核実験を再開する国に平和賞を贈る国。
トランプ大統領が「核兵器の実験を開始するよう国防総省に指示した」とSNSで発信しました。中国の核保有を牽制する意図とは言うが、その一文が、広島・長崎の被爆地の心を再び波立たせました。
「どれ一つ取っても容認できない」
「世界中の願いに水を差す発言だ」
被爆者の方々の怒りは当然です。
あの夏、何十万人もの命を一瞬で奪い、政府はその後も十数年にわたり、
後遺症で苦しむ被爆者たちを〝存在しない人〟と扱ってきた。
その光景と沈黙を、言葉ひとつでなかったことにするような軽さ。
それを〝交渉カード〟として再びテーブルに乗せる神経には、寒気すら覚えます。
平和賞って、そんな軽いものでしたっけ?
さらに驚いたのは、日本の首相が「トランプ氏をノーベル平和賞に推薦する」と言ったという報道。
いったい、どの行為を〝平和的〟と見なしたのでしょうか?
交渉? 抑止? それとも「戦争を起こしていない」という現実?
でも、平和賞は〝終わった戦争の表彰式〟ではありません。
ノーベルの遺言が示すのは、諸国民の友好や軍縮、平和の枠組みを一歩でも進めた実務です。結果が未完でも、その前進を評価します。
もし、核実験の再開を口にした人を平和の象徴にするなら、
その瞬間に「平和」という言葉の価値は紙くず同然になります。
被爆国ニッポン、どこへ行く?
日本は、世界で唯一の被爆国です。
「核を持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則は、
戦後日本が築いてきた〝世界への約束〟でした。
それを、いま政権トップが「核実験を示唆する国のリーダーを平和賞候補に」と言う。これほど世界に誤解を与えるメッセージはありません。
被爆地・長崎の市長が「ノーベル平和賞には値しない」と明言したのは、
〝政治〟ではなく〝人間の感覚〟としての正義の声だったと思います。
「抑止力」という言葉の魔法
「抑止力を高めるための実験だ」と言う人がいます。
でも、抑止力って便利な言葉ですよね。
結局、「怖がらせるために怖いことをする」ということ。
そして、その「怖がり競争」は終わりません。
つまり、「平和のために核を持つ」というロジックは、
「ダイエットのために毎晩ケーキを食べる」と言ってるのと同じです。
人は、痛みを忘れると、同じ過ちを繰り返します。
国家も同じです。
トランプ氏の発言も、高市総理の推薦発言も、
どちらも「痛みを知らない人たちの言葉」に聞こえます。
被爆地の声を政治のPR素材にせず、
国のトップがまず〝学び直すこと〟から始めてほしい。
平和とは、感情ではなく、理性の訓練です。
そして「核を使わない」という覚悟もまた、
人類がまだ手放してはいけない“知恵”のひとつなのです。
