、母のケアマネさんです。母に合ったデイケアなどの段取りをつけてくださったおかげで、私は次の一歩を踏み出せることになりました。この出会いがなければ、この先の話はなかったと思います。
メキシコの求人を見つけたとき、父に相談しました。父は言いました。
「東京もメキシコも、遠いという点では一緒だ。離婚後の人生をどう生きるかは、自分で決めたらいい。面接によばれたんなら、受けてきたらいい」
寂しそうな顔をしていました。母を一人で抱えることになる不安も、きっとあったと思います。それでも、父はこう続けてくれました。
「半年に一回は、交通費は会社負担で帰国できるんだろう。悪くない話じゃないか」
その言葉に、私はようやく前を向くことができました。
翌年の夏、私はメキシコへ渡りました。
そこでのお話しは、また別の機会に。
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