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ピンク病院の牧場経営者|創作短編小説

医者の間には「ピンク病院」という言葉がある。

各地域に一つか二つはあると言われる、妙に男女関係の噂が多い病院のことだ。

医者と看護師がなぜかくっつきやすい。

研修医に弁当を作ってくる看護師がいるとか、外来の終わる時間をわざと合わせて帰るとか、そんな露骨な話がいくつもある。

もちろん真相はだいたい不明だ。

ただ、こういう話はよく聞く。

当直室。

深夜に電話をかけると妙に息が上がっている医者がいる。

ある先生が当直の夜は若手が隣の当直室を使わない。

理由は誰も言わない。

ただ、そういう不文律がある。

当直明けの朝、妙に機嫌がいい医者がいるとか、普段は厳しい看護師になぜかすごく優しい日があるとか、そんな話もある。

どこまで本当なのかは誰にもわからない。

ただ、どの病院にも似たような話があって、どの医者も一度はその言葉を聞く。

そして残念なことに、うちの病院もその一つらしい。

その話が出たのは医局の飲み会だった。

外科、内科、研修医、それに看護師が何人か混ざる。

医局の飲み会はだいたいそんな構成になる。

若い研修医が言った。

「この病院、ピンク病院ですよね」。

一瞬の沈黙のあと、笑いが起きた。

誰も否定しない。

僕も笑った。

誰かが言う。

「どこの病院もそうだろ」。

別の医者が言う。

「いや、ここはちょっとレベル高い」。

また笑いが起きる。

そこで研修医が続けた。

「外科の江口先生、牧場経営者らしいですよ」。

また笑い。

牧場経営者。

医者の隠語だ。

病棟に一人、外来に一人、手術室に一人。

それぞれの部署に肉体関係のある相手がいる医者。

つまり、あちこちに“牛”がいる。

牧場。

誰かが言う。

「三人じゃ足りないだろ」。

また笑いが起きる。

そのときテーブルの端にいた看護師が小さく言った。

「……三人じゃ足りないですよ」。

その瞬間だけ空気が少し止まる。

すぐにまた笑いに戻った。

その医師は有名だった。

外科十三年目。

とにかく手術が速い。

速いだけじゃない。

正確だ。

難しい症例でもほとんど失敗しない。

患者からの評判もいい。

外科のエースだった。

研修医はその手術を見たがる。

看護師たちも彼の手術には入りたがる。

理由は技術だけじゃない。

彼はよく笑う医者だった。

手術中でも冗談を言う。

看護師の名前を覚えていて気軽に声をかける。

そういう医者は好かれる。

そして噂も生まれる。

ナースステーションには独特の空気がある。

言葉より視線が多い。

ある看護師が近づくと会話が途中で止まる。

「江口先生、今日も遅いですね」。

そう言った看護師に別の看護師が笑いながら言う。

「先生忙しいから」。

忙しい。

その一言で会話は終わる。

でもそのあと誰もその先生の名前を口にしない。

その沈黙は妙に長い。

恋愛というより縄張りに近い。

この病院では誰が誰と寝たかなぜかみんな知っている。

医局も同じだ。

ある名前が出ると笑い方が変わる。

誰かが知っている。

誰かが聞いている。

そんな空気が常にある。

僕はある夜を思い出す。

数ヶ月前、当直明けの深夜だった。

病棟の廊下は半分だけ電気が落ちていて長い影が伸びていた。

その医師と若い看護師が並んで立っていた。

二人とも静かに話していた。

距離が少しだけ近かった。

僕が歩いていくと二人ともこちらを見た。

ほんの少し離れた。

僕は何も言わなかった。

「お疲れさまです」。

それだけ言って通り過ぎた。

むしろ少し面白いと思った。

こういう話は嫌いじゃない。

ある日、噂が走った。

「奥さんから電話があったらしい」。

その医師は当直だと言って家を出ていた。

だが妻は何かおかしいと思った。

病院へ電話をかける。

「外科の江口の妻ですが、携帯にかけても取らず、どうしても伝えないといけないことがあるので電話を繋いで頂けますか?」

受付が答える。

「本日は当直ではありません」。

それだけのことだ。

それだけなのに、その夜のうちに病院の半分は知っていた。

噂はあっという間に広がる。

医局、外来、病棟、手術室、ナースステーション。

どこでも同じ話がされる。

「奥さん、病棟まで来たらしい」。

「いや外来で待ってたって」。

「泣いてたって聞いた」。

「怒鳴ってたって話もある」。

誰も見ていない。

それでも全員が知っている。

噂は勝手に形を変える。

数週間後、その医師はいなくなった。

突然だった。

手術予定は別の医師に振り替えられた。

医局でも名前が出なくなった。

ナースステーションでも誰も話さない。

まるで最初からいなかったみたいに。

ある日、医局で研修医が言った。

「結局、誰が奥さんに言ったんですかね」。

誰も答えない。

僕はコーヒーを飲む。

この病院では誰が誰と寝たかみんな知っている。

でもその噂がどこから始まったのかだけは誰も知らない。

僕は思い出す。

あの夜、廊下で見た二人のことを。

もしあのとき僕が誰かに話していなかったら。

その可能性を僕は否定できない。

そしてふと思う。

あの飲み会で「ピンク病院ですよね」と研修医が言ったとき、最初に笑ったのが誰だったのか。

僕は思い出せない。

ただ、あの夜のことを僕は一度も誰にも話していない、とは言い切れない。


*この話はフィクションです。
いや、本当にフィクションです。
誰が何と言ったってフィクションなんです。
江口は名前にエロ入ってんじゃんっていう中学生みたいな理由からです。

「ピンク病院」や「牧場経営者」などという物騒な言葉が医療界隈に存在するという話を耳にしたことがあるような気もしますが、少なくともこの物語は完全にフィクションです。

本当です。
どうか信じてください。
私じゃないんです…いや、知り合いでもないけれど。

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