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ミシュナ『Oholot』の法理 第6回――『Oholot』9章16節におけるohelの定義と、開いた樽・汚れた樽(tamei)による tumah 垂直無限照射のラビ的法理構造

*本稿は、口伝律法ミシュナ『Oholot』(清浄の部)第9章16節に規定される、天幕(ohel)の構造的定義および死体の汚れ(tumah)の伝播原則を論理学的に解釈・検証する第6回である。

 前回の「分割された汚れの結合問題」及び「tumah retzuzah(潰された汚れ)の無限照射原則」の法理を踏まえ、今回は容器(樽)が開いている場合、および側面部分(1手幅立方)に汚れが存在する場合の空間的支配力を論証する。更に民数記19章14~15節の聖書記述を起点に、樽自体が汚れている状態(tamei)における遮蔽不可の例外法理を解明する。


前回の振り返り::tumahの分割結合と空間照射原則


 前回はミシュナ『Oholot(オホロット)』3章1節に基づき、「分割された汚れの結合」に関する見解の相違と、「tumah retzuzah(トゥマ・レツツァー:潰された汚れ)」という空間伝播の特殊原則について解説した。

 主な内容は以下の通りである。

【1】分割された汚れの結合問題(3章1節)

 汚れを移す最小分量である「オリーブの大きさ(kezayit:ケザイット)」の肉が分割され、家の中に持ち込まれた場合に汚れが移るか、ラビ・ドサ・ベン・ホルキネスと多数派のラビたちの間で意見が対立している。

①ラビ・ドサ・ベン・ホルキネスの見解(tahor:清い)

 それぞれの肉片が単体では最小分量(kezayit)を満たしていないので、汚れを移さないとする。

②多数派ラビたちの見解(tamei:汚れている)

 個々の肉片は不十分でも、同じ空間内にある合計がkezayit以上であるなら、全体として汚れを構成するとする。

【2】汚れを受ける4つの具体的状況

 kezayitの半分(2分の1)ずつが以下の異なる状況で存在する場合、汚れを受けるのかが検証される。

①半分に触れながら、同時にもう半分を覆う。

②半分に触れ、同時にもう半分が自分の上にある。

③自分自身が2つの半分の上をまたいで覆う。

④半分を覆い、同時にもう半分が自分の上にある。

 これら全てにおいて、ラビ・ドサ・ベン・ホルキネスはtahorとし、多数派ラビはtameiとする。

【3】「関与のカテゴリー分離」の原則

 ただし、汚れへの関わり方が異なるカテゴリー(主体)に分かれる場合は、例外的にラビたち全員がtahorと認めている。

例: 「人が半分の肉に触れている」が、もう一方の半分は「(人ではなく)屋根や他の物体がその人と肉を覆っている」場合。

ルール: 同じカテゴリーによるもの(人が触り、同じ人が覆うなど)に属しているなら結合してtameiになる。この点で主体が分かれる場合は別々のものと見なされ、tahorのままになる。

【4】tumah retzuzah(トゥマ・レツツァー:潰された汚れ)の無限照射原則

①定義

 文字通りには「潰された汚れ」を表し、死体の一部が、1手幅四方に満たない狭い空間に閉じ込められている状態を指す。

 「手幅」は単数形でtefach(テファ)、複数形でtefachim(テファヒーム)と呼ばれる。

 1手幅 = 8~10センチである。

②性質

 この「潰された汚れ」は、適切な遮蔽物(特定の規格を満たす屋根など)がない限り、上空および地中の深くまで無限に汚れを照射し続けると定義される。

 このように、前回は汚れが「物理的な量」として合算されるかという議論と、物理的な壁を超えて「空間を垂直に支配する」という、ミシュナ特有の緻密な法理構造が示されている。

 以上の内容に不安を感じる方は、下のリンクから確認して欲しい。

◉ミシュナ『Oholot』の法理 第5回――『Oholot』3章1節によるtumahの分割結合法理と空間照射原則(tumah retzuzah)のラビ的解釈

https://note.com/mishnah/n/ne8fc3033a6ba


天幕(ohel)を構成する条件的寸法と人体の空間支配


 今回はまず何がohelを形成するのかを解説する。屋根に該当するものは、少なくとも1手幅四方を覆うものであり、その下には1手幅立方なくてはならない。

 1手幅(1 tefach)は上記の通り、 8~10センチである。

 前回A氏がkezayitの半分の分量の上に覆いかぶさる事例を検討したが、このようにすることで、人体もohelを形成することになる。

 さて、これと関連した事例であり、前回宿題にしたテーマに移る。「死体はその上または下方に一定の規格で遮るものがない限り、上下に無限に汚れを照射する」という問題である。

ミシュナ『Oholot』9章16節の法理解析:開いた樽と垂直照射の原則

 もし樽が外にあるなら、底の部分を下にして、kezayitはその下かその中にあり、tumahは上下に貫く。樽はtameiになる。

(Oholot 9:16)

 ここでは蓋の開いた樽が地面に置かれ、または吊るされている。外に置かれているのであり、樽の上にohelは無い。

 樽の中にはkezayitの死体の肉片が入っている。この場合「tumah(汚れ)は上下に貫く」とある。

 汚れは遮るものがないので、上空に至るまで、また地中深くに至るまで垂直方向に照射されることを言っている。

 写真の赤い部分が照射される領域である。

「Oholot」9章16節の蓋の開いた樽の底部にtumahが置かれた場合の、汚れが照射される領域

 ところで「樽はtameiになる」と書いてあるので、あたかも樽そのものも汚れるように読める。しかしこれは本節の意図ではない。 後に出てくるが、樽自体は土など汚れないもので作られた前提になっている。

その上での話である。細かい話であるが、ポイントになるのはkezayitが置かれているのは樽の底部分であり、その垂直方向に蓋部分があり、それが開いている事である。

 読者の方々は十分承知であると思うが、こうした容器で密閉された中に汚れたものが入ると、汚れは外に出ることが出来ない。

 この原則はトーラを根拠に引き出されている。

トーラ(民数記19章)を根拠とする密閉容器の排他遮蔽原則

 14人が天幕の中で死んだときの教えは次のとおりである。そのとき天幕に入った者、あるいはその中にいた者はすべて、七日の間汚れる。 15また、蓋をしていなかった、開いた容器もすべて汚れる。

(民19:14~15)

  死体と同じohelの下にあるものは汚れるという大原則が書かれているが、「蓋をしていなかった、開いた容器もすべて汚れる」とある。

 これは逆に言うと、密閉した容器の中には汚れは入り込まない。

 更に、「密閉した容器の中のものは、外にも出ない」と解釈される。

 これは非常に大切な原則であるので、念頭に置いて欲しい。

 話を戻すが、今検討している事例では、樽の中にkezayitがあり、垂直方向の蓋が開いている。そこから出て、上空に至るまで汚れが照射される。

 「tumahは上下に貫く」とあるので、地中深くにまで及ぶことが示されている。

 同じ節の続きである。これは論点が細かいように見えるが、汚れの伝播について重要な原則を示している。

樽の側面(湾曲部)における体積:1手幅立法の有無による法理の分岐

 tumahが樽の中にあり、側面の下にあるなら、―もし中に1手幅あるなら、全てtameiになる。しかしもし1手幅無いならば、tumahは上下に貫く。

(Oholot 9:16)

 今度はkezayitが樽の底、蓋部分の垂直方向に置かれていない。下の写真の黄色で囲った部分に置かれている。

「Oholot」9章16節の樽の側面部にtumahがある場合

 見ての通り、今度は樽の側面の膨らんだ形状部分の中に置かれている。

 これが「tumahが樽の中にあり、側面の下にあるなら」の意味である。

 次はこの囲まれた部分の体積が1手幅立方ある場合と、1手幅立方ない場合の違いである。結論から述べる。

①1手幅立方ある場合

 この側面の膨らんだ形状がohelとなる。

 ただし蓋の垂直方向だけは、このohelの下にない。

 従って、蓋の垂直方向にあるものはtahorであるが、側面部分にあるものは全てtameiになる。

 tahorのラインは図の青い領域である。

「Oholot」9章16節の、tumahが側面部に置かれた場合の、蓋の垂直方向というtahorの領域

 ポイントは、膨らんだ形状部分が1つのohelを形成しており、それが360度囲んでいる事である。

 イメージで言うなら、ohelの真ん中の垂直部分(青の領域)だけはtahorであり、その他の樽の中は全てtameiになる。

 この点は落ち着いてじっくり考えて欲しい。

②1手幅立方ない場合

 湾曲している側面部分の体積が1手幅立方ない場合である。

 この場合、前回確認したtumah retzuzahになり、上下の垂直方向で汚れを照射することになる。

 写真の赤い領域が汚れを受ける。

「Oholot」9章16節の、tumahが置かれた側面部の体積が1手幅立法に満たない場合の、汚れが照射される領域

 以上で「上下に照射する」原則について一応の解説を終えた。

例外法理:樽自体が汚れている状態(tamei)における遮蔽機能の喪失


 「Oholot」9章16節の最後には、次のように書かれている。

 如何なる状況でこれは適用されるだろうか?樽がtahorである場合である。もしそれがtameiであるなら、1手幅地面より上であっても、覆われていても、逆さまにされていても、tumahが下、中、上にあっても、全てtameiである。

(Oholot 9:16)

 ここまでの議論は樽がまだ汚されておらず、清い状態(tahor)である場合においてであった。

 しかし樽そのものがすでに汚れてしまっている状態(tamei)である場合はどうなるのだろうか?

 結論から言うと、kezayitの汚れは上下垂直に照射し、その方向のものを全て汚すと解されている。

 参考書の解説が混乱しているが、以下正統と思われる見解で説明する。万一修正部分が発覚したら、後日書き直す可能性があることを了解して頂きたい。

 「1手幅地面より上であっても、覆われていても、逆さまにされていても」とは、次の3つの場合を言っている。

①「1手幅地面より上」とは、1手幅立法の空間が下にあることを言っている。

 地面と樽の底の間に、それだけの空間があるという事である。

②「覆われていても」は蓋をしている場合を言っている。

③「逆さまにされていても」は文字通り樽を上下逆さまに置き、底部をohelにしていることを言っている。

 これらの場合、樽そのものがtahorであるなら、ohelの役割を果たし、あるいは密閉された容器の役割を果たすものである。次のように考えることが出来るからである。

①「1手幅地面より上」

 → 樽の底そのものが、その下にあるものに対してohelになっている。そこで汚れは垂直方向に上昇しない。

②「覆われていても(蓋をしている場合)」

 → 上記引用の民数記19章14~15節により、樽の中に汚れは入らない。

③「逆さまにされていても」は底部をohelにしていることを言っている。

 汚れに関して、樽の中で1つの遮蔽された空間を作ることになる。

 以上は樽がtahorである場合である。結論から言うと、樽がtameiである場合、ohelを形成することは出来ない。

 そこで例えば「①「1手幅地面より上」を取ってみよう。

 汚れたものが地面と樽の底の間の1手幅立法の空間にあっても、樽の底はtumahを遮蔽しない。汚れているものはohelを形成しないからである。

 そこで汚れは垂直方向に照射することになる。

 樽の中にあっても同じである。上方向にも下方向にも、遮蔽するものがないと見なされる。

 樽の上にあっても同じである。たとえ蓋がされていても、垂直下方向に照射する。

 つまり如何なる場合であっても、tumah(汚れ)の垂直の上下方向に照射を妨げることが出来ない。

 同じことは②「覆われていても(蓋をしている場合)」においても、③「逆さまにされていても(樽を逆さまに置いた場合)」においても言える。

 この問題は極めて混乱しやすいが、重要な原則であるので注意して覚えて欲しい。

 今回の内容は以上である。

(この記事は、旧約聖書の最高権威モーセ五書[トーラ]と口伝律法[ミシュナ]及びその膨大な参考書の研究に基づいています。日本語圏における聖書学の再構築を継続し、さらなる『掃除』を推し進めるための研究費として、志ある方のご支援をいただければ幸いです)

 シリーズ目次は以下からご覧になれます。

◉【シリーズ目次】ミシュナ『Oholot』法理研究

https://note.com/mishnah/n/n84019ea0b112


 本記事周辺の時系列目次は以下からご覧になれます。

◉【全体目次Vol.1】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事リスト(No.1〜No.200)

https://note.com/mishnah/n/nf0de8c6c7334


 全記事の時系列目次は以下からご覧になれます。

◉【時系列総目次】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事インデックス

https://note.com/mishnah/n/nd780d32f266c


(ミシュナの構造による目次は以下からご覧になれます)

◉ミシュナの部(seder)に基づく全記事の目次

 ミシュナは生活と信仰の全領域を「種子」「祭日」「女性」「損害」「聖物」「清浄」の6つの部(セデル)で網羅している。各記事を法典本来の分類に配置し直すことで、2,000年前の「律法の現場」における聖書の背景をより明確に提示する。

https://note.com/mishnah/n/n4ccb130fe6ef

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