林望『偏屈読書録』を拾い読み ――本の寿命は二極化できるのか?
『偏屈読書録』は、国文学者でありエッセイストでもある林望(リンボウ)先生による読書エッセイ集です。
古典から現代小説、学術書から娯楽本まで、幅広い本を取り上げながら、ユーモラスでちょっとひねくれた(偏屈な?)視点で語っていくのが持ち味。
タイトルにある「偏屈」という言葉のとおり、素直に褒めるのではなく、ときに斜に構えながら「本の面白さとは何か」を問い直していきます。
そのぶん、読者としては「なるほど」「いや、それは違うかも」と突っ込みを入れながら楽しめる一冊です。
本の面白さは二種類? 林望先生の二極論
林望(リンボウ)先生の『偏屈読書録』をめくると、本の寿命についての議論が出てきます。
曰く、本には大きく二種類がある、と。
娯楽のための本:雑誌や流行小説など。当代的な面白さはあるが寿命が短く、大量に安く刷られ、版を重ねることで“広く読まれている”ことが確認できる。
学術・思想の本:少部数で高価、売れにくいが、後に「古典」として生き残る可能性を持つ。
なるほど、確かに出版現場を思えばうなずける話です。娯楽は短命、学術は長寿――まるで書物界の“長寿論”のようでもあります。

そして、古書店を営む身として言えば、まさに後者の「少部数で残っていく本」があるからこそ商いが成り立つのだと感じます。
娯楽本は時代が過ぎれば一気に値が落ちるけれど、学術や思想の書は細く長く生き延び、古本市場で再び必要とされる。
その繰り返しの中に古書店の仕事があるというのは、ちょっとした余談です。
でも、それだけではないのでは?
ただ、読みながら「そう単純かな?」とも思えてきます。
娯楽から古典へ
推理小説のように、娯楽として生まれた本が古典扱いされることもある。モノとしての価値
一枚の紙片や署名、付属物が思いがけず大きな価値を持つこともある。内容以上に“物”として生き残る例です。再ブーム
絶版になった本が10年後に復刊され、再び読まれることもある。
そして何より、物差しを長く伸ばせば伸ばすほど、この二極論は揺らぎます。
江戸時代の草双紙や黄表紙――当代は安価な娯楽品にすぎなかったものが、今や古典として研究対象になり、高額で取引される。
昭和の探偵小説や貸本漫画も、当時よりむしろ高い値がつくことがある。

つまり、10年、50年、100年とスケールを広げていけばいくほど、本の寿命は二極化に収まらず、もっと多様で予測不能になります。
結び
林望先生の「偏屈な二極論」は本質を突いているけれど、例外もまた面白い。
出版部数や読者層、その後の時代的評価や市場の動きによって、本の命は思わぬ形で延びもすれば縮みもする。
結局のところ――そもそも書名が『偏屈読書録』なのだから、こちらが閉口して読むのが正しいのかもしれません。
ぐぬぬ……と唸りつつページを閉じる、それが読者の作法なのでしょう。
