「欲しい!」は悪じゃない。でも、なぜいつも苦しくなるんだろう?―自己成長と執着のあいだ
「もっと素敵な自分になりたいなぁ」
「あの人みたいに輝く生き方がしたいな」
「仕事で認められて、お給料も上がったら最高!」
私たちは毎日、たくさんの「願い」や「欲」を持って生きています。
ヨガや瞑想の世界に触れると、なんとなく「欲を持っちゃいけない」「すべてを手放さなきゃ」って思いがちですが、実はそういうことでもない。
「もっとこうしたい!」っていうエネルギーは、自分をアップデートさせてくれる素晴らしい原動力。
つまり「欲望は自己成長のエネルギー」です。
それなのに、どうしてその気持ちが、時に息が詰まるほどの苦しさに変わっちゃうんでしょうか?
今日は、「自己成長」と「執着」のちょっとした、でも決定的な違いについて、お話しさせてください。
すべての苦しみは「至高の依存症」から始まる
気づけば私たちって、こんな風に思っていませんか?
「私はどうしても結婚したい」
「私はあの車が欲しい」
「私は、私の子供にこうなってほしい」
主語が「私」とか「私のもの」になった瞬間、純粋だった願いは、コントロールできない結果への強いこだわり――つまり「執着」という名の「至高の依存症」に変わっていきます。
他人の持っているキラキラしたものを見て、「私もあれが欲しい!」って心がザワザワすること、ありますよね。
でも、「あの人の生き方」が自分に合うわけがないんです。
だって、あの人と自分は違う人間だから。
ありもしない「正解」や、自分じゃない誰かの影を追いかけているとき、私たちは「今この瞬間」の自分の世界から、するりと脱落してしまっています。
呼吸すら移り変わる。世界で唯一の、変わらない真実
瞑想を始めて静かに座っていると、面白いことに気づきます。
最初に頭に浮かんだことと、最後に浮かんだことって、たいてい全然違うんですよね。
「あ、今日の晩ごはん何にしよう」から始まったのに、いつの間にか過去の反省になり、未来の不安になり、最後にはふっと消えていく。
呼吸に意識を向けてみても、吸って、吐いて、その一つとして同じ波はありません。
私たちの心も、呼吸も、常にうつろって、変化し続けています。
自分自身の考えることすらこんなにコロコロ変わるのに、外側の世界がずっと同じままでいられるわけがないです。
価値観も、文化も、正義も、美意識も、10年後、20年後にはガラリと変わっていきます。
今の正解が、未来の不正解になることなんて、いくらでもある。
今は聖子ちゃんカットは流行らないんです。
それなのに、私たちは「変化していくもの」に必死にしがみつこうとします。
変わってしまうものにすがりつくことで、人生の巡り合わせに圧倒され、息が止まりそうなほど苦しくなるような経験を繰り返します。
「ありのままでいること」と「手放すこと」
もし今、何かに圧迫されるような、息が詰まるほどの苦しさを感じているなら。
何も否定しなくて大丈夫です。無理にその問題を解決しようとしなくていい。
少しだけその場所から離れて、目を閉じて、心の中にある安らかな場所に戻ってみる。
そして、自分の感情を、まるで他人のことのように一歩引いて「そっか、今こう思ってるんだな」って観察(メタ認知)してみるんです。
「ああ、自分は今、結果をコントロールしようとして焦ってるな」
「思い通りにいかなくて、悲しんでるな」
感情すらも、ただ「今、その状態なだけ」です。
この世に一つとして不変のものはありません。だから、今のその苦しい状況も、必ず変わっていきます。
世界はいつも「現在」しかありません。
「自分は今、どんな状況にいるのかな。ここで、私は何をしていることになっているんだろう」 そうやって客観的に自分を見守ることができたとき、「ありのままでいること」と「手放すこと」って、実はまったく同じ意味なんだな、と気づけます。
「手放す」ための実践――瞑想と休養が教えてくれること
頭では「変化するものにしがみついちゃダメだ」って分かっていても、日々の忙しさのなかにいると、どうしても心が自動的に何かに執着して、すり減るものです。
だからこそ、私たちには「瞑想」と「積極的な休養」という具体的なアプローチが必要なんだな、と感じています。
苦しいときは、私たちは無意識に「もっと頑張らなきゃ」「何か対策を考えなきゃ」って、さらに頭をフル回転させがち。
でも、執着を手放すために必要なのは、これ以上何かを足すことじゃなくて、一度そのループから「離れる」ことです。
瞑想をして、ただ自分の呼吸や移り変わる感情を観察する。
そして、心と体を徹底的に休ませてあげる。
そうして日常のスピードから一度降りて、ただ「休養」に身を委ねていると、不思議と張り詰めていた心のコリがほぐれていきます。
「あ、私が必死にしがみつこうとしていたものは、実は手放しても大丈夫なものだったんだ」 そう気づけるのは、心と体に余白が生まれたときだけです。
瞑想と休養は、私たちがギュッと握りしめていた執着の力を緩めて、苦しみから自分を解放してあげるための、薬のようなもの。
結果は関係ない。無心で動くということ
話を最初の「欲」に戻します。
結果へのこだわり(執着)を手放すっていうのは、「何も望まないつまらない人間になる」ということではありません。
むしろ逆。
「手に入るか、手に入らないか」という結果のコントロールを手放すからこそ、私たちは今この瞬間の努力や行動に、「無心」で飛び込むことができるようになります。
誰かが持っているものに嫉妬するのではなく、 結果に一喜一憂するんじゃなく、 ただ、今与えられている自分の世界の中で、目の前のプロセスにベストを尽くす。
目指した結果が手に入らなかったとしても、そのために無心で努力した時間と行動は、自分を確実に、一段高い場所へと成長させてくれています。
手に入らなくたって、関係ない。
変わりやすい外側の世界は、私たちに究極の満足を与えてはくれません。
だからこそ、何かを目指して行動しているときも、「私の心の状態、今はどんな感じかな?」って、一日を通して優しく自分自身で見守ってあげることが大切です。
そのために、瞑想があります。
瞑想をすると、日々フル稼働してヘトヘトになっている「脳」を休ませてあげることができます。
脳が疲労困憊のときに、良い判断ができるわけがないし、穏やかな心でいられるわけがない。だって、
心は脳だから。
毎日5分でもよいので、ぜひやってみてください。
最初はこの5分の長いこと、長いこと。
5分を待てないのに、1年後の願望成就なんて心中穏やかに待てないよね、ということにも気づくと思います。
もちろん、瞑想ができない日があっても全然大丈夫。
できなかったからって、自分を責める必要ない。
数日、いや数週間くらい瞑想しなかったからって、誰もあなたを責めたりしません。
瞑想を通じて執着に気づき手放すことで、私たちは「今ここ」のプロセスを、ただ一歩ずつ、楽しんで進むことができるようになるのです。
