【歴史再訪㉖】大王アッティラを継ぐ者たち❼ オドアケル⑴ イタリア入り前の足跡
ボリア河畔の戦い(469年頃)での敗北後、エディコ/エディカの息子フヌルフとオドアケルは新天地を求め、兄フヌルフは東ローマへ、弟オドアケルは西ローマへと、別々の道を進んだ。
前回の、その後のフヌルフの足跡の探求につづき、今回はオドアケルのそれを探求していく。
♯ オドアケルの出自
エデコとの父子関係、フヌルフとの兄弟関係については記事❹❻においてふれた。
ここではオドアケルの出身部族について、あらためて確認しておきたい。
すでに提示した史料報告ではあるが、関連する箇所をあげると――
「アウグストゥルスがラヴェンナで父オレステスによって皇帝に任命された。それから間もなく、チューリンゲン族の王オドアケルがスキリー族、ヘルリー族、および他のさまざまな部族からの補助部隊を率いてイタリアを占領した」
「西方の王国では、オレステスがネポス帝を追放し、自分の息子アウグストゥルスを帝位に就かせた。しかしすぐにルギー族のオドアケルがチューリンゲン族、スキリー族、そしてヘルリー族の集団によって強化されて、イタリアに侵攻し、皇帝アウグストゥルスを権力の座から引きずり下ろし、彼をカンパニアのルクラン城砦へ追放の刑に処した」
「オドアケル、彼はスキリー族と呼ばれる部族の男で、父はイディコン、兄弟はアルマートゥスの護衛で、のちにこれを殺害したオノウルフォスであった」
見られるようにチューリンゲン族・ルギー族・スキリー族と、三者三様であり、ヨルダネスにいたっては異なる著作で異なることを言っていて、読む者を当惑させる。
『スーダ事典』におけるフヌルフの出自の説明、
「オノウルフォスは父方からチューリンゲン部族の、母方からスキリー部族の出自である」
という説明が、オドアケルの場合も妥当なところといえようか。
しかし、部族集団の離合集散・混淆が常態化していた時代、出自した特定の部族を求めることは、あまり有意ではないようにも思われる。
♯ イタリア入り前のオドアケルの足跡
オドアケルは西ローマ・イタリアをめざすのだが、イタリアへ入る前に、推測・仮説を含めて2つばかり足跡―逸話を残している。
▪ 聖セヴェリヌスとの出会い
『アノニムス・ウァレシアヌス』の中の6世紀前半に書かれた「断片」(記事❹を参照)はイタリアへ入る前のオドアケルに関して、つぎのような逸話を伝える。
上で述べたオドアケルは、アウグストゥルスを統治から追放してすぐに王となり、13年間王座に留まった。彼の父はアエディコと呼ばれ、彼(オドアケル)についてはパンノニアの修道士聖セヴェリヌスの生涯を記した本の中で言及されている。彼(聖セヴェリヌス)は彼(オドアケル)に助言し、彼の将来の王国を予言した。そこ(聖セヴェリヌスの伝記)にはつぎのような文が見られる。「いく人かの野蛮人たちがイタリアへ向かう途中、彼らは脇道に寄り、セヴェリヌスの祝福を得る目的でセヴェリヌスの住居に赴いた。彼らの中には、後にイタリアを統治するオドアケルも含まれていた。背が高い若者であったが、服装はとても貧相であった。彼は、非常に質素な庵の天井が頭頂部に触れないように身をかがめながら、自分が栄光に達するであろうことを神の人(聖セヴェリヌス)から知った。オドアケルが別れを告げると、『行け』とセヴェリヌスは言った。『イタリアへ行きなさい。今は薄っぺらな皮を着ているが、すぐに多くの人に素晴らしい贈り物をできるようになるでしょう。』」そうこうするうちに、神の僕が彼に予言したとおり、オドアケルはイタリアに入るとすぐに王位を得た。
聖セヴェリヌス(c.410-480)はパンノニアの西方の「ノリクムの使徒」とされる修道者で、元の話は彼の弟子エウギッピウス(c.465-c.533)の著作『聖セヴェリヌス伝』(6世紀初)で語られている。
念のため、『聖セヴェリヌス伝』の当該部分も紹介しておきます。
ちなみにエウギッピウスは後年(492年頃)、ロムルス・アウグストゥルスの流刑地、ナポリのルクルス城砦に修道院を設立する。師セヴェリヌスの遺体もこの地に移して埋葬されたという。
・・・イタリアへ向かう途中の野蛮人たちが、わざわざ道を引き返して彼(聖セヴェリヌス)の祝福を求めに来たほどであった。
その中には、後にイタリアで統治することになるオドヴァカルもいた。彼は当時は、ごく質素な風貌の背の高い若者だった。彼は、その粗末な庵の天井が頭に当たらないよう身をかがめたとき、その神の御使い(聖セヴェリヌス)から、自分が栄光に導かれる運命にあることを悟った。そして彼が別れを告げようとしたとき、その男は彼にこう言った。「イタリアへ行きなさい。今は最もみすぼらしい皮を身にまとっているが、やがて多くの人びとに多くのものを授けることにになるだろう」と。


『聖セヴェリヌス伝』から読み取れることとして――
第一に、『聖セヴェリヌス伝』の伝える「予言」云々は創作であるとしても、一体に、オドアケルがボリア河畔の戦い(469年頃)での敗北後に部族民を引き連れて、パンノニア・ノリクム経由でイタリア入りした可能性はおおいにあるといえる。
第二に、その途中、修道者セヴェリヌスと邂逅した可能性も、ここでは詳細は省くが後年見られる、オドアケルとルギー族との戦いの関連から、またエウギッピウスのルクルス修道院設立の関連から、ありえよう。
▪ サクソン(ザクセン)人たちの領袖としてガリア襲撃?
イタリア入りする前のオドアケルの姿として、時おりあげられるのが、ガリアで略奪行をする部族集団の首領である。
すでに【歴史の中の名前百選㉕】「オットーはオドアケル!」において扱ったことであるが、あらためて簡単に記す。
トゥールのグレゴリウス(c.538-c.594)はその『歴史十書』(『フランク史』)第2書、18-19章において、464-465年頃、ガリア(オルレアン、アンジェ)に侵入したサクソン(ザクセン)人の領袖オドウァクリウス/アドウァクリウス Odovacrius / Adovacrius の名を伝えている。
この460年代のガリアを襲撃するサクソン人の領袖オドウァクリウスを、われわれのオドアケルと同一人物とする見解があるのだ。
これによるならば、オドウァクリウスは、イタリアで頭角を現す直前の時期のオドアケルである。
すなわち、オドアケルはアッティラのフン帝国の崩壊後、蛮族の集団を率いてドナウ河流域から西ヨーロッパ、ガリアに移って転戦し、その後イタリアへ入るのであり、トゥールのグレゴリウスの記述は、むしろオドアケルが機動性に富んだ指導者であったことを証拠立てるものでもある――、とされる。
わが国でも佐藤彰一氏が、古代末期から中世初期への移行期、西ローマ・ガリア世界を展望するための、徹底的な人物史的サーヴェイの一環として、オドウァクリウスをオドアケルと同一人物として事態を描いている。
この所説について問題となるのは、一つはトゥールのグレゴリウスが、オドウァクリウスをサクソン人たちの領袖、軍事指揮者といっていることである。
オドアケルが出自する部族については先に見た。チューリンゲン族・ルギー族・スキリー族と、出身部族について、史料報告は割れていたが、サクソン人とするものはなかった。
しかしサクソン人を率いたことは、直ちにオドウァクリウスがサクソン人であることを意味してはいまい。雑多な部族集団を率いることは、むしろ当時の軍事指揮者にあっては有用な属性ともいえる。
先にのべたことの繰り返しになるが、そもそも当時の部族集団の混淆性・流動性を考慮するなら、オドアケルであれ、オドウァクリウスであれ、特定の民族・種族・部族集団に帰属させることはあまり有意ではあるまい。
もう一つの問題は時期に関する、微妙なずれ。
通例、オドアケルがパンノニアを離れるのは、ボリア河畔の戦い(469年頃)の敗北により、スキリー王国が崩壊したためと見られている。
しかしオドウァクリウスのガリア(オルレアン、アンジェ)侵入の時期は、明確に確定はできないが、464-465年頃とされている。
そうであるならば、オドアケルが自己に従う小集団を率いて、ドナウ河流域から西ヨーロッパ、ガリアへ移って転戦する時期は、ボリア河畔の戦い以前ということになる。
と、なると、例えば兄フヌルフとの別れなどについては、別の「ストーリー」が用意されなければなるまい。
だが「ストーリー」の組み直しは、波及的に、別の「ストーリー」との整合性をどうとるのか、という問題を引き起こす。
例えば上の『聖セヴェリヌス伝』から窺われる聖セヴェリヌスとの邂逅は、いつの時期に据えられべきなのか。あるいはこの邂逅という想定は退けられるべき、とするのか。
少なくとも、パンノニア → ガリア → ノリクム → イタリア という移動ルートはありそうにない。

穏当と思われる判断は、オドアケルとオドウァクリウスをゲルマン系の同根の名前であるとするところまでである。
そこからさらに、オドアケルとオドウァクリウスを同一人物と見る説は、これを積極的に裏づけるものはなく――これが一番の問題点――、あくまでも仮説、興味深い、想像力を掻き立てる、面白い仮説、にとどまっているといわねばなるまい。
♯ 西ローマ帝国末期の政治情勢 ウァレンティニアヌス3世の即位からアウィトゥス帝の登極まで
さて、その後のオドアケルの足跡は――
しかし、イタリア入り後の彼の事蹟は、あまり分かっていない。
そこで、以下では、オドアケルと同様に西ローマ政界の頂点に立ったゲルマン人、リキメルを先行例として、彼・彼らが活躍できた時代背景・政治背景などを確認し(今回)、そのあと改めてオドアケルの政権掌握にいたる過程を見ていきたい(次回)。
西ローマ帝国では、皇帝ホノリウス(†423)が死すと、高官ヨハンネス(423-25)が皇帝位に就くが、ホノリウスの甥である東ローマ皇帝テオドシウス2世(408-450)はこれを認めず、419年生まれの従兄弟ウァレンティニアヌスを立て、イタリアにアスパル(記事❻を参照)率いる遠征軍を送ってヨハンネスを破り、幼いウァレンティニアヌス(3世)を西帝の座に就ける。
そのウァレンティニアヌス3世の宮廷では母ガッラ・プラキディアが摂政として実権を握ったが、まもなくガリア方面軍総司令官(マギステル・ミリトゥム)のアエティウスと権力を争うことになった。
アエティウスは、西ゴートやフンのもとでの人質生活の間に軍事的才覚を身に着け、有能な軍人として頭角を現したローマ人である。
東ローマ側の圧力を恐れたヨハンネス帝により、フンのもとへ支援を求めるべく派遣された。フンの援軍とともに帰還したときには、すでにヨハンネス帝は殺害されており、アスパルと戦うも、最終的に新帝の母ガッラ・プラキディアと和解し、フン軍を説得して撤退させた。
ガッラ・プラキディアとアエティウスの闘争は内戦に発展し、433年にアエティウスが勝利して実権を掌握する(433 軍事総司令官;434 パトリキウス)。
以後20年間、彼は宮廷を牛耳る一方、蛮族との戦いを繰り広げ、451年にはフンのアッティラと直接対峙する(カタラウヌムの戦い)など、西ローマ帝国の防衛に活躍した。
454年、アエティウスは、元老院議員ペトロニウス・マクシムスの使嗾もあって、ウァレンティニアヌス3世の不信が高じ、9月、同皇帝に謁見中、皇帝自らの剣で殺害されてしまう。
なお、この時、アエティウスの元高官マルケリヌスはダルマティアへ逃れ、以後、ダルマティアに事実上独立した勢力圏を確保し、後述するリキメル支配下の西ローマで政治的影響力を及ぼす。
さて、アエティウスの死後、その跡をねらったペトロニウス・マクシムスは、ウァレンティニアヌス3世がこれを拒否したため、アエティウスの元部下(友人?)で、ウァレンティニアヌス3世の護衛をしていたフン人を使って、ウァレンティニアヌス3世を暗殺するにいたる(455.3)。
かくしてペトロニウス・マクシムスが皇帝位(455.3-455.5)にのぼる。
そのわずか2か月後の455年5月、北アフリカの、かつてのカルタゴの地に王国を建国したヴァンダル族の王ガイセリックが、イタリアに侵攻した。
ヴァンダル族の襲来の知らせに都市ローマはパニックに陥り、ペトロニウス・マクシムス帝は、無策に終始し、混乱の中、群衆によって殺害されてしまう(455.5.31)。
2日後(455.6.2)、ガイセリックは都市ローマを占領し、2週間にわたりほしいままに掠奪して、ようやく退却する。



翌月(455.7)、皇帝位が空位となったのを好機と見て、ヒスパニアの西ゴート王テオドリック2世は西ゴート王国の首都トゥールーズにおいて、アウィトゥスを皇帝に推戴させる。
アウィトゥスは9月、西ゴート軍に護衛されてローマ入りする。
アウィトゥス(c.385~475)はガリア(オーヴェルニュ)出身のローマ人貴族で 、アエティウスのもとで官・軍の顕職を勤め、引退していたが、ペトロニウス・マクシムス帝により中央軍総司令官(magister militum praesentalis)に任じられ、西ゴート王テオドリック2世の支援を得るべく、ガリアに派遣されていた。
そのアウィトゥスをテオドリック2世が擁立した次第である。
かくして、西ローマ帝国の454年9月~455年9月の1年間は、アエティウスの横死に始まり、ウァレンティニアヌス3世の暗殺、ペトロニウス・マクシムス帝の殺害、ヴァンダル族のローマ掠奪、西ゴート族の支援によるアウィトゥス帝の登極、と、情勢の目まぐるしい変転、政情の混乱に特徴づけられる。
こうした中で、蛮族出身のリキメルが頭角を現し、西ローマの実権を握るにいたる。
オドアケルに先行して活躍した例として、以下、リキメルを中心に見ていこう(記事❺を参照)。

♯ 西ローマ帝国末期の政治情勢 リキメルの登場
はじめにリキメルの出自と閲歴についてふれよう。
リキメル(c.405~472)は、シドニウス・アポリナーリスのアンテミウス帝への頌詞panegyricus(468年)の中で、父方はスエビー族、母方は西ゴート族といわれ、母方の祖父は西ゴート王ワリア(415-418)と明言される。
ちなみにワリアは移動期西ゴート族の最後の王で、ヒスパニアに西ゴート王国を建国した(418)ことで知られるが、その死後(†418)、王位は王家(バルト家)の別系統に引き継がれ、リキメルの一族は後継争いに破れ、ヒスパニアから西ローマへ移ったと考えられている。
おそらくはヒスパニアから西ローマへ移ってのち、ローマの軍務職を歩み、その過程でアエティウスの知遇を得たと思われる。
すなわち、シドニウス・アポリナーリスの詩carmen(carmina, v, 266–268)によれば、僚友であるマヨリアヌス(後の皇帝)とともに、全軍の総司令官(マギステル・ミリトゥム)アエティウスのもとで勤務しているのである。
転機はアウィトゥス帝のもとで訪れる。
アウィトゥスが帝位(455.7~456.10)に就いたさい、リキメルはイタリア管区総司令官(マギステル・ミリトゥム)に任命される。
456年、ローマの正規軍とゲルマン人傭兵から成る軍隊ならびに艦隊を編成し、ガイセリックのヴァンダル王国軍がローマを去った後も、海軍をもってイタリア海岸を制覇していた状況の中、シチリア島のアグリゲントゥムでヴァンダル海軍(ガイゼリックがシチリア島襲撃のために派遣した60隻から成る艦隊)を撃退し、コルシカ島へ向かったヴァンダル艦隊を海戦で破った。
♯ リキメル、キングメーカーへ
この、対ヴァンダル戦での勝利に自信を得て、リキメルはアウィトゥス帝の追い落としを謀り、僚友マヨリアヌスとともに反旗を翻す。
アウィトゥス帝は、ともにローマへ来った西ゴート人の横暴な振る舞いなどにより、ローマ人貴族らに不人気だったのである。
456年10月、ラヴェンナにおいてアウィトゥス帝の右腕であった西ゴート人、マギステル・ミリトゥムのレミストゥスを破り、ガリアで兵を集めてイタリアに帰還しようとしたアウィトゥス帝を、北イタリアのプラケンティア(現ピアツェンツァ)で捕らえ、廃位させた。
知らせを聞き、東ローマ皇帝レオ1世は、456年中にリキメルをパトリキウスに、457年に入って全軍の総司令官(マギステル・ミリトゥム)に任命し、マヨリアヌスをイタリア管区の総司令官マギステル・ミリトゥムに任命する。
後述するように、後年、東ローマ皇帝ゼノンは皇帝不在となった西ローマ帝国について、オドアケル、ついでテオドリック(大王)を皇帝代理とすることで、形式的には東ローマ皇帝単独での、東西両帝国の統合を図ったが、レオ1世は、すでに456/457年に、同様の考え・思惑をもっていたと思われる。
さて、リキメルの僚友マヨリアヌスは、イタリアに進攻したゲルマンのアラマン族を北イタリアで撃退し(カンピ・カニーニCampi Caniniの戦い)、457年4月、ラヴェンナに近いアド・コルメラス(ad Columellas)と呼ばれる場所で、軍隊により皇帝に推戴(457.4~461.8)される。

リキメルはこれを認めるとともに、レオ1世に承認を促す。
おそらくリキメルは、ローマ人ではなく蛮族のゲルマン人出身であることから、自ら皇帝になることを憚り、傀儡としての皇帝を擁して実権を掌握する途を選んだと思われる。
ただしマヨリアヌスはリキメルに操られるのを良しとせず、自立的な施策を実行する。
ここにいたってリキメルはマヨリアヌスの失脚を図り、461年8月、彼の失敗をとらえて捕らえ、廃位し、死刑に処した。
こうしてリキメルは、アウィトゥス帝を廃位させた457年から、自身の死の472年までの16年間、マギステル・ミリトゥム職にあって4人の皇帝を擁立し(マヨリアヌス、リウィウス・セウェルス、アンテミウス、オリブリオス)、3人の皇帝を廃位あるいは殺害して(マヨリアヌス、リウィウス・セウェルス、アンテミウス)、西ローマ国政を壟断した。

♯ リキメルに見られる最高権力者への上昇過程
リキメルが西ローマ帝国での最高権力者に登りつめていった過程を確認しよう。
彼は西ローマ帝国での軍人の世界に入り、時の権力者アエティウスのもとで頭角を現し、アウィトゥス帝のもとでイタリア管区の総司令官、ついでアウィトゥス帝を降ろしたのちには全軍の総司令官、と、西ローマでの軍事職を累進し、その最高位にまで到達した。
そしてその実力を背景に政治の実権を掌握し、その間、政務官職における最高位の高官職パトリキウスの称号をも得て、政権基盤を裏付けた。
5世紀、西ローマ帝国末期の情勢(中央政府の混乱、地方での蛮族の割拠、等々)は、ローマ人かゲルマン人か、あるいはどの「国」に帰属しているか、など、出自を問わず、極端に言えば誰にでも、おそらくは軍事的才覚・業績を梃子に、上昇・成功する機会を提供したのだ。もとより、成功できない者の方が圧倒的大多数であろうが。
リキメルが成功した者の代表例であるが、おそらく前々回の記事❺のオレステスや、つぎに見るオドアケルもそうした数少ない成功者(一時的であれ)の一人といえよう。
冒頭の図絵
オドアケルがパンノニアを出て、ノリクムで聖セヴェリヌスに出会う(想像図)
