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中心のない大阪万博、見えない公(おおやけ)、動物としてのヒト

本記事の狙い:大阪万博の「完成前/後の評価のギャップ」を起点に、
万博の空間デザイン(01章)/万博から見える社会構造と今後の公共性(02・03章)/今後の建築の価値(04章)
の3つの視点で考察します。
万博の見学に役立ったり、万博の面白いとろこを紹介する記事ではありませんのでご注意ください。


2025年春に開幕した大阪万博。
建設段階ではさまざまな批判やバッシングにさらされていましたが、
開場後は一転、
実際に訪れた人々からは「気持ちよかった」「楽しかった」といった肯定的な感想が多く寄せられているように見えます。

もちろん、依然として一定数の批判は存在しています。
それでも「計画段階での評価」と「体験後の評価」がまったく異なることは事実であり、
むしろそれこそが今回の万博の本質なのではないかと感じています。

本記事では、
今回の大阪万博の特徴(第01章)
そこから見える今後の社会や公共性のあり方(第02~03章)
そして、
万博以後に問われる建築の価値(第04章)
・・・という3つの視点から考察を行います。

全体を通して読んでいただけると嬉しいですが、
かなり長いので、
以下の目次から選んで、気になる部分から順に読んでいただければと思います。



01. 中心のない万博

01-01. 大屋根リングはなぜ気持ちいいのか?

今回の万博の象徴は、何といっても「大屋根リング」でしょう。
計画段階では、正円の平面形状や、大阪の都市環境から切り離された立地などに対して、「閉鎖的」「権威主義的」といった批判がちらほら見受けられました。
しかし、実際にリング上を歩いた人々は、口をそろえて「快適だった」と語っています
僕自身も歩いてみましたが、お世辞抜きで本当に気持ちが良かったです。

リング上(撮影:筆者)

雑踏で混雑する地上レベルから抜け出し、海風と広がる景色を感じながら歩くリング上。
緩やかなランドスケープが続く屋根の上は、河原の土手を歩いているような感覚になります。
ある程度他人とペースを合わせ、ゆっくり歩き続けないといけないのですが、
実際には誰かに強制されているという感覚はなく、純粋に身体的な快適さが際立ちます。

上空から見ると、まるで蟻の行列のごとく一定のリズムで円周を歩く、そんな人々の様子が見れるであろう大屋根リングですが、
なぜこれほど気持ちが良いのでしょうか?
この理由には、
「A. 建築デザインの秀逸さ」
「B. マーケティング・計画の巧みさ」という
2つの視点があるように思います。

A. 建築デザインの秀逸さ

  1. 巨大な円形スケール
    突然の曲がり角がなく、ストレスなく歩き続けられる。
    停滞も生まれにくい。

  2. ランドスケープの土手感
    原理主義的な円の印象をやわらげ、ヒューマンな雰囲気を演出している。

  3. 屋根の存在感のなさ
    屋根の見付(縦の厚み)が薄く、
    地上から見ると人の動きだけが見える設計になっている。

屋根は木のゴツイ構造体の上にペラッと乗っかっているため、
屋根上を歩いている人の存在が映える。
(撮影:筆者)

B. マーケティング・計画の秀逸さ

  1. 地上との対比によるカタルシス
    1日15万人という来場者の設定により、
    地上の混雑とリング上の開放感に明確な差が生まれる。
    これにより、リング上に上がることでの快感が強調される。

  2. 縦動線のボトルネック
    エスカレーターやエレベーターの容量が自然にリング上の人数を制限し、
    過密を避ける効果を生んでいる。

  3. 俯瞰視点の提供
    リング上から全体を見下ろすことで、
    予約が取れなかったパビリオンでも接点を持つことができ、
    リピート来場への期待感を与える。

  4. 目的のなさが演出する自由
    リング上には明確な目的地が存在せず、
    ユーザー自身が「好きなタイミングで上り下りを選んでいる」と感じられる構造になっている。

入れないパブリオンも、リング上からなら一望できる。
(撮影:筆者)

01-02. 中心のない地上、興ざめする建築群

リング上が明瞭なユーザー体験を提供するのに対し、地上レベルの体験はどうでしょうか。
前回の大阪万博における「お祭り広場」や「太陽の塔」のような、明確な中心となる空間やオブジェクトは今回は存在しません

会場中央に「静けさの森」があったり、「nullnull」などの目玉パビリオンは存在します。
しかし、どれも計画全体の中心的存在としては計画されていません。
加えて、来場者は「たまたま出会えた展示」と「たまたま入れたパビリオン」を体験するという、部分的かつ偶然性の高い体験を強いられます。
なぜなら、予約制や時間的な制約によって、一度の来場で見学できるパビリオンやその他小建築の数は限られているため、
行けるところ、入れるところ、近くにあるものを選ぶことになり、
乱立する個性的な建築群をすべからく計画的に過ごす、ということは難しいからです。

筆者が来場した日の来場者数は16万人で想定人数とほぼ一緒で、気温は26~28度。
それにもかかわらず、地上レベルは混雑し、
行き場のない人たちがリング下の柱に寄りかかっていた。
(撮影:筆者)

個人的な感想として、この「乱立する建築群」に対してどこか興ざめしてしまった部分がありました。
もちろん一つ一つの建築物のデザインは面白いですし、
技術的な進歩に目を見張ることも多々ありました。
しかし、それぞれの建築物が「正しさ」や「社会的意義」を主張する様子に、
まるでYouTubeのサムネイルを延々と見せられているような疲労感を覚えました。

この点に関しては、詳しくは04章の
「04-03. 視覚に偏重した建築のゆくえ」
「04-04. 建築のナラティブはどこまで耐えうるか?」

で改めて掘り下げています。


01-03. 万博vsディズニーランド:俯瞰vs没入

このようなユーザー体験は一見すると、ディズニーランドなどのテーマパークにも似ているところがあります。

ディズニーランドもまた、多様なコンテンツが散在しており、
時間の制約の中で限られた数の世界観に出会う、という構造を持っています。
来場者が計画的な行動を遂行するというよりも、出会った世界観やコンテンツを1つ1つ消費する点や、
計画全体の中心となるオブジェクトや広場があるわけではない点は、万博と共通点もあります。

ただし、両者の決定的な違いは「没入感の演出」にあります。

ディズニーランドでは、動線計画や視覚デザインが徹底されており、ユーザーの視点から「全体を見渡す視点」が徹底して排除されています。
そのため、利用者は一期一会で出会った世界観に自然に没入することができ、全体性を意識することなく、自身の感覚に没頭できる設計となっています。
そこにはユーザーを自然に誘導し、裏でユーザー体験を支える「不可視の建築計画」が存在します。

一方で大阪万博は、リング上から会場全体を見渡すことができます。
個々の建築物やコンテンツは「一期一会」ではなく、無数のうちの「one of them」として相対化される構造となっています。
つまり、ディズニーランドの「不可視の建築計画」を地上から剥ぎ取り、
上空=大屋根リング上に移し替えたのが大阪万博
となります。
結果、各コンテンツの需要の仕方や没入感もまた、根本的に異なります。

もちろん、ここで僕が言いたいのは「ディズニーランドが良くて、万博が劣っている」ということではありません。
ユーザーをひたすら動員し消費するテーマパークはあくまで商業空間としてしか成立しませんが、
誰もが全体像を俯瞰し、相対化することができる構造を持つ万博は未来の都市構造として議論する価値があります。


01-04. 予約都市?オンライン空間の問題?

少し話題を広げ、
ここで「オンライン空間のデザイン」についても触れておきたいと思います。

大阪万博では、予約システムの不備や本質的な課題を指摘する声があがっています。
「予約というオンライン的な体験が、万博の『未来の都市』たる空間体験に支配的な影響を及ぼしているのでは?」という批判であり、
オンラインとオフラインが統合する「OMO(Online Merges Offline)」的都市空間の在り方を議論すべきだ、という意見としても理解しています。

このような議論は建築界ではあまり取り上げられてこなかったものの、
7〜8年前からこの点に着目し実装も進めていたリテール業界に比べると、やや議論が遅れている印象もあります。

また、予約システムへの不満の多くは、
「パビリオンに入りたくても予約が取れない」
「地上が混雑してアクセスが悪い」
といった、
来場者数設定に起因するものであり、
これは本質的にはマーケティングの問題です。
「何人来場すれば採算が取れ、想定したユーザー体験を維持できるか」
という枠組みのなかで計画されている以上、これは都市空間の設計というより経営的判断であり、
オンライン空間や建築の問題として議論しても実りが薄いのではないかと感じています。

なんなら、来場者数の設定によって、「リングの中、地上レベルは暑くて、混雑/屋根下は休めて日陰があり、屋根上は開放的」というコントラストが生まれ、大屋根リングの価値をさらに高めています。
これはマーケティングによって生まれたマッチポンプであり、
夢洲という隔離された場所だからこそ可能になったマーケティングの実証実験でもあります。

だからこそ、この万博をめぐっては、
「建築物に着目した議論」か、
あるいは「マーケティングが人間にどう作用するのか」という構造的な議論の
いずれかに絞って深めるべきではないかと、個人的には思っています。


02. 見えない権力、日本的な公共性

第01章では、万博での体験と、それを支える構造(デザインとマーケティング)について述べました。

第02章では、その構造が引き起こす計画とユーザー視点のギャップに焦点をあてつつ、
今後の社会構造や公共性の未来について考えます。


02-01. 動物としての人間、僕たちはリングに動「かされて」いる

まず最初に確認しておきたいのは、
僕たちが屋根リングの上を歩いているとき、意識することもなく、まるで動物のように
ものの見事に動かされている
という点です。

一旦、大屋根リングを上空から俯瞰した視点を想像してみましょう。
おそらく以下のような感じだと想像できます。

  1. 埋立地という元々は何もない場所に、

  2. 人工的な円形に沿って、

  3. 多くの人が似たような速度でゆっくりと歩き続けている。

  4. しかも、基本的に立ち止まることはなく、

  5. 明確な目的を提供されていないのに、

  6. それなりの長距離を人々が勝手に歩いている。

こうした行動パターンは、鳥の目で見れば、蟻の軍団が一堂に動くようであり、
人間の自由意志とはかけ離れた動きに映ります。
しかし、実際にリングの上を歩いている人は、
不自然さや窮屈さを覚えることなく、むしろ圧倒的な開放感や自由さすら感じます。
これは、第01章の「01-01. 大屋根リングはなぜ気持ちいいのか?」で述べた通り、
デザインが非常に優れているからこそ実現できています。

しかし、ここで私たちが注意を払うべきなのは、
「デザインが良い」ということを単純に肯定してはいけないということです。
言い換えれば、
高い精度で設計された環境」と「巧妙なマーケティング」が組み合わされると、人々をまるで機械や動物のように操れてしまうという、ある種の恐ろしさがあるということです。
このような状況は、
工学とマーケティングが成し遂げた勝利であると同時に、
近代以降に重視されてきた「自由意思」の敗北ようにも一見思えます。

さらに、もし私たちを動かしている「見えない主体」が、悪意や不正な意図を持っていたら、
私たちはその影響に気づかないまま、悪意に従って気持ちよく操られてしまうということになります。
(ここで述べたいのは陰謀論ではなく、そうした状況が起こり得る構造的特徴がある、ということです)

計画段階での評価と、実際に体験した後の評価が大きく異なるという事実も含めて、
僕たちは理性的に判断しているつもりでも、実は意識しないまま
「環境管理型権力」としてのデザインに、
さらに言い換えるなら「見えない公(おおやけ)」によって、僕たちは「動かされて」しまっているということです。


02-02. 官僚的なプロセスと、上空からしか見えない円(リング)

前節では大屋根リングの「見えない公(おおやけ)」によって僕たちが簡単に動かされてしまっているという話をしました。
この「見えない公」は、万博のオープン後以上に、
オープン前において批判の対象になっていました。

とくに印象的だったのは、建築家・山本理顕氏による批判です。
山本氏は、ハンナ・アレントなどの思想家を参照しながら、
建築と公共性、コミュニティの関係を探求してきた人物です。
多くの建築家が「公共性」という言葉の射程を理解せず漠然と用いる中、
山本氏の論には哲学的な参照元と、実地調査に基づく確かな基盤があります。

氏の万博批判は多岐にわたりますが、
ここで注目したいのは、「プロセスの不透明さ」と「主体の不在」についてです。
たとえば、万博における藤本壮介さんの役職は「会場デザインプロデューサー」とされており、
設計にどこまで関与しているのかが曖昧で、万博全体の意思決定も不透明
・・・という印象があります。

こうした不透明さは、民主主義における公共性の観点から見ると、大きな問題を孕んでいます。
「誰が責任を持ち、誰が判断したのか」が見えない状況では、
何か問題が起きても、誰が説明責任を果たすべきかがはっきりせず、
あいまいなまま権限が行使されてしまうからです。

山本氏はこのような状況をよく「官僚主義」と表現し
日本の公共事業の特徴として批判しています。

「官僚主義」とはつまり本テキストにおける「みえない公」であり、
今回の万博も他の日本の公共事業と同様に、
「見えない場所で権力が僕たちを左右してしまうことと、僕たちがそれに気づけない可能性」
が付きまとうということになります。


02-03. ロラン・バルト的構造、見えない公(おおやけ)

ここまで述べてきたように、
私たちは「誰が、どのように、何を決めているのか」が見えないまま、行動を導かれています。
このような状況を「見えない公(おおやけ)」や「官僚的」と表現してきましたが、
もしかすると、こう感じる人もいるかもしれません。

「そんなの、日本じゃ当たり前だろう」
「どんな場所にもルールや権力はある」
「皆がそれに従っているからこそ、社会は成り立つんじゃないか」

確かにその通りです。
日本のパブリックスペースにおいては、「暗黙のルール」はごく普通に存在しています。
むしろ、それこそが日本的な都市空間や社会構造の特徴であるとも言えるでしょう。

ところで、
フランスの思想家ロラン・バルトは、日本文化を論じた著書『表徴の帝国』の中で、「空虚な中心」という表現を用いました。
彼は、日本の都市や社会には、ヨーロッパのような明確なモニュメントや中心広場が存在せず、中心そのものが空虚である・・・と論じています。

このバルトの言及を本テキストに沿って考えると、
バルトの「空虚な中心」は、中心が“無い”のではなく“見えにくい”ものとして再解釈できます
たとえば、東京の中心には皇居がありますが、そこは一般市民にとって自由にアクセスすることは難しい場所です。
また、皇居を取り囲む都市構造は円環的でありながら、私たちの日常の視点からはその構造全体を認識しづらくなっています。
ロラン・バルトの「空虚な中心」とは、暗黙の了解に潜む権力、つまり「見えない公(おおやけ)」ということになります

ここで改めて、今回の万博に視点してみましょう。
中心にだれでもアクセス可能なモニュメントや広場を置かずに、
外周をぐるっと円環で囲む構成であるという点において、
万博と皇居には共通点があります。
これは、大屋根リングと万博が、明示的な「中心」が示さない日本的な空間構造を再解釈しているからだと考えることもできますし、
逆に言えば、計画とマーケティングによって動物的に人動員するポスト・ヒューマン的な発想は、日本的な空間構造と(良くも悪くも)相性がいいと、見ることもできます。

つまり、今回の万博と大屋根リングは「日本的公共性」を、ポストヒューマンの文脈で再構築した存在と捉えることができます。


02-04. 日本的な「見えない公(おおやけ)」は否定すべきなのか?

ここまで、大屋根リングに象徴される「見えない公(おおやけ)」についてと、それが日本的な空間や社会構造に関係が深いということを話しました。

では、私たちはこのような「見えない公」に対して、どのように向き合えばよいのでしょうか。

まず確認しておきたいのは、こうした見えない権力や暗黙の規範に、人々の行動が左右されているという現象は、何も日本に限ったものではないということです。
たしかに、ここでは「日本的」という言葉を使ってきましたが、注意深く観察してみれば、同様の現象はヨーロッパやアメリカといった西洋諸国にも存在します。

違いがあるとすれば、それは「見えない公」に対する態度やスタンスの差です。
たとえば、西洋の社会は往々にして、見えない権力や規範の存在を問題視し、それを批判・排除しようとする傾向があります。
一方で、日本の社会は、それらを明示せずとも、暗黙のうちに受け入れ、共存するという特徴を持っています。

つまり「みえない公」は形を変えながら世界中、歴史上に普遍的に存在します。
なのであれば、完全に中立で自由な空間など存在しないという事実を認めることが、まずは重要だと、僕は考えます。

さらに言えば、現代社会ではマーケティングや行動分析の手法が日々進化しており、公的/私的を問わず、空間や人の行動はますますデザインされ、コントロールされる方向へと進んでいます
この現実をどのように評価するかは、各人のイデオロギーによって異なるかもしれませんが、少なくとも現実を拒否するだけで片付く問題ではありません。
むしろ、私たちはその現象と現状を批判的に受け止めつつも、
積極的に活かす道を模索すべき
でしょう。

これからの時代において私たちは、「『見えない公』とどのように付き合っていくか?」を問い直す必要があります。
そして、その新しい公共性のかたちこそが、次章で取り上げる「オルタナティブ・パブリックネス」です。


03. 権力と行動を選択できる自由(=オルタナティブ・パブリックネス)

ここまで、大屋根リングという環境管理型権力のもと、人間が環境によって動かされるあり様を、
「見えない公(おおやけ)」として、日本的な都市の文脈に通じるものとして捉え直してきました。
さらに、「見えない公」としての大屋根リングによって、
僕たちは理性ではなく「動物的な行動パターン」によって、空間に応答しているということが示され、
これがある種の近代的な人間の自由意志の敗北である、ということも論じてきました。

では、そうした環境と権力のなかで、私たちに「自由」は残されているのでしょうか?
この問いに対するひとつの答えが、「オルタナティブ・パブリックネス(以下、APness)」という構想になります。


03-01. 不完全で個性的な公共性を、自ら選ぶということ

APnessとは、完璧でも絶対でもない、不完全で、しかし独自性をもった公共空間=オルタナティブ・パブリック(AP)を、各人が選択して生きるという考え方になります。
空間にはつねに権力があり、ルールがあります。
そこに完全な自由は存在しません。
けれど、だからといって特定の領域にただ従属するのではなく、
むしろ複数の公的空間(AP)を自由に選び、組み替えることで、自らの私的な生活のストーリーを作っていく
そうしたスタンスそのものを、僕は「オルタナティブ・パブリックネス(APness)」と呼んでいます。

これは、近代的な「公と私」「内と外」といった二項対立を乗り越える構想でもあります。
公的/私的は、境界によって空間に割り当てられる性質ではありません。
どの公的空間(AP)をどう選び取り、
どのような規範に自らをさらしてきたか、
「動的なプロセス(履歴)」こそが、
各人の私性そのものをかたちづくる
・・・と考えています。

言い換えれば、
「個人」とは先に存在しているのではなく、
選び取られた公共性(AP)の履歴として後から形成される
、ということです。


03-02. 自由意志は幻か?

この視点に立てば、
僕たちがある空間で「自由に行為している」という感覚そのものはある種の錯覚だということになります。
僕たちは、どの空間においても事前に埋め込まれた行動パターンに沿って行動することを前提とし、各々の生活を展開します。

静的な公共性のモデル
1つの空間の中に、公的空間/私的空間が二項対立となり
その間に中途半端なグラデーションの領域が存在。
しかしこれは、実態と異なり、今後僕たち目指すべきビジョンでもないと考えている。

各公的空間(AP)が準備した空間と規範に対して「動物的」に反応しているだけにすぎず、
「どの空間を選び、通過してきたか」という選択の履歴の特殊性が各人の特殊なコンテクストを作成し、
APにとって外部のコンテクストが導入された結果、そのAP視点で見ると発明的な自由な行為(ex.行為)に見えるというだけです

日本のパブリックスペースで外飲みをしている外国人が、日本人では思いつかないような使い方をするケースがありますが、
それはその外国人が自由で創造的なのではなく、
日本とは別の国のパブリックスペースでの行動パターンが導入されている、というだけ、ということです。

動的な公共性のモデル
代替可能な個性的な公的空間(AP)が多数存在し、
1人1人が自由にAPを選択し移動し、自分だけのAPの履歴を作る。
個性的な履歴こそが、動的な私性であり、
ヒト一人を個別認証するアイデンティティを保証する。

つまり「自由」を主体の内在性に求めるのではなく、
複数のAPを通過してきた特異な動的履歴=選択の自由として捉えるべき、
・・・これがAPnessにおける人間観となります。
人間もあくまで動物なので「内発的に自由に動けること」はなく、
「場そのものを選び、抜け出し、別の場へと移動していけること」ことにこそ自由があり、
その「選択の自由」
動物としての僕たちが繰り返しコツコツと積み上げてきたAP間の移動の履歴、その蓄積と順番の特殊性によって可能になるということです。


03-03. APには権力がある。だからこそ移動の自由が必要になる

「03-01」にもある通り、AP(オルタナティブ・パブリック)が完全に自由で中立な空間であるということはありません。
「みえない公」としての大屋根リングがそうであるように、
各APはそれぞれに独自の空間的性格・ルール・運営する権力を内包しており、それゆえに「公的」であるといえます
そのため、AP間の移動と、AP相互の相対化を保証する必要があります。

複数のAP間を自由に移動できる保証、
これがAPに権力やルールがあっても許容される条件
になります。
異なる公共性のあいだを行き来することで、ひとつのAPの「正しさ」はつねに別の視点から相対化されるからです。


03-04. 大屋根リングを、誰が相対化するのか?

APnessの視座を持って、もう一度、今回の万博を見てみましょう。

地上の建築群は、大屋根リングというAPによって上から見下ろされています。
リングの上に立てば、地上のパビリオンを見下ろすことができ、
たとえパビリオンに入場できなかったとしても、その配置や関係性を俯瞰的に眺めることができます。
ここには、リングというAPが地上のAPに対して一方的に相対化していることになります。

しかし逆に、この大屋根リングそのものを相対化できる視座は、会場内には存在しません
私たちがリングの形状や全体性を把握できるためには、ドローン映像や航空写真といった「別のメディア」に依存する必要があり、
内側での快適な経験のみで外側からの視点を欠く大屋根リングの構造は、大屋根リングというAPの閉鎖性をはらんでいるとも言えます。

なので、APnessの観点から言うと、
リングとは異なる行動原理──たとえば分岐的・迷路的・非環状の構造を持つ空間体──が同じ会場内(例えば地上レベル)にインストールされていれば、
リングのAPを万博会場内からも相対化できるでしょう。

本章の最後に、
ここで論じているのは「APness的視点で構築すれば万博はもっと良くなったはず」ということではありません。
むしろ、APness視点で大屋根リングを相対化してしまえば、
「混雑した地上に対する開放的な大屋根リング」という、マーケに仕込まれたマッチポンプがなくなるので、
大屋根リングの開放感は少し薄れるのではないかと予想します。
ここで考えたいことは、
今回の万博の快適性の検討ではなく、
未来の都市のモデルケースになりうる万博の公共性
について、です。


04. 行動パターンを伴わない建築は消える

03章までは主に、万博の建築群から考えられる今後の社会のあり方、公共性の捉え方について考えてきました。
04章では一転して、万博の建築物に焦点を当ててみたいと思います。
結論から言うと、
この万博を機に「ユーザー体験」とそれを実現する「行動パターン」を伴わない建築は、生き残るのが厳しくなると感じました。


04-01. なぜ万博は建築の未来を左右するのか?

今回の万博のように、不特定多数の人々が集い、建築に触れる機会はきわめて稀であり、1970年の大阪万博同様、今後の建築文化全体にとって転機となる可能性があります。

なぜなら、
将来的に建築に投資する立場となる企業や個人が、
映像やオンライン空間と並列させて建築物を「評価」し、
映像やVRなど他のメディアと比較して投資対象を選定することになる
からです。

「あのパビリオンの面白さは建築の○○的デザインが効いていた」と感じればその方向に投資は動き、
「建築は金がかかっている割に役立たなかった」と判断されれば、
建築ではなく映像コンテンツやオペレーション設計に予算が移るでしょう。

つまり、建築は他領域による表現や施策と競合関係にあり、
万博は、そうした競合の中での暗黙の品評会=生存競争の場として機能します。
いわば、リングの中は限られた未来の予算を食い合う「蟲毒」の状態です。

個々の建築の面白さや豊かさを丁寧に語ることも、もちろん重要性ですが、
総論として、今回の万博という機会を建築全体の視点から読み解き、その結果を個々の建築物に逆照射する必要があると、
本テキストでは考えています。


04-02. 行動パターンとしての藤本建築の発見

建築視点で万博を見るうえで改めて着目したいのが、
やはり、藤本氏による大屋根リングになります。

01~03章にて、大屋根リングは我々人間を動物としてとらえ動かすという点において非常に秀でた建築であると話しました。
このように「動物としての人間を動かす建築」として大屋根リングを見てみると、
この視点から改めて藤本建築を振り返ると、藤本氏は初期の住宅作品から一貫して「行動パターン」に着目していたことに気が付きます。

それが顕著に表れているのが、彼の建築模型です。
模型には比較的多くの人物の添景(人間の模型)が配置されています。
階段に座ってくつろいでいたり、
テーブルみたいなものに足をかけて登っていたり、
迷路のような壁の間を歩いていたり、
その様相は様々ですが、
建築物のデザインと一緒に、かなり特殊な生活スタイル=行動パターンが提示されており、
その行動パターンの特殊性こそが、初期の藤本建築の刺激的な魅力でした。
このことから、藤本氏はキャリアの最初から「動物としての人間を動かす建築」をデザインしていたと、解釈することができます。

さらに踏み込んでみると、こんな仮説もたてられます。
藤本建築は建築物を考える前に、
「こんな風に人間=動物が動いたら面白そう」
「こんな形状に人間=動物を放り込んだらどんな動きをするだろう?」
といった特定の行動パターンから発想を起点に設計がスタートしており、
建築の外形や空間や統一感は後発的に表れてくる、という仮設です。
嫌な言い方をすれば、
ダンゴムシを面白い迷路に放り込んで上から観察するような面白さであり、
だからこそ、藤本氏の初期の建築は、空間や外形がどことなく未発達で、建築らしくない姿になっている、とも解釈もできます。

この意味で、
藤本建築は「原初の建築」をデザインしているのではなく、
「人間の原初=動物性」をデザインしていたと言えるかもしれません。
藤本氏はキャリアの最序盤から人間を動物的に見る「ポストヒューマン的建築家」であり、
初期の住宅作品と今回の大屋根リングの違いは
前者が施主の住み方に合わせてプロダクトアウトした超特殊な行動パターンから建築をつくっているのに対して、
後者がだれでも選択できる超ジェネリックな行動パターン(ぐるっと歩く)を採用している、という点でしょう。

さらに付け加えるなら、大屋根リングは「行動パターン」のみを浮かび上がらせるように無駄がそぎ落とされており、
住宅作品の時代にかろうじて見られた外形や空間は、大屋根リングにはもはやほとんど見えなくなっています
なぜなら、ユーザーが心地よく行動パターンを遂行するためには空間や外形のような統一感(見えない公)は邪魔な存在だからです。


04-03. 視覚に偏重した建築のゆくえ

このような「行動(パターン)を伴う建築」が存在感を持つ背景には、
視覚メディアとの競合があります。
AR、VR、映像、オンライン空間が進化する中で、視覚的な体験は物質的空間を通じなくてもある程度成立するようになってきました。
実際、多くのパビリオンでは建築そのものよりも映像コンテンツに多くの投資がなされています。

こうした状況において、建築に残された領域の一つが
「行動を生み出すこと」だと考えます。
実際に人を動かし、体験を生み出すことで、他メディアとの差異化を果たすことが出来ます。
逆に、視覚的装飾や形態だけでは、もはや投資対象としての意義を十分に担保できなくなってくるのではないでしょうか。

映像など、建築以外のコンテンツで表現できる幅は広がっている。
多くの人にとってはうれしい話だが、
建築業界的には焦る事実。
(撮影:筆者)

投資的価値が見いだされなければ、建築を作ることにお金を出されなくなるということなので、
「視覚に偏重した建築」は今後徐々に下火になっていくかもしれません。
これまでは視覚的なラグジュアリーさが写真メディア(建築専門誌など)とタッグを組んでお金持ちの所有欲を刺激する仕組みが通用していました。
しかし、視覚的情報に価値を見出せないと判断されれば、「所有欲としての建築」から次のパラダイムへの移行が発生する可能性があります。

つまり「ラグジュアリーな関係性としての建築」に価値の源泉が移行すると、僕は考えています。


04-04. 建築のナラティブはどこまで耐えうるか?

その他にも、
「建築の公共的価値を、生産と流通などのナラティブで補おうとする建築が多く見られる」
これも今回の万博における特徴かもしれません。
巨大な石や古材、地域由来の素材、もしくは古い建築物などをリユースしたり、
特定の建材の流通の流れの一端に今回の建築を位置づけたり、
もしくは、大屋根リングもそうですが、万博後の移設やリユースを想定している建築物など、
社会的な正しさや豊かさが各建築あることを示すために、様々なナラティブが構築されていました。

これらのナラティブのほとんどは、実際に建築物を利用するユーザーの体験とは別のレイヤに位置づけています。
なぜなら、そうすることで前述の他コンテンツとユーザーの認知の取り合いが起きることもなく、
かつ、他コンテンツではコミットできない「生産」や「循環」に、
能動的にコミット
することが出来るからです。
このような建築のデザイン方針は、ラトゥールのアクターネットワークを引用しつつ、
ここ10年前後、建築業界内で盛んに議論されてきた印象がありました。
今回の万博は業界内で10年間熟成してきた議論のお披露目会であるともいえます。

しかし、各ナラティブによって主張される正しさは、あくまでナラティブ止まりであり、
それを万人が共有すべきイシューであるかというと、少し違うようにも思えます。
今回のナラティブ群の中には明らかにコスト過剰な“グリーンウォッシュ”もたまに見受ける通り、
ある側面から正しさや豊かさを主張できていたとしても、他の側面、例えば輸送・建設コストなどで、トータルに正しさと豊かさを達成できているかというと、その証明をすることはどこまで行っても不可能ですし、
トータルでの正しさを追い求めようとすると特定のナラティブを選択した意味がなくなります

加えて、「01-02」でも述べた通り、多数のナラティブがせめぎ合うリングの中では、その説教臭さに対して食傷気味になります。
確かに、一つ一つの建築は重要なメッセージを啓蒙しているのかもしれませんが、
すべてのナラティブを受容できるほどユーザー側にキャパシティはありません。
たまたま出会ってたまたま個人的に感動したときのみ、そのナラティブは受容されるのかなと想像します。
しかしそうなると、そのナラティブはパーソナルで内省的な体験になるため、それが公のイシューであるかというと、個人的には疑問が残ります

そのため、建築のためのナラティブの構築は、公共的なイシューや正しさ、豊かさを主張するものではなく、
最終的には各建築家が持つ個人的な正義に落ち着くのではないかと、今回の万博で感じました。

「特定のナラティブを気に入ったクライアントが現れて、個人的に担当した建築家に仕事を依頼する」

そんな参加した個人事務所の商流を個別でブーストさせる役割を担うのではないかと想像しています。
ここでブーストに差がつくのが、
①ナラティブを起点にしたユーザー体験がデザインできているか?

②ナラティブを発信し続けられるか?
の2点なのではないかと予想しています。

①について、
この発想は上記の「ユーザーの実体験とは別のところで補おうとする」という指摘と矛盾しているように感じるかもしれませんが、
正しさを担保するナラティブを上位レイヤに配置し、ナラティブからトップダウン的に構築したユーザー体験が下のレイヤに配置されているという構造を想像してもらうとよいかもしれません。

建築家が主体となった事業ではありませんが、例えば、河瀨直美さんプロデュースの「いのちのあかし」は、廃校の移設だからこそのノスタルジックな空間が演出できていました。
また、万博の建築ではありませんが、
三分一さんの「犬島精錬所美術館」は環境工学的に設計された風の通り道を見学者が抜けていくという、ユーザーが建築のナラティブを追体験するという構成をとっていますが、
ここまでナラティブが建築デザインに落とせていれば、ナラティブの説教臭さはなくなり、
ユーザー自身の自分事として持ち帰ることが出来ます。

「いのちのあかし」
理屈抜きで、内部の雰囲気は魅力的であり、
外観も、万博の会場に突然古びた校舎が現れた姿は印象的だった。
(撮影:筆者)

②については、
米澤さんや残念石のチームなどがSNSなどを通じて粘り強く発信していたことが好例でしょう。
建築家自身が粘り強く、他者のコミュニケーションを取り、
ちゃんと説明責任を果たし、
公共的な作品として意味があることを建築家自身も声を上げ、建築とともに並走する
というスタンスです。
特に米澤さんは、最初は「2億円トイレ」などと揶揄され罵詈雑言を浴びせられていましたが、
丁寧なレスポンスを繰り返すうちに、最近では評価が裏返って良くなっているという現象が見られます。

余計なトラブルを避け説明責任を回避する建築家が多い中、
積極的に発信と対話を仕掛けるスタンスは、SNS時代における公的事業と建築家の在り方として、今後参考にされるべきでしょう。
また、ナラティブが多すぎて飽和状態になっているのであれば、単純に声のデカい人たちが生き残る
というシンプルな生存戦略にもなります。

このように「ナラティブ」は建築家の生存戦略としては今後も機能すると思います。
しかし、業界全体の議論としてはナラティブの構築は下火になり、
投資額が大きい一部を除き、個々の建築家が自分事として地道に取り組むことになる
と想像しています。
なぜなら、上述の通り、
リング内でスタイルウォーズを繰り広げるナラティブはいずれも公共的なイシューにはなり得ないことを、
万博という品評会を機に、
建築業界外のユーザーや出資者が理解してしまうから
です。


04-05. 行動を伴う建築

本章冒頭の話題に戻ります。

ここまでの論を踏まえると、ユーザー体験と行動パターンにコミットできない「行動を伴わない建築」は、今回の万博を機に市場に淘汰されるでしょう。
言い方を変えると、
「行動を伴う建築」が他の投資先(映像、オペレーション、ウェブなど)とは異なる投資的価値を見出すことが出来るので、予算を確保しやすくなるということです。

今回の万博において「行動を伴う建築」の代表作は「大屋根リング」ですが、
他にも「行動を伴う建築」という視点で興味深い作品が2つあったので紹介してみます。

1つ目は、服部さんと新森さんが設計されたトイレ兼休憩所です。
地面に起伏を設けたこちらの建築は、
万博会場内の他の場所では実現しにくい「子供が走り回る」という行動パターンの再生産を可能にしており、
万博内で希少価値の高い場所を提供しています。
言い換えるとこの建築手法は、「行動パターンのプロダクトアウト」ということになります。
これはある意味で初期の藤本建築の住宅作品と同じスタンスであり、
だからこそ、面白さの反面、
住宅ではなく公共施設である本建築に対しては
「プロダクトアウトしてしまったことで疎外される人々(例えば車いすの人は使えない)が現れる」
という批判もあり得るかと思います。

(撮影:筆者)

2つ目は、建築家集団のGroupが手掛けた、出口と入口が異なるトイレです。
これは、「部屋に入り、用を足し、部屋を出て、手を洗う」というトイレで当たり前の行動パターン(生理現象)に沿って適切かつ素敵なユーザー体験を付与するというデザインになっています。
トイレから出てきたときに他の人と鉢合わせたときの気まずさや、手を洗う時のリフレッシュ感などの細かいwantに応えるように、
トイレを一方通行にし、個室から出た先にちょうどいい程度にささやかな中庭を提供しています。
また、仮設のような壁のスキマから中庭がチラチラと見え隠れするのが効いています。
結果、トイレに行くためにこの建築を使うというよりも、
このユーザー体験を体感したいがためにトイレに行くというモチベーションが生まれる魅惑が生まれます。
僕が行ったときは、他のトイレとは異なり行列ができていました。
人間の生理現象を逆手にとった「ユーザー動員のデザイン」には、人間を動物的にとらえるポスト・ヒューマン的な現代性を感じるとともに、
生理現象に沿って人を過剰に動員してしまう環境管理型権力の様相はある意味で社会主義的と見ることもできるかもしれません

(撮影:筆者)

04-06. 「行動を伴う建築」のためのメソドロジー:建築的ユーザー分析

「行動を伴う建築」の実現が、今後、建築デザインが一定の市場を獲得し、ポスト・ヒューマン的文脈に応答することのできる道の一つであると僕は考えています。
僕たちMACAPが取り組んでいる「建築的ユーザー分析」も、そういった建築の未来像を想定したリサーチ手法+建築の創作論になっています。

「建築的ユーザー分析」は、建築内のユーザーの行動に着目した利用実態の分析手法です。
「行動パターン」に着目した分析手法を用いることで、
「ユーザー視点・事業者視点での価値やビジョン」と「建築物のデザイン」を、「行動パターン」をハブにしてつなげる
ことができます。

現在この2者は、関連性はあるのはみんな分かっているけど、つなげるためのメソドロジーが全くないという状況になっています。
しかし「建築的ユーザー分析」を介してその2者をつなげることができれば、
建築のデザインが事業者のビジョンに具体的に役に立つことを明示し、また事業者と設計者がある種同じ土俵で議論ができるようになります。

「建築的ユーザー分析」によって
建築のデザイン全体による適切な市場規模の獲得
および、ポスト・ヒューマン的な現代的なデザインへのバージョンアップ
両方を成し遂げることを目指し、
現在設計業務と並行して取り組んでいます。


[お仕事の依頼や相談は下記連絡先まで]
nishikura.minory@gmail.com
MACAP代表 西倉美祝
ウェブサイト : https://www.macap.net/

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