安室ミチル 1
(あらすじ)
40代のサラリーマン中村啓輔は、仕事に疲れ、夢を失っていた。
そんな彼の心を癒すのは推しのアイドル安室ミチルの存在だ。
ある日啓輔は、安室ミチルのプライベートの姿である鈴木詩織と出会ってしまう。
心を通わせる二人の未来は?
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雨が好きだ。
窓硝子の上を止め処も無く流れてゆく雨の雫を眺めるのが好きだ。
いつものように喫茶店の窓際の席に座り、僕はそんなことを思う。

外の景色はぼんやりとしている。
汚い現実など見たくなんてないから、それでちょうど良い。
雨がすべてを洗い流してくれる。何もかもを洗い流してくれる。
きっとそうだ。だから僕は雨が好きなのだ。
珈琲を飲みながら、会社を辞めたいと思う。
今までずっと無理をしてやってきたのだ。
今の仕事が自分には合っていないのだということを知りながら、今までずっと我慢してやってきたのだ。
でもそれももう限界だ。もうどうにもならない。どうにもならないところまで来ているのだ。僕の気持ちはとてつもなく追い込まれている。
会社を辞めてどうなる? 四十歳を過ぎて、転職は難しい。死ぬ気でがんばれば何とかなるんだと、人は言うかもしれない。
死ぬ気? それはもうやったよ。死ぬ気でやって、駄目だったんだ。だからもうそんな気力なんてどこにも無い。生きているのが辛いんだ。死んだ方が楽じゃないかと考えるんだ。
でも死にたくない。死にたくなんてない。
僕はいったいどうしたらいいんだ? 僕はいったいどうしたらいいんだ? いつもそうだ。いつもそうだ。僕はそんな葛藤を繰り返してばかりいる。
そして僕は安室ミチルの姿を思い浮かべる。そんな僕の心を支えているのは、安室ミチルの存在だけなのだ。
安室ミチルはアイドルだ。アイドルがひしめいている今の時代、それほど目立った存在では無いのだが、僕はテレビで彼女の姿を見た途端、一瞬にして魅了されたのだ。
安室ミチルは清楚でゴージャス。僕には彼女の姿が光り輝いているように見える。オーロラの中にいるようなオーラがある。
TVの画面から微笑む安室ミチルの姿は、まるで天使のようだ。
ああ、安室ミチル。安室ミチル。
僕は安室ミチルに恋している。

安室ミチルのことを考えていると、何もかもを忘れられる。だけども何も解決なんてしやしない。現実逃避だ。そう、完全なる現実逃避。それは辛い現実から逃げているだけのことだ。
だけど、たとえ一瞬であっても、現実を忘れることができる安室ミチルの存在が無ければ、僕は本当に死んでしまうかもしれない。そう、僕は安室ミチルのおかげで生きていられるのだ。安室ミチルに感謝、感謝、なのです。
安室ミチルの姿を思い浮かべていたら、少しだけ元気が出てきた。空元気だけどね。
僕は意外と単純なのかもしれない。いや、かなり単純だ。ともかく明日に向かって生きてゆこうという気持ちにはなれそうだ。いや、ならなくてはいけないのだ。
僕はレシートを手に取ると、喫茶店を出た。

僕は荒川の土手へと向かって歩いた。僕はよくここに来る。
夜の九時。雨の中で傘を刺して、僕は荒川を眺める。
街の明かりが川に反射する。雨が川に降り注ぐ。なぜだかそんな情景が僕の心を和ませる。
耳を澄まして目をつぶる。
川の流れ、車の走る音、微かな街のざわめき。
それらは僕を別世界へと連れて行ってくれる。
僕は夢の中にいる。
良いことなんて何も無い現実を忘れて、楽しかった頃のことを思い出す。
輝いていたあの頃。あの頃は少しでも輝きがあった。今の僕には無い輝きがあった。
どうして何もかもが失われてしまったのだろう?
僕はあの輝きの中にトリップする。失われてしまった輝きの中に。
僕の心は開放され、空中を浮遊する。
そんな僕を現実の世界へと引きずり戻したのは、どこからともなく聞こえてくる電子音だった。
いつもと変わりの無い音の世界に、いつもとは違った音が舞い込んできた。
何だろう?
僕はその電子音に耳をかたむけた。
それはスマートフォンの着信音だった。
だけどどこで鳴っているんだ?
あたりに人影はない。
僕は音の鳴る方向へと歩いた。
音の鳴るところまでたどり着くと、そこに女が倒れていた。
酒の匂いがした。たぶん酔いつぶれて眠ってしまったのだろう。
若い女だった。二十歳くらい。髪の毛はぼさぼさで、化粧をしていないし、やぶれたジーンズ、古着らしいTシャツ、という見るからにみすぼらしい格好をしていた。
風呂にも入っていないように見え、ネット難民かホームレスといってもおかしくない風貌だった。

僕は迷った末に、彼女のスマートフォンに出ることにした。
「ミチル、今どこにいるんだ!? いったいお前、何やってんだよ!」
電話の相手は僕が電話に出るなりに興奮した口調でそう叫んだ。
「もしもし」
僕はとりあえずそれだけを答えてみた。電話の相手は彼女のスマートフォンに男が出たことに随分と驚いた様子だった。当たり前だ。
「お前、一体誰だ!? 安室ミチルに何をしたんだ!?」
男はそう叫んだ。
「安室ミチル?」
このみすぼらしい女が安室ミチルだって言うのか? そんな馬鹿な。
僕は改めて目の前で酔いつぶれて眠っている女の姿を眺めた。
化粧をして、ゴージャスな格好をすれば、このみすぼらしい女が安室ミチルに変身するというのか?
いや、ないないない。そんなのありえない。
「安室ミチルかどうかは分からないけど、このスマートフォンの持ち主だと思われる女は酔いつぶれて眠っている」
僕は冷静になろうと勤めた。僕がおかれている状況は、とても普通じゃない。
「何だって!? お前は安室ミチルをどうするつもりだ!? 目的はいったい何なんだ!?」
電話の男は興奮している。
「目的も何も無いよ。僕はただここを通りかかったらスマートフォンが鳴っていて、女が酔いつぶれているのを発見しただけだ」
「ここってどこだ?」
「荒川の土手だよ」
「何なんだよ。一体どうしたっていうんだよ?」
男は混乱し、興奮していた。
「それは僕が知りたいよ」
僕は冷静だ。
「正確に場所を教えてくれないか?」
僕は男の傲慢な態度に不満を感じながらも今居る場所をできるだけわかりやすいように説明をした。
我ながら自分の人の良さに感心する。
男は「すぐにそこに行くから君もそれまでそこにいてくれ」と僕に頼んだが、そんなこと、僕はまっぴらごめんだった。
やっかいなことにかかわりあいたくなんて無い。もしかしたら身に覚えの無い罪で、いつの間にやら犯罪者に仕立て上げられてしまうかもしれない。
トラブルはごめんだ。かかわりあわない方が良い。どう考えても黙ってここを立ち去るのが得策というものだ。しかし彼女が本当に安室ミチルなのか?
僕が恋している安室ミチルなのか?
いや、忘れよう。
このことは忘れることにしよう。
何も無かったことにしよう。
早いところここから立ち去るのだ。
早くしないと電話の相手の男がここに来てしまう。急がなければ。
おっと、指紋をふき取らなくては。
いや、そこまでしなくてもいいか。
ああ、僕はまるで犯罪者だ。
エキサイティングだ。
僕は何も悪いことなんてしていないのに、後ろめたさを感じるのだった。
つづく。
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