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最強上司に耐えきれず退職覚悟で全てをぶちまけたら、1mmのブレもなく仕事にまい進できるようになった話

入社5年目で「産学連携チーム」という、ジャフコの中で1番小さい投資チームへ、僕は異動になった。大学発ベンチャーや大学の研究室を訪問する日々が始まるのだが、その中で最も衝撃を受けたのは、CYBERDYNE(サイバーダイン)社率いる山海嘉之社長だった。筑波大学発ベンチャーで、世界初の装着型ロボットスーツ「HAL」を開発していた。

15億円超という、2010年代初頭の当時のジャフコには最大規模の投資額。その背中を押してくれたのが当時の社長だった。
ここまでが前回のあらすじだ。


辞表を手に涙目で挑んだ進言

CYBERDYNEの大型投資を実行した後は直属の担当役員が代わり、僕は毎月その人と一緒に、茨城県つくば市にある本社を訪問した。その上司は、社長よりもさらに強烈な人で、僕史上、最強にして最恐の上司だった。

キャピタリストとして、この人には絶対に敵わないと今でも思うほどの人だ。相手をグリップしつつ、投資先の経営者に対しても臆せず本質的な正論を常にぶつけ、時に相手を導いていく。

軸がブレない方で、仕事のやり方や向き合い方のみならず、生き方や、経営者との接し方、ビジネスの捉え方など、その上司と一緒の仕事を通じてさまざまなことを学ばせてもらった。当時のその人のレベルに今の自分が達しているのだろうかと、今でも時どき思うぐらい、色んな引き出しをお持ちだった。

本当に仕事にとても厳しくて、自分にも厳しく、そして部下にも厳しい方だった。正論を言われると、誰も言い返せなかった。僕もとても辛かった。ある時、僕は本当に耐えられなくなり、この人の元では続けられない、もう会社を辞めてしまおうと思った。

妻との結婚式で乾杯の挨拶をしてくれた方だったので、妻にも相談すると、「もう辞めるなら思っていること全部言っちゃえば」と。その言葉に背中を押された。

辞表を用意し、お話ししたいことがあるとその担当役員に伝え、会議室で2人っきりになった。何と言われるか怖かったが、耐えられないのでもう会社を辞めたいこと、納得のいかないこと、僕なりにその人の良くないと思う事、それまで言いたくても言えなかったこと全て、本人を目の前にし、感情も高まったのか、涙目になりながら全てをぶちまけた。

これでもう僕はジャフコを辞めてしまうんだ。そう思うと、急に悲しくなった。

シード投資を行い社外取締役として毎月、山形県鶴岡市に訪問していたSpiber社の関山さんにその日、ジャフコを辞めることにしたと電話で伝えた。初回投資のとき、これからもずっと関わっていくと約束したのに、途中で離れてしまうことが申し訳なく、悲しい気持ちになり、涙ながら関山さんに報告した。

前言撤回し再び挑戦の道へ。きっかけは「信頼する社長の金言」

後日、大学発ベンチャーに共同投資をしてその頃お世話になっていた同業他社の社長に、「上司に耐えられなくなり、実は辞めようと思っている」と報告した。すると「自分が投資した投資先企業は上手くいきそうなのか?」と聞かれた。
僕は「あと数年すればCYBERDYNEは上場できると思う」と答えると、「伊藤くん、それなら成果が出るまで待った方が良いよ」と。続けて、「その人を理由にして辞めるのか? 他人のせいにして会社を辞めない方がいいよ、その人のせいで辞めるなんて悔しくないか? 少し冷静になってみては」と諭された。

当時その社長は、大学発ベンチャーへ果敢に投資を推進していた。その社長に信頼を寄せていた僕は、その後考え直して、会社を辞めないことにした。

たまたまその時に読んでいた書籍『自分の小さな「箱」から脱出する方法』によると、人間関係は相手の問題と考えがちだが、本当の問題は「自分」にある、と書かれていた。それも後押しになった。

丁度そのタイミングで、文部科学省が、ベンチャーキャピタルによる大学発のシーズ事業化のためのプログラム、大学発新産業創出プログラムSTART事業(現D-Globalの前身のプログラム)の立ち上げを進めており、僕も当時の担当課長補佐からそのニーズヒアリングを受けていた。素晴らしい取り組みだと思った。大学シーズの事業化をやりたかった僕は、これを僕がやらずして誰がやるんだ。会社に残ってこれをやりたい、と強く思ったことも理由だった。

前言を撤回しジャフコに残ると決めた僕は、担当役員になかなか言い出せなかった。いつ伝えようか、タイミングを見計らっていた。その矢先、ちょうど一緒にCYBERDYNEの定例ミーティングへ行く機会があったので、つくばエクスプレスの研究学園駅に着いてから気持ちを落ち着かせ、駅前の駐車場で、ミーティングが始まる直前に僕は、恐る恐る切り出した。

「あの後、いろいろと考え直してやっぱり会社に残ることにしました、すみません」と、会社を辞めない意思を伝えた。辞めるつもりでその人に全てをぶちまけた僕はとても気まずく、ばつが悪かったが、一言、「わかった」と担当役員は受け入れてくれた。 

当時2012年。そこからの僕は、本当に全てが吹っ切れて、ひたすら業務にまい進した。その担当役員とも特にギクシャクすることなく、毎月一緒にCYBERDYNEを訪問し、普段から普通に話せる関係になった。

文部科学省のSTART事業が始まり、僕のチームが事業プロモーターとして採択。母校である東京工業大学(現・東京科学大学)の手術支援ロボットの事業化プロジェクト(現・リバーフィールド社)の事業化を僕がリードし、プロジェクト採択後、研究者と一緒に創業プロジェクトを開始した。

リバーフィールドの起業前の2013年にプロジェクトメンバーと一緒にドイツのMEDICAに出展

想像以上に僕を奮い立たせるもの。ずっと探し続けた「青い鳥」がやっと見つかった

研究者との事業立ち上げは本当に楽しかった。時に僕が社長代行のようにプロジェクト方針を取りまとめ、外部パートナー候補である上場企業の社長とも直接交渉したり、話をまとめるなどをした。スタートアップの社長はこんな感じなのかもしれないと、社長の疑似体験をした。

マイクロ波化学株式会社などにも投資を行い、仕事は順調だった。自分が自然体で、1mmのブレもなく大学発ベンチャーに投資する仕事にまい進して、楽しんでいる自分にふと気づいた。もしかしたらこれが、僕がずっと探していた、自分が心の底からやりたいと思える「青い鳥」かもしれない。徐々に手応えを感じるようになった。

当時の世の中は、大学発ベンチャーの成功が強く求められ始めてきた時代。どうやら僕は社会が注目している大学発ベンチャーに投資している。そしてその仕事に夢中になっている僕がいる。

大学発ベンチャーの事業化や成功こそが、アカデミアへの資金循環につながり、次の研究開発のサイクルにつながっていく。

大学で開発された知を社会に還元し、このサイクルをもっと回して行くことこそが社会に求められているし、これは僕の与えられた「使命」なのではないか。

周りを見渡しても、この領域に夢中になっている人は限られているし、もしかしたら大学発ベンチャーに投資するこの仕事こそが僕の「天職」なのではないか。そう思えるようになった。

やった。ついに「青い鳥」が見つかった。学生時代の挫折、そして入社後のつらい状況から這い上がって手にしたものは、想像以上に僕を奮い立たせるものだった。

一度退職を考えた2年後の、2014年3月。CYBERDYNEはマザーズ市場に上場を果たした。これまで上場したことのない初物のロボットベンチャーであったため、投資家からも期待され、僕が想定していたよりも大きなリターンを会社にもたらした。

その年に初めて創設されたジャフコ社内の表彰制度にて、EXIT部門の第1位を受賞。産学連携チームに異動したときのこと、苦労したこと、会社を一度辞めようとしたことなどが思い出され、今度は担当役員と喜びを分かち合い、その人の肩を借りて嬉し泣きをした。

EXIT部門の第一位の受賞。現会長、当時の豊貴前社長と

ジャフコに入社してから11年目。ようやく大きな区切りとなる仕事が完了した。入社したときのことをふと思い出す。「そういえば僕は、起業するために入社したんだ」。

天職を見つけた僕は、できるかわからないけど、「起業」が具体的に考えられるようになってきた。失敗しても、もう一度サラリーマンに戻ればいい。

大学発ベンチャーはこれからますます社会に求められる。しかし、それらを支援する担い手は、まだ日本には少ない。大学発ベンチャーに対して必要十分な投資を行う投資家もまだ少ないし、研究者の周りに経営者はいない。けど、その課題解消に向けて、誰かがやらなければならない。

また、商業化を目指す研究者に対し、大学がしっかり支援を行うことは構造的に難しい。であればそれらを解決するような理想的なVC(ベンチャーキャピタル)が日本に必要なんじゃないか。もしかしたらそれを自分が担うべきではないか。

「よし、起業しよう」と僕は決心した。

会社に退職を告げたあと、最初の上司であった人とご飯を食べた。入社して全く使いものにならなかった僕を見捨てず、ずっと丁寧に指導してくれた人だ。
もう1人僕がいるなら、ジャフコに残ってこれまで通りの仕事をしたかった。それぐらいジャフコに恩義を感じていたし、大好きな会社だった。けど自分は後悔をしたくない、だから退職を認めてもらいたい。そのような話をした。

お世話になった人を裏切ることが、今度はとても辛かった。自分はなんてわがままな奴なんだろうと、当時のオフィスがあったビルの居酒屋のオープンなスペースで、その人の前で人目をはばからず男泣きした。2014年7月のことだった。

出会いと幸運が導いたディープテックVCへの道

さて、note第2回冒頭の「僕が運が良かったと思うこと」について、最後に触れたいと思う。

実は、最初の上司はジャフコの現社長だ。僕は新人の頃からずっとその人から指導を受けることができた。あの時もし、別のチームに所属していたら、僕はその時に会社を辞めていたかもしれない。そうなっていたら、大学発ベンチャー業界はもとより、ベンチャーキャピタルとまったく関係のない仕事をしていたかもしれない。最初の上司に恵まれて本当に幸運だった。

そして5年目の若造の僕を産学連携グループ長として推してくださった前会長。ジャフコが野村グループだった最後、野村證券から社長に就任されていた方だ。若手抜擢は野村證券の文化だと当時、聞いたことがある。恐らくその考えで、僕を抜擢していただいたのだと思う。

当時の僕の実力以上の、背伸びをしたポジションへの人事異動で、僕は大きく成長した。この判断が無ければ間違いなく今の仕事をしていないと断言できる。本当に感謝しかない。「好きにやって良いからな」と言う前会長の一言に背中を押され、思い切りできた。その方は野村證券時代に人事も担当されていたと聞く。今振り返ると、僕の適性を見抜いておられたのかもしれない。

それから、前社長からは、ジャフコの再成長期、戦時のマネジメント、ドラスティックで抜本的な意思決定、仕事に対する厳しさを学んだ。投資委員会での投資案件に対するさまざまな視点を示す事や、「良いんじゃないか」と背中を押してくれる懐の深さは、僕も無意識に真似ているように思う。思い切ってCYBERDYNEに大型投資できたのはその方の後押しが大きかった。

そして最後の直属の担当役員は、「キャピタリストとしてこの人には絶対に敵わない」と今でも思う人だ。キャピタリストとして、幹となる考え方やスタンスはその方譲りかもしれない(これは僕の願望でもある)。
どんなに強い経営者に対しても、共感を伝えつつ、言うべきときには言う。そして時に、「起業家を奮い立たせるような一言を言える強さ」もキャピタリストに求められる力だと学んだ。現在代表としてジャフコアジアを統括されており、投資地域がインドで重なっているので、独立後もお会いしたり、時折お話しすることがある。会うと今でも緊張する(笑)。

最初の配属から、飛ばされたと思った産学連携グループへの異動。人生は本当にわからない。身近で常に指導をしてもらった元上司、担当役員がジャフコを代表する方々であった。

また、あの時、文部科学省がSTART事業を企画していなければ、そのまま会社を辞めていたかも知れない。当時企画推進していた文科省の寺崎さんにも感謝を申し上げたい。日本のことを憂い、真剣に取り組んでいる官僚の方々に、僕も背中を押された。また事業プロモーターや事業化プロジェクトの採択を審議して下さった各委員の方々にも様々なフィードバックを頂き、あの時の委員の皆さんから、僕は育てて貰ったと感じている。

最後に、特別な感謝を伝えたい人物がいる。実は、僕が退職を真剣に考えていた時、もう一度よく考えるようにとアドバイスをくれたのが、現・日本ベンチャーキャピタル協会会長であり、UTECの郷治友孝社長だ。
もしあの時、郷治さんに相談していなかったら、僕はおそらく別の道を進んでいたと思う。間違いなく、あの瞬間が僕の人生の分岐点だった。この場を借りて、改めて郷治さんに感謝の意を表したいと思う。ありがとうございました。

あれから10年が経った。

日本政府の強力な後押しもあって、大学系VCが次々と設立され、これまでIT関連投資が中心だったVC各社もディープテックスタートアップへの投資を始めている。

最近は大学発ベンチャーやディープテックスタートアップが徐々にスタートアップのメインストリームに移っていることを実感する。

誰も大学発ベンチャーに見向きもしなかった2008年。いわば「不毛の時代」から僕は関わることができたおかげで、いち早く業界の問題点や課題を認識し、Beyond Next Venturesとしてそれらの課題解決に取り組むことができた。そして、この10年を通して、ディープテックVCの一角を担えるようになった。

何よりも、僕を鍛え上げてくださった素晴らしい元上司の方々や、良い投資機会に恵まれ、結果的にこの仕事を天職と感じられるようになったのは、本当に運が良かったとしか言いようがない。

一方で、長年に渡って関わってきたからこそ見える業界の本質的な課題に対して、目をつぶることができなくなった。

ディープテックスタートアップ業界にいち早く取り組んできた立場として、僕が果たすべき新たな役割があると感じている。僕は、残りの人生をかけて、その課題解決に全力で取り組む覚悟だ。

2025年は、その挑戦の第一歩を踏み出す年にしたいと思う。

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