「わからなさ」に踏みとどまる――異文化感受性発達モデルでみる「保留」の可能性
はじめにーー予想外の違和感との遭遇
SNSでのちょっとしたやり取りだった。
軽い冗談のつもりで書いた投稿に、思いがけず強い調子のコメントがついた。読んだ瞬間、正直「なぜこんな言い方をされるのだろう」と戸惑い、少し身構えた。
そこで取り得た選択肢は、いくつもあったと思う。
スルーする
ミュートやブロックで距離を置く
「失礼だ」と言い返す
心の中で「この人はこういう人だ」と分類して終わらせる
けれど今回は、そうせずに一度だけ立ち止まった。
「いったい、何が起こっているのだろうか。他に選択肢はないだろうか?」
そう思い、タイムライン上ではなく個別メッセージを送ってみることにした。できるだけ責めるニュアンスは削ぎ落としつつ、このコメントがどのように受け取られる可能性があるかを率直に伝えながら、「何かありましたか?」と問いかけた。
返ってきたのは、こちらの想定とはまったく違う文脈だった。その人は自分自身の状況に深く傷ついており、私の投稿が偶然そこに触れてしまったのだという。あのコメントは、私への評価というより、自分に向けた言葉がたまたま私の投稿の場所に現れてしまったものだった。
誰かを責めるための言葉というより、ある意味での「自虐」だったのだ。
違和感の正体は「人」ではなく「文脈のズレ」
この体験から見えてきたのは、対立や違和感の多くが「価値観の衝突」以前に、文脈のズレから生まれているということだった。
同じ言葉でも、人はまったく異なる前提の上で受け取り、発している。
それにもかかわらず、私たちは違和感に出会った瞬間、ついこんな処理をしてしまう。
「変な人だ」
「偏った考えの人だ」
「ストレスをぶつけているだけだろう」
これは一見、冷静な判断のようでいて、実はわからなさに耐えることをやめるための思考のショートカットでもある。
レッテルを貼った瞬間、私たちは相手を理解する可能性だけでなく、自分がまだ持っていない見方を獲得する可能性も同時に閉じてしまう。
今回のやり取りも、文脈を理解してから読み返すと、もはや自虐ネタにしか見えなくなるほど印象が変わった。文脈の力が、いかに大きいかを実感した瞬間だった。
「最小化」から「受容」へ
異文化感受性発達モデルの視点
このプロセスを理解するうえで助けになったのが、異文化理解の研究である ミルトン・ベネットの Developmental Model of Intercultural Sensitivity (DMIS) だった。
このモデルは、人が文化的な違いをどのように経験し、解釈し、対応能力を発達させていくかを6段階(拒絶・防衛・最小化・受容・適応・統合)で示している。
ここで注目したいのが、3段階目の「最小化(Minimization)」と4段階目の「受容(Acceptance)」の違いである。
最小化
違いを認めつつも、「そんなの大したものではない」「結局みんな同じ」と考える姿勢。一見、寛容に見えるが、実際には自分の前提を普遍として固定したまま、他者をその枠に押し込んでいる状態である。対立は起きにくいが、学習や相互理解も起きにくい。
受容
他者が自分とは異なる現実の組み立て方をしていることを本気で認める段階。ここでは、自分が拠り所としてきた価値観への信頼が揺らぐため、未知に触れるような違和感や不安定さが増す。穏やかというより、むしろ緊張感のあるプロセスである。
今回の体験は、文化差と呼ぶほど大きなものではないにせよ、まさに最小化から受容へ移行する小さな通過点だったように思う。
受容への鍵は「保留」だった
では、この移行を可能にしたものは何だったのか。
振り返ってみると、それは「判断を保留する」という態度だった。
違和感が生じた瞬間に、
「失礼な人だ」と確定するのではなく
「まだ何か見えていない文脈があるのかもしれない」と考える
つまり、
自分の理解モデルがまだ足りない可能性を開いておく
ということだった。
これは相手を無条件に正しいとすることでも、自分が間違っていると決めることでもない。ただ、「わからなさの中に、少しだけ踏みとどまる」ということだ。
しかしこの「保留」は、決して簡単な態度ではない。自分がこれまで当然だと思ってきた前提を、一時的に揺らす行為でもあるからだ。
「可能性の側に立ち続ける」という信念
私がたまたまこのとき保留できたのは、「常に可能性の側に立ち続けたい」という個人的な信念があったからかもしれない。
私は、新規事業開発などに長く関わってきたことから「伝わらなさ」に悔しい思いをすることが多い人生を歩んできた。
だからこそ、どんな人の発言にも、その人なりの「正しさ」があると思いたい。そしてそれは、自分がこれまで知ってきた正しさとは違う種類のものかもしれない。
その「新たな正しさ」に触れることは、
自分がどんな前提に縛られていたのかに気づくこと
世界の見え方が一段広がること
自分自身が少し自由になること
につながっているように感じている。
DMISの観点で見ると、最小化にとどまる限り可能性は閉ざされやすいが、受容へと進むことで世界の解釈可能性は一気に広がる。
ここで扱われているのは知識量ではなく、「差異に出会ったときの認知のクセ」である。
だからこそ、「可能性の側に立ち続ける」という信念は、受容へ向かう態度を取りやすくする土壌でもあり、新たな認知のクセを獲得できたからこその信念でもあるとも言えるだろうか。
おわりにーー違和感は関係と成長の入口
文脈のズレは、関係の破綻の予兆ではなく、まだ接続されていない世界同士が偶然触れた瞬間なのかもしれない。
そのときに
すぐに判断して閉じるのか
保留して、問いをひとつ差し出してみるのか
その小さな違いが、他者理解の深さだけでなく、自分がどんな世界に生きることを選ぶのかをも分けているように思う。
「保留」とは優しさというより、世界を自分の理解の大きさに閉じ込めないための知的な態度なのだろう。
そしてそれは、異文化理解の話にとどまらず、日常のあらゆる場所で起きている「文脈のズレ」に対して、私たちが取り得る、ひとつの成熟した向き合い方なのだと思っている。
最後までお読み頂きありがとうございました☆
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