口伝律法ミシュナ『Kilayim(キルアイム)』の全法理 第1回:レビ記19章・申命記22章の禁止命令から歴代ラビ(Rambam/Shulchan Aruch)の接ぎ木論争、新約聖書「毒麦の譬え」の思想的背景まで
*モーセ五書(トーラ)が規定する「異なる種類の混淆禁止」規則、kilayim(キルアイム)。本シリーズは、レビ記19章および申命記22章の聖書テキストを起点に、口伝律法ミシュナ第1部『Zeraim(ゼライム)』の『Kilayim篇』の法意的解釈を徹底解説する。
第1回となる本稿では、「小麦と毒麦」の同根性をめぐるエルサレム・タルムードとミドラーシュの起源論の差異を紐解き、『マタイによる福音書』第13章の「毒麦の譬え」の背景にもなっている法理を分析。
更にレビ記の解釈を発展させた「接ぎ木」の禁止規定をめぐり、ランバム(Rambam)、シュルハン・アルーフ(Shulchan Aruch)、エルサレム・タルムード写本が示す【厳格度の対立軸】を数理的に比較する。他方でミシュナの判例から演繹される「樹木(永続的な木質幹)」と「野菜(一年生植物)」の法意定義にまで踏み込み、日本語圏において2,000年前の「律法の現場」の真実を再現する。
トーラ(モーセ五書)におけるkilayimの3つの禁止規定
今回からkilayim(キルアイム)について扱う。kilayimとはトーラーにおいて禁じられている「異なる種類のものを交ぜ合わせる行為や規則」を指す。
kilayimは1つの分野に限定されず、農業における規則、衣類の素材、動物の交配など広い範囲にまたがっている。
導入として、幾つかトーラの箇所を引用する。
あなたたちはわたしの掟を守りなさい。二種の家畜を交配させたり、一つの畑に二種の種を蒔いてはならない。また二種の糸で織った衣服を身に着けてはならない。
ここで3つの禁止が区別される。
①異なった種同士の交配
②異なった種類の種を蒔くこと
③異なった仕方で編み、着ること
申命記22章には次のように書かれている。
毛糸と亜麻糸とを織り合わせた着物を着てはならない。
この箇所は衣類に関するkilayimを、より具体的に示しつつ禁止したものである。
同じ申命記22章には次のようにも書かれている。
ぶどう畑にそれと別の種を蒔いてはならない。あなたの蒔く種の実りも、ぶどう畑本来の収穫も共に汚れたものとならないためである 。牛とろばとを組にして耕してはならない。
同じ畑に異なる種類の蒔いてはならないことは、レビ記19章に書かれているが、この申命記22章では「ぶどう畑」が特に問題にされている。
これは口伝律法「Kilayim」の中でも特別に枠を設けて書かれている。
次の「牛とろばとを組にして耕してはならない」は、同じ軛に異なる家畜を繋ぐことを禁止したものである。しかし家畜の組み合わせに関しては、トーラはkilayimの用語は使っていない。
こうした原則は文字として読む限りでは難しいことはない。しかし実生活において何がkilayimになるので禁止され、何を一緒にしても許容されるのか、判断は困難を極める。
本稿はこのkilayimの判断のポイントを、口伝律法ミシュナ「Kilayim」を紐解きながら確認するものである。
『Kilayim』1章1節における類似作物の例外規定
まずは順番に行こう。「Kilayim」1章1節には次のように書かれている。
小麦と毒麦は互いにkilayimではない。大麦とオート、スペルトとライ、・・・(後略)・・・は互いにkilayimではない。
ここでは互いに類似しているが、kilayimとはされないものが列挙されている。次のように箇条書き出来る。
①小麦と毒麦
②大麦とオート麦(野生大麦)
③スペルト小麦とライ麦
(以下省略)
それぞれのペアの2つは互いにkilayimではない。しかし他のペアに属しているもの同士はkilayimになる。
例えば小麦と大麦、毒麦とオートなどはkilayimに該当する。これらの種を同じ畑に蒔いて栽培してはならない。
さて、「kilayimに該当しない」ポイントは、問題になるもの同士が同じ種類と見なされるかどうかにある。
エルサレム・タルムードとミドラーシュからみる「小麦と毒麦」の同根性
この点小麦と毒麦については、エルサレム・タルムードではそもそも同一の種であったと見なされている。小麦を劣化した土地で栽培した場合、生えてくるのが毒麦であったとされているのである。
これに対して、聖書解釈の伝承を集めたミドラーシュでは、毒麦の起源を人類が道徳的に退廃した大洪水の時代に求めている。人類が堕落した時、土地も劣化し、小麦が毒麦として生えたというものである。
いずれにしても、タルムードであれミドラーシュであれ、小麦と毒麦は元々同一のものである。kilayimは「異なる種類同士の混植禁止」であるから、この小麦と毒麦は問題にならないことになる。
新約聖書『マタイによる福音書』第13章「毒麦の譬え」の思想的背景
このように、小麦と毒麦が「本質的には同根でありながら、一方は価値あるもの、もう一方は劣化した有害なもの」として扱われる背景を踏まえると、マタイによる福音書にある有名な譬え話の理解も深まる。
話はややそれるが以下、引用してみよう。
24イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。 25人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。 26芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。 27僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』 28主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、 29主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。 30刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」
人において義人と悪人を見分けることは難しい。それが最終的に明らかになるのは、神の裁きの時である。
上記の通り、律法上麦と毒麦は外見において酷似し、元は同一のものであったのだが、それを踏まえて、義人と悪人の間は一見して見分けがつかないことを言ったものである。
どちらも元々、「神の似姿」として造られたものであるから。
『Kilayim』1章7節による「接ぎ木」の禁止規定と歴代ラビたちの見解における厳格度の違い
話を戻すが、以上のように見てくると、実生活におけるkilayimの適用は、明確に区別されているように聞こえるかもしれない。
しかし実は、本節における原文の単語が具体的に何の作物を指しているのか、RavやRashi、Rambamといった歴代の高名な学者たちの間でも意見が分かれており、必ずしも明確ではない。
このように、原文の単語が指す作物が不明確なまま「どのペアがkilayimか」を羅列し検討する内容は、「Kilayim」1章4節まで続いている。
本稿の目的はそれらの単語が具体的に何を指すかの学術的な検証ではないため、これらのリストは割愛し、より実践的なルールへと移行する1章7節の「接ぎ木」に関する箇所へと進むことにしよう。
樹木と樹木、野菜と野菜、樹木と野菜、野菜と樹木で接ぎ木してはならない。ラビ・ユダは野菜と樹木を許可する。
この箇所は接ぎ木を禁止したものである。トーラには次のように書かれている。
あなたたちはわたしの掟を守りなさい。二種の家畜を交配させたり、一つの畑に二種の種を蒔いてはならない。また二種の糸で織った衣服を身に着けてはならない。
字義通りに解釈するなら、レビ記19章19節で禁止されているのは同じ畑に異なる種類の種を蒔くことでしかない。
しかしここでは異なる家畜の交配について禁止されている。ちょうど異なる種類の家畜による、物理的な接触の交配が禁止されているように、異なる植物の物理的な結合である接ぎ木も禁止されると解釈される。
ただ、実際にどのくらいの範囲で接ぎ木が禁止されるのかについては争いがある。その幾つかを紹介する。
①エルサレム・タルムードの1つの写本の見解
どちらの植物も実をつけない場合でさえ禁止される。
これは最も許容範囲の狭い見解である。
②Rambamの見解
どちらの植物も実をつける場合のみ禁止される。
これは最も許容範囲の広い見解である。
③Shulchan Aruchの見解
Shulchan Aruchとはユダヤ教の日常生活における規則や決まりごとをまとめた、最も権威のある法典であるが、これによると1つの植物が実をつけるなら、接ぎ木は禁止される。
以上3つの見解を厳格な順番に並べると、下のようになる。
エルサム・タルムードの1つの写本 >> Shulchan Aruch >> Rambam
少なくともエルサム・タルムードの1つの写本で、たとえどちらの植物も実をつけない場合でも接ぎ木を禁止しているから、敬虔な者は如何なる接ぎ木もするべきではないという見解も示されている。
創世記の創造秩序から導かれる接ぎ木禁止の根拠
ここまではレビ記19章を用いた議論であったが、創世記1章もよく用いられる。
11神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。 12地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。
この箇所では神の創造された種類の実は、それだけで独立したものである。接ぎ木は創造の秩序を敬わない行いであると見なされる。
以上を前提にミシュナ本文を見てみよう。再掲する。
樹木と樹木、野菜と野菜、樹木と野菜、野菜と樹木で接ぎ木してはならない。ラビ・ユダは野菜と樹木を許可する。
本節から、以下のいずれの接ぎ木も禁止されることになる。
①樹木 + 樹木
②野菜 + 野菜
③樹木 + 野菜
④野菜 + 樹木
口伝律法における「樹木」と「野菜」の判例定義
ミシュナは直接的に何が樹木であり、何が野菜であるのか条文のような形で定義していないが、多くの判例から次のように一応の演繹がされている。
(1)樹木の定義
毎年、幹や枝が枯れずに残り、そこから再び芽や実を出すもの。
(2)野菜の定義
実を収穫すると茎や根が完全に枯れてしまうもの(一年生野菜)、あるいは地面から直接葉が生え、永続的な木質の幹を持たないもの。
「ラビ・ユダは野菜と樹木を許可する」とあるが、その理由は野菜と樹木を接ぎ木しても、どちらも同一性を失わないからと解釈されている。
いずれにしても、ほとんどの専門家によると、このミシュナで禁止されているのは字義通り接ぎ木だけであり、種蒔きについては含まないと解されている。
なぜならレビ記19章19節の「一つの畑に二種の種を蒔いてはならない」は、野菜の種だけを指しているからである。従って、樹木の種と野菜の種を同じ場所に蒔くことは禁止されない。
ただし、トーラでは確かに禁止されていないとしても、ラビたちが「樹木の種+野菜の種」を禁止したと主張する専門家もいる。
今回の解説は以上である。
(この記事は、旧約聖書の最高権威モーセ五書[トーラ]と口伝律法[ミシュナ]及びその膨大な参考書の研究に基づいています。日本語圏における聖書学の再構築を継続し、さらなる『掃除』を推し進めるための研究費として、志ある方のご支援をいただければ幸いです)
シリーズ目次は以下からご覧になれます。
◉【シリーズ目次】ミシュナ『Kilayim』法理研究
https://note.com/mishnah/n/nbf78cc478503
本記事周辺の時系列目次は以下からご覧になれます。
◉【全体目次Vol.1】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事リスト(No.1〜No.200)
https://note.com/mishnah/n/nf0de8c6c7334
全記事の時系列目次は以下からご覧になれます。
◉【時系列総目次】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事インデックス
https://note.com/mishnah/n/nd780d32f266c
(ミシュナの構造による目次は以下からご覧になれます)
◉ミシュナの部(seder)に基づく全記事の目次
ミシュナは生活と信仰の全領域を「種子」「祭日」「女性」「損害」「聖物」「清浄」の6つの部(セデル)で網羅している。各記事を法典本来の分類に配置し直すことで、2,000年前の「律法の現場」における聖書の背景をより明確に提示する。
