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私の人生の軌跡 ② 「子育てと仕事のバランスのとり方」☆☆

私の人生の軌跡①は、「なぜ保育者を目指したのか」について書いてみた。

今日は、少し長くなってしまうが、「子育てと仕事のバランスのとり方」について考えてみたいと思う。

お付き合いいただけたら嬉しい(*^-^*)

私が子どもだったころ

私は、働く母のもとで暮らしていたので、女性でも仕事を持つのは当たり前と思っていた。

でも、母が仕事をしていることで寂しさも感じていたから、自分が子育てをするときには、子どもに寂しい思いをさせない生活を夢見ていた。

母が仕事をしていることによる寂しさ、母が弟に心が向いてしまう切なさは子ども心に身に染みて感じていた。

決して母を否定もしていないし、母の社会的な活動や仕事への思いは、今でも尊敬をしている。
でも、子ども心は、
「私が寂しいか、寂しくないか。切ないか、切なくないか」
なのだ。

たとえば、私の両親は教員だったため、私の学校行事には参加してくれたことはなかった。

運動会でさえ、市内の小学校は同じ日に行われていたので、見に来てくれるのは祖母だった。(それが当たり前ではあったけど、友達が両親に応援されるのを見るのはちょっと寂しかった)

また弟が生まれてからは、母は弟の授業参観には参加したが、同じころに行われる私の授業参観には参加できなかった。
昔は今以上に、働く人が、特に教員がわが子のために休みを取るなんてことはなかなかできないことだったのだと思う。

熱が出ても、高学年になると食事と薬を置いて、母は仕事に行った。

小学校の卒業式にも両親は出席出来なかった。
ただ救いは、父が自分の学校の卒業式が終わった後、みんなで庭で写真を撮り合っている時に、駆けつけてくれたことだ。

私は卒業式には泣かなかったけど、父が庭に駆けつけてきてくれて、写真を撮ってくれた時に、号泣したのを覚えている。

そんな私だから、私は子どもが生まれたら、仕事はしない、仕事をしたとしても子どもの行事には全て参加する、と心に決めていた。


就職・結婚

大学を卒業してから最初に就職したのは、「障碍児施設」だった。
ここでの経験、学びは大きいものがあった。

就職した施設は、「知的障碍」を持つ子ども達だった。その中には、自閉症の子ども達、スペクトラムの子ども達もいたし、家族が子ども達を養育できない保護者もいた。この5年が私のそのあとの思いに繋がっている。
続けていきたい気持ちはあったが、不規則勤務、また夜勤もあったので、結婚生活とのバランスも考えて結婚する年の3月に退職し、5月に結婚式をあげた。

結婚式が終わって、新婚旅行から帰ってくると、「保育園で働かないか?」と声をかけられ、子どももいないそのころの私にとっては家にいることに意味があまりなかったので、6月末からパート職員として働き始めた。

妊娠

そのうち「正職員として働かないか?」と声をかけられ、また子どもも授かっていなかったので承諾したら、その後すぐに、妊娠が発覚してしまった。

今思えば、園には迷惑かけたなと思う。

そして長男がその年の12月に生まれた。産前産後休暇を取り、一年産休を取ることにした。

ところが、園の都合で夏に復帰をしてくれないか?と声をかけられた。

私は完全母乳だったので、復帰できるかお試しをさせてもらうことにした。

半日から仕事のお手伝いを始めたが、母に預けた長男のことが気にかかり(それまで離れた過ごしたことがほとんどなかった)、おっぱいも腫れてきてしまい、帰宅後長男の泣いて私を求める姿に、苦しくなり、一年は産休を取りたいと申し出た。

でも、復帰の時が近づくと、長男を置いて仕事に行くこと、それもわが子を母に預けて保育の現場で働くことに抵抗を覚えて、結局悩みに悩んで、退職を申し出た。


退職・子育て

産休明けの悩みが無くなったので、気持ちも晴れやかに、子育てを楽しんだ。

友達と「子育てサークル」を作り、仲間を集めて、公民館などを利用していろいろな行事を楽しんだり、「読み聞かせの会」を開いて、親子での「絵本の読み聞かせ」の場を作ったりした。

育児日記、母子健康手帳をしっかり書き綴り、長男中心の生活だった。

そして、長男が2歳になる前に二人目を妊娠し出産した。

子育てと育児サークルを楽しみながら、長男は3歳になるので、私や長女といることで思い切り遊べないのもかわいそうに思い、私は夫の仕事を手伝うと届け出をして、保育園へ。

長男が思い切り遊んでほしいという思いと共に、長男の時も二人で長男中心の時を持ったので、長女にもその時間を与えたかった。

だから、私自身は長女の子育てをして仕事は始めることはなかった。
(今でこそ、保活と言われるほど、保育園に入るのは大変だろうが、私の子育て中は、意外と融通が利いていたのかもしれない)

長男は保育園に通い始めたが、仕事もしていないので、集団生活にストレスが来ないように、長男の様子を見ながら、長女と一緒に遊びに行ったり、保育時間も短くしていた。

長女が3歳になる年に、そろそろ長女にも園生活を経験させたくて、仕事を始めようかなと思うようになった。

でも、やはりわが子を保育園に預けて、保育の仕事にはつきたくなかった。他の子を見ていて、わが子を人に預けることに抵抗があったのだ。(あくまでも私は、だが・・)

その頃、通信教育で「医療事務」の勉強をしていた。
家の近くに新しい診療所がオープンするというので、応募したら、採用されて、仕事を始めたため、長女も保育園に通うようになった。

再就職・診療所医療事務およびデイケア

そこでは医療事務だけではなく、高齢者の「デイケア」も開いていたので、ピアノも弾けた私は、高齢者と一緒に歌を歌ったり、ゲームをしたりという仕事もしていた。

高齢者の方との関わりも学べたし、看取りもしたり、今に繋がる良い経験とはなっていた。

ただ、仕事を始めると子育てと仕事の葛藤が始まった。

保育園を卒園すると、子ども達は学童保育にも入ったが、習い事も子ども達の希望で始めていたので、父と母にも何かとお世話になりながら、仕事を続けていた。

診療所の仕事は、特に、保険請求の一週間は毎晩帰りが遅く、日常的にも遅番では帰りが20時を過ぎてしまったので、学童保育にお迎えさえ行けなかった。
子どもが熱を出しても通院後、母や義母に預けて働いた。

それでも子ども達の学校行事にはできるだけ参加した。それは私の信念だったから。

でも周りに助けられて働くそんな生活が続き、子ども達にも充分に手をかけてあげられない、夫や家族に迷惑をかけることに「私は何をしているのだろう」と思うようにもなった。

ある日、少し大きくなった子ども達(長男が4年生、長女が2年生のころ)に聞いてみた。

「ママが働いていると、あなたたちは寂しくない?ママに仕事を止めてもらいたいと思ったことはない?」と・・。

すると、長男がいうのだ。

「ママは、今の仕事で必要とされているのでしょう?必要とされているのなら続ければいいよ、僕は寂しくないよ、学童も好きだし・・」と。。。

本当にこういったのだ。

長女は、長男が言葉を言ったため、何か言いたかったかもしれないが、何も言わなかった。

私は号泣した。
そして逆に、「私がここで必要とされているのか?私はこの仕事がしたいのか?この仕事は私でなくてもいいのでは?」と思った。。

そして、私は5年勤めた診療所を退職した。


保育業界に戻る

しばらく仕事から離れていると、また保育園から声がかかった。

この時も夫と子ども達に聞いた。

「保育園でお仕事をしてくれって言われているのだけど、お仕事してもいいかな~」

三人とも

「頑張ってみたら?、僕たちは大丈夫だよ」。。。

そして、私の保育業界への復帰が決まった。

私はその時に、保育園に要望を出した。

「子ども達の行事には出来るだけ参加したい、母や父にも応援はしてもらうが、子育てを大事にしたい」。。と・・。

前と同じ後悔はしたくなかったから。

了承をもらって、それ以降退職まで(転職は同じ法人内などで数回あったがどこの園でも)、基本すべての行事に出来るだけ参加するために有給をとった。

保護者会の役員は二人とも一年ずつ取り組んだし、長女の時には、学年委員長もして、卒業式に謝辞も担当した。
働いていても出来るやり方を考えた。

そして、それは私だけではなく、子育て中の保育者を私と同じように支えるのも私の役目だと思った。
子どもの行事等では休みを積極的に取るように声をかけたし、休めるよう配置を考えたりもした。

主任や副園長になり、新年度のクラス配置を考える時には、それぞれの保育者の子どもの年齢を考えて、

「今年はあの先生の子どもは年長だから、あの先生を年長にするのは止めましょう」

「来年が忙しそうだから、今年、年長組を持ってもらいましょう」
などと園長に進言したりもした。

有給もしっかり消化するようにみんなにも働きかけた。またお互いに支え合うことを伝えあった。

頑張るときは頑張り、支えてもらうときは感謝して、休みをもらう、そんな職場にしたかった。

正当論だったとしても園運営を考えたときに園長や経営者は時には不快な思いもしていたと思う。でもそれを一緒に取り組んでくれたことに感謝している。

誰かがやらないと職場の環境をより良いものにしていくことはできない。

その分私は、仕事に向かうときには、精一杯働いた。休んだ職員の穴埋めも頑張った。
働く環境をある程度整えてから、私は次の夢に向かって保育業界を退職した。

子育てと仕事の両立を振り返って

母が私を子育てしている時にしたくても出来なかったこと、
私は、「仕事をしない」選択ではなく、
子育てと仕事を両立できるような仕組みを提案し職場を、保育業界を変えていきたかった。

働くことを選択した場合は、零歳児であっても働き続けられる環境を作りたかった。

時代は日進月歩。。。労働政策も変化して、今ではだいぶ子育てしながら働きやすい環境にはなってきているように思う。

そうはいっても、働きながら子育てをするのは大変なことだ。

働きながらの日々の食事作り、お弁当作り。。
熱を出した時には誰が休む?
部屋が片付かない、掃除ができない
毎日慌ただしく、つい
イライラしてしまう

などなど・・・今思い出してもよくやっていたなと思う☆☆

でも、それは私一人で出来たことではなくて、父と母の支え、義母の支え、そして夫の支え、職場の支えがあって成り立っていたこと。
また夫や子ども達が私が働くことを認めてくれていたので、それでも頑張ることができたように思う。

夫も子ども達も認めてくれていても思いは色々あっただろう。
特に子ども達にしてあげたくても出来なかったことも沢山あった。

夫や大人になった子ども達と昔のことを話すこともある。素直に「あの頃は色々してあげられなかったけど、支えてくれて一緒に頑張ってくれてありがとう」と言った。
家族はみな過去のことも認めてくれている。

だから私は、母の気持ちも寂しかった私の子ども時代も受け入れられたのだと思う。


時代がどんなに進歩しても、まだまだ「母」が背負うものは大きい。

特に働きながらも子育ては葛藤の毎日・・。

それでも、過ぎ去ってみれば、なんとか頑張れてきた。

だから私は、今子育てをしながら働いている沢山の方々にエールを送りたい。

◎働き方は家族とも相談しよう
◎周りに支えを沢山作ろう
◎自分の権利(有給をとるなど)を守るために怖がらずに挑戦しよう
◎自分は頑張っていると自分を誉めてあげよう
◎家族に感謝しよう
◎自分のための時間も確保しよう


大変だった日々はあるが、家族がいること、愛するものがいることは幸せだ。

自分の命に代えても守りたい存在・・
その存在に出逢えることは幸せなことだ。

そして、家族の一人一人が幸せであること、それがわたしの幸せだ。

だから、女は、母は、強くなれるんだと思う。

少なくとも、私は、愛する家族がいること、最高に幸せだ💛
それが私の働き方とのバランスをいつも考えるきっかけになっていたと思う。

これからも、家族が一番、親孝行、夫孝行、そして親バカであることを大事にしていきたい。


次回の私の人生の軌跡、では
定年前に保育業界の退職を決めたきっかけ、退職してからの思いと今していること、そしてこれからしたいと思っていることを書いてみたい❤️


今日も読んでくださり、ありがとうございました<m(__)m>




【書いた人】
江村恵子@終活ワーカー/ゆるふわおしゃべり相談所

「恵子」さんと呼んでください(*^-^*) 

保育業界を退職して、
縁あって 
『終活』に関する学びと広める活動をしています。

今は、群馬県の 
『終活アドバイザーサークルの代表』を
担っています。 

Noteでは、 
『喜んで豊かに生きる素敵な人生』 
について、 
『終活』(人生の終わりのための準備) 
について、 
また趣味である畑仕事や旅行、
家族のこと・エッセイ 
などを書いています。


終活ワーカー(終活のお手伝いをする人)
終活コーディネーター(リンクワーカー)として、 
「素敵に生きる人生について」
オンライン、オフラインで
「ゆるふわに」お話し会や 座談会、雑談会
相談会などを開催しています。

Twitterもしています。 
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よろしくお願いいたします<m(__)m>


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