本能寺の変1582 第147話 15信長の台頭 9光秀と長宗我部元親 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第147話 15信長の台頭 8三好の衰退
元親は、やがて、土佐を平定する。
これが、天正三年1575。
元親は、さらに、四国統一を目指す。
最大の敵は、阿波の三好氏である。
三好氏は、讃岐も、その勢力下においていた。
同じ頃、信長は、本願寺攻めに苦戦していた。
信長は、長期戦を覚悟した。
阿波の三好氏は、本願寺に与していた。
阿波の三好氏は、信長と元親、共通の敵であった。
取るべき戦略は、遠交近攻策。
「一向一揆」
本願寺の力は、あまりにも強大だった。
信長にとっても、好都合。
否やは、ない。
元親は、そう判断した。
これが的中。
元親は、信長に誼を通じる。
天正六年(1578)のこと。
その橋渡しをするのが、光秀である。
斎藤利三は、光秀の家臣。
これ以後、光秀が元親の取次となる。
このことが追い風となった。
光秀は、出世街道を驀進する。
元親、四国制覇へ向かって、破竹の進撃。
元親は、阿波にみならず、讃岐・伊予にも手を伸ばした。
土佐は、これら三ヶ国に隣接している。
そして、確信した。
遠からず、「成る」、と。
本願寺の勢力は、この頃がピークだった。
同天正六年。
木津川沖の海戦。
この戦いで、頼みとする毛利の水軍が敗北。
これ以後、本願寺は、次第に力を失っていく。
元親は、十分、時間があると思っていた。
何しろ、我が国、最大・最強の宗教勢力。
「あの本願寺」、である。
「そう、易々と」、屈服するわけがないのである。
元親は、信長の本願寺攻めが長引くものと考えていた。
したがって、時間は十分ある。
「その間に、成すべし」
そう、考えていたものと思う。
光秀、丹波を平定。
これが、天正七年。
光秀、絶好調の時期。
全て順調、うまく行くかに思えた。
しかし、ここで、状況が一変する。
本願寺、降伏。
天正八年1580。
信長、方針を変更。
四国停戦令、発令。
信長は、初めから、そのつもりだった。
これが戦国時代の常識である。
状況が変われば、方針も変わる。
当然のことである。
ただ、本願寺の降伏が思いの外、早かっただけのこと。
光秀も、これに同じ。
光秀は、信長の心の内を見通していた。
それ故、抜擢され、今現在がある。
したがって、信長の方針変更に異論はない。
問題は、元親のこと。
直ぐに、とはいくまい。
承服させるには、時間がかかる。
中国出陣は、まだ先のこと。
当分、戦はない。
「間に合う」
そう、思っていたのではないか。
光秀は、元親がわかってくれると思っていた。
この戦国乱世。
しかも、元親ほどの人物。
相手は、織田信長。
今を時めく天下人。
本願寺を屈服させた男。
それに、逆らう者の末路。
・・・・・・。
元親に、道理のわからぬ筈がない。
それが、最善の策なのだから。
光秀が、その様に考えたとしても、おかしくはなかろう。
元親は、こうなることを覚悟していた。
元親とて、信長と同じ戦国武将。
何れは、そうなると思っていた。
しかし、その時期を読み違えた。
思いの外、早すぎた。
「一生の不覚」
是非も無し、である。
元親の不満 → 反発。
しかし、家臣らの手前がある。
彼らには、これまで、大きな犠牲を強いてきた。
そのことがある。
それ故、おいそれとは、行かぬのである。
元親は、出来るだけ時間を引き延ばそうとした。
先のことなど、誰にもわからない。
なれど、応ずれば、全てが終わる。
二度とない好機。
手の届くところまで来ていた。
元親は、諦めきれずにいた。
光秀の説得は、 暗礁に乗り上げた。
土佐は、僻遠の地。
上方の情報が伝播するには、かなりの時間を要した。
緊迫感等についても、それは同じ。
そのことも、ある。
そして、天正十年1582へ。
一月、光秀は、石谷頼辰を土佐へ派した。
結局、これが最後の使者となる。
光秀は、「吉報」を待った。
五月、石谷頼辰、未だ帰らず。
無情なり。
時は、刻々と流れて行く。
焦れども、如何ともならず。
光秀は、極限に追い込まれる。
以上、これらについては後述する。
⇒ 次へつづく 第148話 15信長の台頭 10三好長慶の死
