もう入らないのに見てしまう。食器沼の正体
『和の器も、洋の器も、気軽に使える普段の器も好き』のみさです。こちらのnoteでは、いつものごはんを器で整える楽しさ、器との出会いや、心惹かれた食器のことをお届けしています。

食器棚の中は食器が積み上がり、もうすでに下のお皿が取りにくい状態。
棚の奥にはほとんど使っていない皿が眠っていて、「しばらくは買わない」と決めたはずなのに、雑貨屋さんの前を通るとつい足が止まる。
これって私だけだろうか、と思っていたけれど、器が好きな人なら、あるあるだと思います。
今日は、その「もう十分なのに、まだ見てしまう」気持ちについて、自分なりに考えてみました。
足りないから見ているわけではない
最初は私も、足りないから探しているんだと思っていました。
でも実際は、収納できる枚数も、普段使う皿の組み合わせも、もうだいたい決まっています。
それなのに新しい皿を見ると、なぜか心が動く。
よく考えると、それは「必要だから」ではなく、「自分にちょうど良さそうだから」という感覚に近い気がします。
棚がいっぱいでも、目に入る皿は「補充」ではなく「気分の選択肢」として見えているのかもしれません。
そう思うと、見てしまうこと自体は、それほど不思議なことではない気がしてきます。
棚の枚数は減らないのに、見たい気持ちだけが増えていく。
それは矛盾しているようで、実は自然な反応なのかもしれません。
皿を見ているとき、実は何を選んでいるのか
皿そのものを選んでいるようで、実はその先にある景色を選んでいることがあります。
たとえば、ちょっと疲れた日の夕食を、いつもより少しだけ丁寧な器にのせたい。
そんな気持ちが先にあって、皿はその気持ちを受け止める形になっているだけなのかもしれない。
だから「収納に入るかどうか」と「欲しいかどうか」は、そもそも別の場所で判断されている気がします。
頭では数を数えていても、心は景色を数えていない。
そのズレが、見てしまう理由のひとつなんだと思います。
実際、雑貨屋さんで皿を手に取るとき、私は「あと何枚入るか」をほとんど考えていません。
考えているのは、その皿にどんな料理をのせたいか、どんな日にそれを使いたいか、という方なのです。
使っていない皿にも役割がある
棚の奥で眠っている皿を見るたびに、最初は少し気まずい気持ちになってました。
「結局使わないものを買ってしまった」という、小さな後ろめたさのようなもの。
でも、よく見るとその皿たちは、買った瞬間の「ちょっと心が動いた記憶」をそのまま保管してくれています。
使う頻度は低くても、ふと棚を開けたときに「これ好きで買ったな」と思える瞬間がある。
それは実用性とは違う、もう一つの満足の形だと思います。
すべての皿が毎日活躍する必要はなくて、たまにしか出番がない皿が、暮らしの中に少しだけ余白を作ってくれていることもあります。
そう考えると、「使っていないのに増えてしまう」ことを、必要以上に反省しなくてもいいのかもしれない。
棚の中の在庫としては眠っていても、気持ちの中では、ちゃんと役目を果たしているのだと思います。
見てしまう自分を、否定しなくていい
棚がいっぱいでも見てしまうのは、わがままでも矛盾でもなく、暮らしの中で気分を整えたいという気持ちの表れなのだと思います。
もちろん、買うか買わないかはまた別の話で、見ることと持つことは同じではない。
でも「見てしまう」その瞬間まで否定してしまうと、暮らしを楽しむ感覚そのものが少し窮屈になる気がします。
棚の在庫と心の動きは、もともと違う基準で動いているものなのかもしれないです。
その前提に立つと、次に器を見たときの自分の気持ちも、少し違って見えてくるかもしれない。
「また買ってしまった」と思った日には、それを反省の対象にする前に、今日はどんな気分だったから気になったのかな、と少しだけ振り返ってみるのもいいかもしれない。
その答えは、棚の中ではなく、その日の自分の中にある気がします。
最後までお読みいただきありがとうございました。
