「父の最期の時」と父の命日の昨日、思い出を語り合ったこと☆彡
昨日は父の「命日」でした。
4年前の冬、突然体調崩し、入院して次の日に亡くなった父。
肺血症でした。
あっという間に亡くなりましたが、さまざまな病気を抱え、いつ何があってもおかしくない状態ではあったのです。
父が亡くなるとき、そばにいたのは、私一人でした。
だって、だれも入院して次の日に亡くなるとは思っていないから。。。
入院の知らせを聞いて職場から駆け付けた私と母に主治医の先生は、確かに
「合う抗生物質が見つからなければ危ない。。」というようなことを言っていました。
「敗血症」と言われ、たぶんもちろん調べたとは思うのですが、「きっと父に合う抗生物質が見つかる」と思ってしまった私と母。
何度も何度も不死鳥のように蘇っていた父だったので、今回もまた治療をして家に帰れると思ってしまったのです。
今、あらためて「敗血症」とは、と調べてみると、体力のなかった父が蘇るなんて「希望」でしかなかったのだと思います。
肺血症とは(肺血症情報サイト)
肺血症とは生命を脅かす感染に対する生体反応です。 組織障害や臓器障害をきたすため、集中治療室(ICU)での全身管理および治療が必要になります。 ショックや著しい臓器障害をきたす場合は死に至る場合もあります。
でも、あの時に主治医が「危ない」ことをもっともっと強調してくれたら・・
最後の最後、あんな苦しい思いをさせなくて済んだのではないか。。。
いや、主治医のせいではない、主治医を責めることなんかできない。
もっと私が「危ない」ことを自覚していれば。。。
いまだに、あの最後の時の私の葛藤と判断が私を責めてきます。
父は半年前から「透析」をしていました。
今では、その「透析」は「延命治療の一つ」だったと知りましたが、父が「透析」を開始するころの私はそのことを知りませんでした。
最後の入院の時に、「敗血症」の治療と共に、「透析」も開始。
「透析」の治療は、苦痛を伴うものらしいのです。
でも私は、父が「透析」をする現場にいたことはなかったので、その苦しさを知らなかった。
確かに一日おきの「透析」を嫌がり、「行きたくない」と言っていたけど、「行かなきゃダメでしょう」と送り出していた。(病院が迎えに来るのです)
父は生前「延命治療はしたくない」と言っていました。
そのころの私は延命治療とは、呼吸器をつける、意識がないのに治療を続けることくらいに思っていたので、
私の判断も父の思いとは合わなかったのかもしれない・・・
そして、父の最後の日、入院をしてから透析を開始する前は、元気だった父。
話をして、体操もして、だからこそ、母はいったん家に帰った。
でも、「透析」を開始したら、本当に苦しそうになり、「透析」をしている間は、身体を動かすことができないため、少しでも動こうとすると看護師に「動かないでください」と言われる。。
脈も乱れ、息も苦しそうで。。
それはもちろん「透析」のせいではなく、「敗血症」の治療がうまく進んでいなかったから、だったのだと思いました。
そうだとしたら、私は「透析」を止めて、自然な形で見守りたいと、看護師に相談しました。
すると看護師は「透析をしないと命が危ない」と言うのです。
それでも私は「主治医に相談したい」と申し出ました。
すぐにでも外してあげたかった。。でも病院としては、外すことで「死」を迎えることはしたくなかったのかもと今では思います。
何故かと言えば「透析」は延命治療だから。。。。
結局、主治医と話すこともなく、苦しむ父をそのまま「透析」の管につないだまま、見送ることになったのです。
父は最後まで私の声を聴いていました。
私の生前の最後の声かけに父はしっかりとうなずいたのです。
私は、死を迎えるまで、身体を撫で続け、「眠れるといいね、寝ていいんだよ」と声をかけました。父はうなずき、それからすぐに脈が乱れ、亡くなったのです。
その姿を思い出すたびに父は私が「OK」を出したから、天国に向かったのでは、と思っています。
脈が止まり、看護師が慌ててドクターを呼びに行きました。
その間も、声をかけ続けました。
「お父さん、大好きだよ」
「お父さん、いっぱい愛してくれてありがとう」
「神様、おとうさんをどうぞ褒めてあげてください」
あたまを撫で、額にキスをして、言い続けました。
医師が来て、どんな話をしたのかは覚えていません。
ただ、私は「母と弟が来るまで待ってください」と言ったのは覚えています。
母と弟と夫、そして子ども達に連絡をして、それから「母と弟」が来るまで、声をかけ続けました。
父を見送り、その次の年に、義父母を見送り、私は「終活」を学ぶことにしました。
「意思を尊重すること」そのためには、何が必要か。
「見送る側の思い」「自分を責める」思いに、何が必要か。
「生きている間の家族との関係」はどうあったらいいのか。
色々なことを学びました。
それでも、父の死については、自分を責めてしまう心はずっと消えなかった。。。
最後を苦しませないで見送りたかった・・
最後に母に会わせたかった、弟や夫、孫たちに会わせたかった・・
でも、父は、「蝶」になって毎日私のところにあらわれ、空を見れば「笑顔」を見せてくれ、私を支え、
「自分を責めなくてもいいんだよ、私は恵子を愛しているよ」と言ってくれている。。
そう感じるようになり、自分を責める気持ちが減ってきたような気がします。
今までnoteで父のことは何度も書いてきましたが、父の最後の時の私の葛藤や自分を責める気持ちについては書けませんでした。
でも、丸4年経って、ようやく書くことができました。
昨日、丸4年を迎えて、母と夫と弟と4人で父を偲ぶ時間を持ちました。
それぞれが「父の思い出」を語りあいました。
母は「出会ったときの父の様子」それから「恋」をして、結婚をして、一緒に歩んできたけど、それでも、いまだに「もっと大切にしてあげればよかった」という思いになることもある、と言っていました。
87歳になり、父を見送って4年経ってもなお、父を「愛し続ける」母の姿に涙しました。
弟は父が入院する前の様子を話してくれました。
そのころ、毎日のように「花札」をしたり、「ゲーム」をしたりして母と父と弟と楽しんでいたこと、入院する前の日にいつも大敗する父が最後の勝負で勝利して、とてもご機嫌で鼻歌を歌いながらお風呂に入ったこと。
幸せな入院前日の様子を聞いて、嬉しい気持ちになりました。
夫は、父が何度入院しても、帰ってくると「畑仕事」を始めたり、洗濯を干したり、とにかく働き続けている姿を思い出す、と言っていました。
その父の姿を見て、夫は父を尊敬し、父のように動いてくれる人になっている様な気がします。
私は、退職して父の遺した畑や庭仕事をするたびに「蝶」が現れ、空を見るたびに父の笑顔を思い出し、私を励まし、私を許してくれている様な気がすること、そして、「命日の朝」読んだ俳句をみんなに知らせました。
☆彡君想う命日の空冬北斗

母は父の写真のところに私の句を書いて置いてくれました。
これからも私達家族は、父を想い、慕い、生きていくと思います。
そして、そんな私たちを空の向こうから、見守ってくれていると信じています。
今日は少し重い話でしたが、
お付き合いいただき
ありがとうございました
<m(__)m>

父について書いた記事を貼り付けます。まだ読んでいない方は、良かったら読んでみてください。(昨年の#今年のいっぽんにした記事です)
「書いた人】
江村恵子@夢応援・ゆるふわ雑談会です。
「恵子さん」と呼んでください。
⭐つなぎびと⭐ 元保育士/
1種幼稚園教諭/終活アドバイザー/
終活ライフケアプランナー/
身上監護アドバイザー/終活ガイド上級 ☆/
心理カウンセラー勉強中☆彡
好きなもの・好きなこと💓/
家族、旅行、自然、家庭菜園、空、新緑、花、
読書、俳句、おしゃべり、カーブス
尊敬する人/マザーテレサ
リアルでは
「終活アドバイザー群馬サークル」
代表。
オンラインでは、元保育者として、
母として、終活ワーカーとして
「素敵に生きる人生について」について
発信をしながら、
「ゆるふわ雑談会」を開催中。
また、仲間と立ち上げた「夢☆相談室」の室長もしています。
Twitterもしています。
Twitterでは、
特に自分で撮った花や自然について
投稿したり、
同様の投稿をしている人をフォローしたり
RTしたりしています。
Noteとも共有で投稿することも多いです
https://twitter.com/mix8853
よろしくお願いいたします<m(__)m> #父のこと
#延命治療
#死
#命日
#エッセイ
#毎日note
いいなと思ったら応援しよう!
サポートありがとうございます!感謝感激です💛