安息日の移動制限「techum(テフーム)」の法理体系(上):出エジプト記16章及びミシュナ『Eruvin(エルーヴィン)』に基づく律法規定の詳解
*安息日における移動制限「techum(テフーム)」の成立根拠を、トーラ(モーセ五書)の語彙解析および口伝律法『ミシュナ』の規定に基づき記述する。
出エジプト記16章29節の解析から導き出される2,000アンマの算定根拠、および『Eruvin(エルーヴィン)』4章における「居住地」の判例を網羅。日本語圏において、伝統的なユダヤ法学の論理構造を提示するものである。
導入:安息日における移動制限の聖書的根拠
今回は安息日における移動制限について扱う。まずは旧約聖書の最高権威であるトーラから引用する。
2荒れ野に入ると、イスラエルの人々の共同体全体はモーセとアロンに向かって不平を述べ立てた。 3イスラエルの人々は彼らに言った。
「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」
4主はモーセに言われた。
「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。 5ただし、六日目に家に持ち帰ったものを整えれば、毎日集める分の二倍になっている。
エジプトを出たイスラエルの民は荒野に入ったが、空腹への恐れからモーセとアロンに不平を述べた。
そこで神は6日間天からのマナを与えることを告げたものである。7日目は集めることが出来ないが、6日目は通常の2倍が与えられる。
安息日に出て行ってマナを集めることのないようにという事である。しかし次のように書かれている。
七日目になって、民のうちの何人かが集めに出て行ったが、何も見つからなかった。
これを御覧になった神は、次のように戒められる。
28あなたたちは、いつまでわたしの戒めと教えを拒み続けて、守らないのか。 29よくわきまえなさい、主があなたたちに安息日を与えたことを。そのために、六日目には、主はあなたたちに二日分のパンを与えている。七日目にはそれぞれ自分の所にとどまり、その場所から出てはならない。
安息日を守らなかったことを糾弾され、改めて「七日目にはそれぞれ自分の所にとどまり、その場所から出てはならない」と命じられた。
安息日には移動制限がかかる。
タルムードにおける移動制限の二重根拠:出エジプト記16章29節の解析
タルムードでは、この箇所が安息日の移動制限の根拠になっているという見解が載せられている。これは2つの仕方で言われている。
①「自分の所にとどまる」(出16:29)
②「その場所から出てはならない」(出16:29)
これがそれぞれどのような内容を示しているのかが問題になる。
なぜなら、神は移動について制限されていると解釈出来ても、具体的にどの程度制限されているのかが明記されていないからである。
2,000アンマ(キュビット)の算定:makomとmyichutzの語彙的連結による導出
これは②から解説する。ユダヤ教においては、トーラの中で使われている単語に着目し、ある箇所で使われている単語と同じ単語が別の箇所で使われていた場合、互いの意味を補足することが出来る。
ここでは「場所(makom:マコム)」と「~から(myichutzミフッツ)」に注目する。次のように考える。
「その場所」の「場所」は今述べた通りmakom(マコム)である。「その場所から出てはならない」とは「そのmakomから出てはならない」となる。
makomの単語は逃れの町の箇所で使われている。
人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる。ただし、故意にではなく、偶然、彼の手に神が渡された場合は、わたしはあなたのために一つの場所(makom)を定める。彼はそこに逃れることができる。
従って「その場所から出てはならない」の距離を具体的に算定するには、逃れの町が基準になると解釈する。
逃れの町(レビ人の町)の規格については、トーラに次のように書かれている。
2嗣業として所有する土地の一部をレビ人に与えて、彼らが住む町とし、その町の周辺の放牧地もレビ人に与えなさい。 3町は彼らの住む所、放牧地は彼らの家畜とその群れ、その他すべての動物のためである。 4レビ人に与える町の放牧地は、町の城壁から外側に向かって周囲千アンマとする。 5あなたたちは、町の外から(myichutz;ミフッツ)東側に二千アンマ、南側に二千アンマ、西側に二千アンマ、北側に二千アンマ測り、町をその中央に置かねばならない。これが彼らの町の放牧地となるであろう。
逃れの町から2,000アンマは町そのものではなくても、その一部とされる。
そこで、安息日に動いてよいのは、「自分の居住地から2,000アンマ(キュビット)である」という算定が導き出される。
これは町中であれば自由に動けることも、同時に示している。家の中は勿論、公道を歩くことも構わない。しかし一端外に出たなら、2,000キュビットを越えて移動することは許されない。
この導出については、2つの仕方で考えられる。1つは以上のように導かれるのだから、安息日の2,000キュビットの制限はトーラ次元の掟であるという見解である。
もう1つは、2,000キュビットという具体的な距離はトーラの掟ではなくラビの規定に拠るものだが、それを聖書という根拠によって支えているという見方である。
後者の見解の方が有力視されている。
以上で「②その場所から出てはならない」についての解説を終えた。
最小居住単位「4キュビット」の定義:身体的専有面積に基づく規定
次に「①自分の所にとどまる」とは具体的にどの程度の範囲を言っているのか、また如何なる状況において適用されるのかである。
人は常にルールの中で動けるものではない。例えば旅行に出ていて野宿することになったり、町の外に2,000キュビットを越えて出てしまうことがある。
この場合、本人の周囲4キュビット(約2メートル)が自分の居住地と見なされる。
旅行していて安息日が始まったら、その場所から身の回りのスペースだけが居住地である。
なぜなら「①自分の所にとどまる」(出16:29)の原語を直訳すると、「彼の下にとどまる」であり、人1人分のスペースに限定されると解釈されるからである。
人の標準的な体の大きさを考慮し、具体的な広さが4キュビットであると規定された。
以上を前提に、出エジプト記16章29節を再掲する。
七日目にはそれぞれ自分の所にとどまり、その場所から出てはならない。
ここから2つの原則が引き出される、あるいはラビの規定の根拠として指示される。
①安息日を迎えた時、自分の居住地から完全に出ている場合、今いる場所から4キュビットを越えて移動してはならない。
②安息日を迎えた時、自分の居住地(町など)にいるなら、そこから2,000キュビットを越えて移動してはならない。
この距離制限は「techum(テフーム)」と呼ばれる。
以下、techumに関する事例を幾つか確認する。まずは口伝律法ミシュナ「Eruvin」4章1節から引用する。
不可抗力による境界外移動の法理:異邦人および邪悪な霊による事例(Eruvin 4章1節)
異邦人もしくは邪悪な霊によって連れ出された者は、4キュビットだけ移動してよい。もし彼らが連れ戻すなら、決して去らなかったと同様に見なされる。
上述の通り、安息日の歩行制限は「自分の居住地から2000キュビト」であるが、このミシュナが想定しているのは、自分の意思に関係なく境界線(techum)の外に運ばれてしまった場合である。
「異邦人によって」とは、例えば異邦人の兵士や役人に無理やり連れ出された場合のことを言っている。
「邪悪な霊によって」とは、錯乱状態や精神的な発作の内に境界を出てしまった場合である。
これらの場合は原則通り、「4キュビットだけ移動してよい」。境界線の外へ出た瞬間、その者は「自分の居住地」との律法上の繋がりを失うからである。
しかしその後「もし彼らが連れ戻すなら、決して去らなかったと同様に見なされる」と書かれている。
もし連れ出した異邦人や霊が、安息日のうちに再びその者をtechumの中へ戻したなら、彼は「最初から一度も外へ出なかった」ものと同様に見なされる。
その後は家の中、あるいは町中であるなら、自由に移動出来る。
次の事例に移る。
公共的目的による移動と法的移動権の発生条件(Eruvin 4章3節)
もし誰かが許可を得て出かけ、彼らが彼に「既に行動は終わった」と言うなら、彼はあらゆる方向に2,000キュビット認められる。もし彼がtechumの内にいるのなら、去らなかったのと同様に見なされる。人々を助けに行った場合、彼らは彼らの場所に戻ってよい。
冒頭の「許可を得て出かけた」場合とは、公共性の高い目的を持っていた場合である。
例えば異邦人の軍隊から同胞を救い出す為、または出産の手伝いをする為に出かけた場合である。
この者は公的な目的を持ってtechumを出たが、その途上で安息日が開始し、「既に目的は果たされた」または「間に合わなかった」と知らされたものである。
この場合、彼はその「知らされた地点」を中心として、全方向に2000キュビトの歩行権を得る。
彼は自分の意思で勝手に境界を出たわけではないため、「4キュビトへの閉じ込め」という制限は適用されず、新たな拠点を起点とした「移動の権利」が与えられる。
次の事案である。
居住地認定における「意図」の有無:ラビ・メイルおよびラビ・ユダの法的見解(Eruvin 4章4節)
旅の途中誰かが座って立った時、町が近くにあることに気付いた場合、それは彼の意図ではなかったので、彼は入ってならない 。-これはラビ・メイルの言葉である。ラビ・ユダは言う、「入ってよい。」
ラビ・ユダは言った。「以前、ラビ・タルフォンは意図なしに入った。」
これは旅をしていた者が、近くの町のtechumに入っていることに気付かなかった場合である。
逃れの町を例に言うなら、それから2,000キュビット以内の場所にいる。
この事例は次の意味で重要である。
もし彼が安息日の始まる前に、この町を今回の居住地として意図していた場合、そこから2,000キュビット移動してよい。
だから、安息日が始まった今、彼は町の中にも入れるし、町の向こう側に2,000キュビット移動することも出来る。
しかしそれに気付かないまま安息日を迎えてしまった。これは安息日の始まる前に、町を居住地とする意図を持たなかったことを意味する。
この場合、彼の移動可能な範囲はどうなるのかを、「eruvin」4章4節は問題にしている。次のようにまとめられる。
【1】ラビ・メイルの見解
安息日が始まった瞬間に彼が「拠点」と意図したのは、町ではなく「今いる場所」である。従って、彼は4キュビット四方しか動くことが出来ない。
【2】ラビ・ユダの見解
物理的に、町のtechumである2000キュビトの範囲内にいるのだから、意図の有無にかかわらず、そこに入ってよい。
「知らなかった」だけで、実際には町の移動可能範囲にいるのである。従って、町を中心に2,000キュビット移動することが出来る。
ラビ・ユダは自分の説を補強するために、高名なラビ・タルフォンの実話を持ち出している。
彼は次の話を自説の根拠として据える。
「以前、ラビ・タルフォンは意図なしに入った」。これは、かつてラビ・タルフォンも、同じように意図せず町の近くで安息日を迎えたのだが、後で気付いて町に入って過ごしたという事である。
今回の内容は以上である。
(この記事は、旧約聖書の最高権威モーセ五書[トーラ]と口伝律法[ミシュナ]及びその膨大な参考書の研究に基づいています。日本語圏における聖書学の再構築を継続し、さらなる『掃除』を推し進めるための研究費として、志ある方のご支援をいただければ幸いです)
本記事周辺の時系列目次は以下からご覧になれます。
◉【全体目次Vol.1】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事リスト(No.1〜No.200)
https://note.com/mishnah/n/nf0de8c6c7334
全記事の時系列目次は以下からご覧になれます。
◉【時系列総目次】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事インデックス
https://note.com/mishnah/n/nd780d32f266c
(ミシュナの構造による目次は以下からご覧になれます)
◉ミシュナの部(seder)に基づく全記事の目次
ミシュナは生活と信仰の全領域を「種子」「祭日」「女性」「損害」「聖物」「清浄」の6つの部(セデル)で網羅している。各記事を法典本来の分類に配置し直すことで、2,000年前の「律法の現場」における聖書の背景をより明確に提示する。
