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15年目の『Happy End』— 荒浜から利府へ、3月9日の記録


3月9日夕方、利府

東日本大震災の際、遺体安置所として使われていた宮城県・利府町のグランディ・21(セキスイハイムスーパーアリーナ)。

その氷の中央に、羽生結弦が仰向けに横たわっている。白いシャツに白いパンツ、ごく薄い布地のシンプルな衣装。袖と裾は切りっぱなしで、アクセサリーも襦袢もない。とても「生(なま)」に近い姿で、演目が始まる。

15年前、この場所には、もう目を覚ますことのないご遺体が横たえられていたという。

一方、氷の上の羽生結弦は、ゆっくりと起き上がる。そして、翻弄されるように、抗うように、惑うように踊る。

4回目を迎えた「羽生結弦 notte stellata」。前半最後のプログラムは、羽生結弦が演じる『Happy End』だった。

これは、生き残った誰かの15年間の時間なのかもしれない。

昨年3月の同公演では、同じ場所で『MANSAIボレロ』が演じられた。黒いマントの上にしばらく横たわっていた5人のスケーターたちが、野村萬斎さん演じる ”神” のひと振りで、順々に起き上がるところから動き出す演目だ。萬斎さんは、振付師のシェイリン・ボーンさんに「(演目の中で)倒れて死んでいてほしい」と伝えたのだという。

一方、2026年の羽生結弦は、まだ動くことのできる自分の身体を確かめるように、手足を動かし、寝返りを打ち、ひとりで身を起こす。2025年と2026年。そこに、静かな対比を感じた。

3月9日昼、仙台・荒浜

この日は、JR東日本の平日限定の乗り放題きっぷ「キュンパス」を使った日帰り旅だった。お得な旅狙いの乗客(私もだ)で満席となった新幹線で、午前のうちに仙台に到着した。

公演会場に向かうシャトルバスへの乗車時間までは、少し時間があった。そこで、以前、「一度行くとよい」と人に勧められた震災遺構の荒浜小学校ならば時間内に訪問できそうだと思い立ち、地下鉄東西線の終点・荒井駅に向かうこととした。

時間を有効活用するため、荒井駅からは、タクシーに乗ることにしよう。キュンパスでの節約を考えれば、お安いものだ。そう考えて、運よく乗り場で待っていた一台に乗り込んだ。

「荒浜小学校まで」と伝えると、運転手さんが少し驚いたように言った。

「今日はお休みだと思いますよ?」

なんと。一瞬迷ったけれど、せっかくなので近くまで行ってから駅に戻ってもらうことにした。

思っていたのとは少し違うかたちで、地元の方と荒浜へ向かうことになった。このあたりで生活しているということは、たとえご家族が無事だったとしても、震災でつらい経験をしているだろう。そう思うと、こちらからあれこれ話しかけるのもためらわれる。

窓の外の景色を眺めていると、運転手さんのほうから、ぽつぽつと話をしてくれた。

「この辺の家、新しいでしょう。全部、震災のあとに建てられたんです」

「このお寺も、もともとは海のほうにあったんだけど、移設されてきたんですよ」

整然とした住宅街。新しい施設。きれいに整えられた街並み。

「津波の水はここまでは来なかったんです。ほら、田んぼのところで段差になっているでしょう。そこで水が二手に分かれたんです」

そして、こう続けた。

「この先は、震災のあとしばらく、工事の人とか住んでた人しか入れなかったんです。なぜかっていうと、ご遺体が流されてきていたから」

海が近づいてきたことを感じる言葉だった。不用意なことは言うまいと、ただ慎重に相づちを打つ。

そうしているうちに、荒浜小学校の前に着いた。広い駐車場は空っぽ。月曜と木曜は休館らしい。いつも行き当たりばったりの旅なので、こういうことは実はよくある(反省)。

中の展示を全部見て回ると一時間はかかるという。今度は時間をとって、休館日でないことを確認して来よう。

駅に戻ってもらおうとすると、運転手さんが言った。

「この先に慰霊の塔があるんだけど、寄っていきます?」

まだ時間は少しある。ありがたくお願いすることにした。

松の葉っぱがなくなっている境目まで津波が来た、と言われて見上げると、かなりの高さだった。慰霊の塔の観音像は、その津波の高さ(10メートル)に合わせてあるという。

平日の正午過ぎ、人影はまばらだった。

「少し降りてみます?」

そう促されて、車の外に出る。料金メーターは止めてくれていた。

早歩きで向かった慰霊の塔の手前には、大きな石碑があった。この地区で犠牲になった方々の名前と年齢が刻まれている。高齢の方の名前が多い中で、ふと、一番下の段の「二歳」という文字が目に入った。

胸を突かれたような気持ちになった。

かわいい盛りの、これからの時間がいくらでもあったはずの子ども。そんな姿を思い浮かべながら、手を合わせ、車に戻る。

シートベルトを締めながら、運転手さんに言った。

「石碑に、“二歳”って書いてあって……」

運転手さんは静かに答えた。

「高齢か、うんと小さい子が多いんだよね。やっぱり逃げられないから」

帰り道では、運転手さんの身の上話を少し聞いた。ご家族こそ震災で亡くしてはいないものの、いろいろと大変そうだった。生きることも、守ることも、人と比べなくても大変だ。

その後は、もっと気楽に、雪はほとんど降らないという仙台の気候の話や、東北の温泉の話なんかをしながら、荒井駅に戻った。


荒浜で見た景色が、まだ身体のどこかに残っていた。

その日の夕方、セキスイハイムスーパーアリーナで見たのが、冒頭のプログラム『Happy End』だった。

傷跡か、銃痕か

3月7日の初日公演は、横浜の映画館のライブビューイングでの鑑賞だった。そのときは大画面だったので、衣装がよく見えた。

ごく薄手の、ダボっとした白いシャツとパンツ。着の身着のままで飛び出してきたような姿だ。シャツに描かれた模様は、傷跡にも見えたが、銃痕というのがより近いように思えた。

このところの国際情勢のせいか、私の目には、戦争に翻弄される一人の人間の姿のようにも感じられた。

初日公演後に読んだインタビューによれば、このプログラムは「notte stellata」という被災地から再び希望を発信することを掲げた公演に合わせて作られており、やはり震災がテーマになっているという。

ただ、羽生結弦は公演の挨拶で戦争にも触れていた。また、「言葉も国籍も超えて」という言葉からは、今の国内外の不穏な空気へのまなざしも感じられた。

だから、震災以外の災いを重ねて見るのも、それほど外れた受け取り方ではないと思いたいが、どうだろうかー

身体が語るもの

そうして9日夕刻、目の前で見た演技は、衝撃的なほど素晴らしかった。裸足で舞踏しているような、一人芝居のような舞台。

以前の公演「Echoes of Life」で、言葉に合わせて自由に踊っていた通称「ポエム」の演技も素晴らしかったが、それと比べても、身体の語彙がさらに増えているように感じた。

要素と要素のつながりは、ますます滑らかになっている。上半身と下半身が自然に連動し、「今は上半身の演技を頑張るターン!」といった不自然さがない。身体全体で語っているようだ。

身体パフォーマンスを語る語彙力が乏しくてうまく表現できないのだけれど、この人はいったいどこまで行くのだろう、と思う。

黒い無骨なブーツの上には、何にも覆われていない素の肌が見える。その無防備さが、人間の脆さを感じさせる一方で、食べて寝て、なんだかんだ生きながらえていく人間のしぶとさも、同時に浮かび上がらせているように見えた。

『Happy End』という言葉

東北ユースオーケストラによる生演奏。坂本龍一作曲『Happy End』。アナウンスされた曲名を頭の中で復唱しながら、少し戸惑った。演技から受ける苦しそうな印象と、あまりにもギャップがあったからだ。

それは誰にとってのハッピーエンドなのだろう。誰が決めたものなのだろう。

Happy Endという曲は、同じ旋律が楽器を変えて繰り返される。どこかフーガを思わせるような構造だ。

何年経っても、もう大丈夫だと思っていても、ふとしたときに辛い場面を思い出すことがあるかもしれない。あのとき違う選択をしていたら、と考えることもあるかもしれない。

それでも人は生きていくために、「あの出来事にはこういう意味があった」と、出来事に意味を与えて折り合いをつけようとする。

そしてその折り合いは、環境や自分が変わるたびに、楽器を持ち替えるように何度でも書き換えられていく。

そうしていずれここが、傷も痣も丸ごと含めて私という場所なのだと思えたとき、それがその人なりの「ハッピーエンド」なのかもしれない。

2011年3月11日から、明日で15年。

2026年3月9日お昼頃、世界各地から集まってきたファンでにぎわう国際センター駅

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