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ヘリオス 外伝 第3話


すっかり日暮れが早くなった10月の夜、凪先生と「龍歌」を合わせることになった。遅い時間帯の教室のためか、ギャラリーは若者が多い。女性の多い中の後方に、堂々たる男の存在が際立って見える。

東雲さん、心配なんか不要ですよ。俺は凪先生を貴方から奪おうなんて、1ミリも思っていない。

俺はただ、貴方の凪先生に、どうしても惹きつけられてしまう情けないこの想いを、消してしまいたいだけなんだ。どうしたら忘れられる。誰でもいい。お願いだ、教えて欲しい。

「優成くん、準備はいい?」

「いつでもどうぞ」

この痛みは、指だろうか、心だろうか。凪先生との合奏は夢中になれる。指が、手が、身体が勝手に弾いている。演奏に入り込める分、裸の自分を晒すことになる。オブラートにも何も包まない、素の自分の感情を。

「龍歌」のような曲であれば、凪先生にも東雲さんにも、俺の想いは伝わってしまうんだろう。まだ気持ちがそこにあるまま、おりのように留まっていることを。

仕方がない。こういう風にしか、俺は弾けない。



熱中した演奏の場合、自我が戻るのに時間がかかる。少し息をついて周囲に五感を戻す。静かなものだ。高評価の場合は聴衆も、我に返るまでに間がある。安堵するかしないかのうちに、背中にドシンと何かぶつかった。

「優成!好きだぜー!」

昴に後ろから抱きしめられた。弾みで少し前屈みになる。女の子たちの黄色い声があがる。

「またギャラリーの前でそういうことを言うな!香織ちゃんに言うぞ!......昴お前、泣いてるのか」

「そういう意味じゃない!本当に好きだぜ!」

「こんな時だけ真面目だな。昴が泣いてどうする」

昴は本気で泣いていた。演奏を通して、俺の想いが伝わってしまうんだろう、痛いほどに。

「昴、お前には心配ばかりかけてごめんな。いい友人を持って俺は幸せだよ」

微笑んで言うと、昴は尚俺にくっついて泣き続ける。

「友人じゃなくて親友だろ?」

「はいはい」

肩に乗った親友の頭に、ぽんぽんと手をやる。見るとまだ習いたてのような若い門下生の女の子たちが、熱があるような顔で俺たちを見つめている。

俺はふーっとため息をついた。

「完璧だね、優成くん」

愛してやまない声が聞こえる。決して手の届かない、俺の恩師。

「ありがとうございます、凪先生も。凪先生、俺の後ろのおんぶお化けみたいな先生の弟子を、どうにかしてもらえませんか」

凪先生は大きな眼を細めて、可愛い苦笑をした。

「昴くんは優成くんが大好きだからね、私じゃどうにも出来ないかも」

「お化けって言うな!一生、付き纏ってやる!」

ギャラリーの一部が、卒倒しそうな表情をして声をあげた。

「やれやれ、これはまた変な噂が立つな」








「いつまでも、君を。」

広告のラフ案が出来たということで、俺はennuiの本社に出向いた。京橋にあるオフィスビルの5階、清潔な印象の会議室に通された。

広告は3種類準備されるそうだ。俺単体と岸さんと、2人の写真。

「ではまず、山田さんの方から見て行きたいと思います」

その最有力候補と言われる写真を見て、思わず目を見開いた。

「俺、こんな顔していたんですか」

Proofreader売り出し中の着こなしが美しく見える生成りのシャツに、首元に永遠を表すマークの揺れる、ennuiのネックレス。かすかな笑顔の中に確かに恋情を乗せて、叶わぬ恋から抜け出せず苦悩している表情を露わにしている。

何の呪いだ、これは。

「素晴らしいだろう。ennuiにこんなにピッタリ当てはまる表情はないよ。街中の女の子が振り向いて、卒倒しそうな広告だ。その辺の数枚も魅力的だけど、これがダントツだ」

井口さんが自信満々に俺に言う。

「このキャッチコピーは、変えられませんか」

これじゃ凪先生へのラブレターそのものだ。見る人が見ればすぐに分かってしまう。俺は、2人の邪魔をする気はさらさらないし、波風を立てるのでさえ嫌なんだ。

「気に入りませんか?だけどこれはコピーライターの戸越先生に写真を見て頂いて作ったもので、我が社でも満場一致で決定したんです」

こういった広告を一つ作るのに、目に見えぬ大多数の人間が全力で関わっていることを、俺は知っている。それならこれは、素人の俺が動かしていいものじゃない。

「せめて写真は、こちらに変えられませんか」

俺は攻撃的に前を見つめる自分の写真を指して、請うように尋ねた。

「それも写真としては最高なんだよな。だけど、ennuiの広告となると、やっぱりこっちが外せない」

宝物でも見るような眼で最初の写真を見つめる井口さんは、譲らない。

もう俺たちが決める前の、決定事項なんだな。それなら俺が我儘を言うことじゃない。俺の逃げ場は、どこにもない。


「では次に、岸さんの方です」

「これは、すごいな」

ばさりと出されたラフ案と写真を見るなり、声が出た。

ここにいる可愛らしい岸さんから出された表情とは思えない、大人っぽい気怠さ。何を考えているか分からない無表情の魅力。俺のと対にして見るとよく分かる。腹の底まで見せてしまっている男と、全く感情が読み取れない女。男が女を追っている、女性が主役の、女性向けの世界だ。

「そうだろう。山田君は岸さんを撮っている間、上の空だったからね。気づかなかったんだろう、岸さんの魅力を。彼女は本物のアーティストだよ」

「すみません」

「非難している訳じゃないよ。君をそうさせたのは俺だからね」

ふたつ並べられた広告案に魅入る。

「それで、この広告の間に、こちらが入ります」

余計な色も装飾も一切使わない、背中を合わせて触れ合う2人の世界。かすかに後ろを向いて気にする男と、前を見つめる物憂げな女。デフォルメされた訳ではないのに、際立って美しく見えるennuiのジュエリー。

鳥肌が立つ。感服だ。

「どうだ、惚れただろう、俺の腕に」

「はい、惚れました。井口さんはもちろん、これに関わった皆さん全ての、情熱と能力に」

「君のその顔で殺し文句を言われると、檻に閉じ込めて全身食いつくしたくなるな」

「......井口さんとの仕事は、危ないので今後ご遠慮します」

井口さんはクツクツと笑った。





「岸さんは凄いね、あの表情にはゾクッとした」

「そのことば、そっくりそのまま山田君に返すよ。あれは、女の子泣いちゃうよ」

俺たちはまた2人でレストランに寄った。遅い時間だから、今度は夕食を共にしている。優しい照明の灯る落ち着いた印象のイタリアンには、ドビュッシーのピアノ曲「月の光」がかかっている。

「俺は自分でやった訳じゃないから。井口さんが引き出しただけだよ」

レタスがいっぱいのサラダを食べていると、パスタが来た。ペペロンチーノとボンゴレ、共に提供される。おいしそう、と岸さんが和かに言う。

「それにしても広告の世界はすごいね。俺は普段、裏方にいるから勉強になったよ。岸さんは他のブランドの広告にも出たことあるの」

衣装を選ぶ時に彼女のことを調べたけれど、じゅうぶんには見きれていない。

「あるよ。見せようか」

そう言って携帯を触り出し、写真を幾つか見せてくれた。

「これは私が大好きな紅茶のブランド」

ennuiの時とは全く違う、くつろいだ表情で紅茶を飲んでいる。緑の木々の背景に溶け込むような、ディズニー映画のような世界。

「凄いな。本当に美味しそうに見える」

「うん、本当に美味しいの」

そう言って、今それを飲んだような顔で俺を見た。

「こっちは傘」

岸さんは次の広告の写真を見せた。薄暗い雨など何のこともないように、まるで少女のような顔をして、全身いっぱいに嬉しそうな表情を載せ、傘を高く上げている。

「本当に凄いね。商品によって表情が変わる」

「ありがとう。お話を頂くと、研究するの。どういうブランドなのか、何を大切にしていて、何を訴えたいのか、どんな歴史を、歩んで来たのかなって」

彼女は器用にパスタをフォークに巻いて、綺麗な仕草で口に運んだ。

「そうやって商品そのものと、それを作り上げた人の熱を自分の中に取り入れてね、寄せていくの」

「それは、分かる気がする。箏の世界と同じだ」

岸さんは微笑むと、水滴のついているぽってりとしたグラスを持って、一口水を飲んだ。

「私ね、ennuiを研究しているときに、山田くんのことも調べたよ」

「俺を?」

「うん。どうしてこの人を選んだのかなって。それで私に求められることも分かるでしょう。だから山田くんの、お箏のYouTubeをたくさん見たの。感動して、聴いていて泣いたのもあった。それで、ennuiが山田くんに求めていることが、何となく分かったの。それなら私はそれに合う被写体になろうって」

「岸さんは井口さんに言われて、あの表情を出したんじゃないの?」

「違うよ、助言はもらったけど」

「岸さんには感服する、本当に」

この子との会話は話が弾む。食後の飲み物がちょうど良い加減で提供されると、岸さんが紅茶の香りを嗅いで微笑んでから俺に尋ねた。

「優成くんって呼んでもいい?」

「駄目」

思わず強めに即答してしまったことを誤魔化そうと、次の会話をすぐに繋ぐ。

「呼ぶなら呼び捨てにして」

「呼び捨てでいいの?」

「いいよ。大抵は名字か名前の呼び捨てか、優って呼ばれる。キラキラ君って呼ばれることもあるけど」

「何それ、ぴったり!じゃあキラキラ君で!」

「ちょっとそれは、恥ずかしいからやめようか」

そう笑って俺はコーヒーを一口飲んだ。岸さんの目が輝いている。彼女との間には、ぎこちない空気が存在しない。

「じゃあ、優成!」

「うん」

俺は微笑みを返した。

「私のことも一華って呼んで」

「分かった、一華」

そう言うとくすぐったそうにした。随分と優しい顔で笑う子だな。思わず、あの大きな目を細くして微笑んだ恩師を、思い出してしまった。

「私ね、お箏の演奏に本当に感動したの。それで、生で聴いてみたくて、川崎流の次のチケットを取っちゃった。銀座の演奏会の」

銀座の演奏会......。

「あれは、全体的には誇れるけど、俺の弾く曲が一つ良くない」

「え、何を弾くの」

「アンコール企画で、『龍歌』っていう曲があるんだけど、それを」

あれほど今の状態の心を晒される曲はない。演奏として評価が高くなるのは、勿論承知の上だけれども。

「龍歌、私、YouTubeに上がっている曲の中で一番好き。切なくて、泣きながら何度も繰り返し聴いたの。まるで今日のennuiの広告みたい」

動画なら編集されていても、近くに凪先生がいる生の演奏なら、俺の想いをそこにいる全ての人に晒すようなものだ。俺はいまだに、この人が好きなんだ、どうにかしてくれって。

全く、広告と言い演奏と言い、今どきの俺には心情の個人情報は保護されない。

「それなら俺は、全力を尽くすよ」

苦笑してそれだけ言った。一華はかすかに、心配するような傷ついたような顔をした。

俺と一華はLINEを交換して別れた。外は穏やかな風が吹いている。10月のこんな夜に合う曲があった。凪先生が弾いた、「藍と月」。帰り道、俺の心の中には凪先生の演奏が流れていた。結局俺は凪先生に、戻ってしまうんだ。






続きはこちら。


前回のお話はこちら。


本編第1話はこちら。


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