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小説「踊る吠え声」

【あらすじ】
週に三度、ゴミの分別や掃除をしに近所に住む義母の家を訪れている千砂は、保護犬を多頭飼育する隣家から毎日聞こえてくる激しい吠え声に悩まされていた。区役所や警察に相談しても状況は変わらず、動物愛護管理法25条という法律を見つけて現状脱却の希望を見出すが、問い合わせた先での話は逸れるばかりで制度の本質に迫れない。心をすり減らし続けた千砂は、ある日吠え声に溶けた様々な声の中に蓋をしたまま目を背けていた事件があることに気づく。
〈山中で発見された小学生男児と思われる遺体は、身元や死亡時期について未だ不明のまま……〉
ニュースによって想起された出来事とは──。
法律から社会問題に焦点を当てた、異色の短編小説。



(本文20,993字)

Ⅰ 三月

四十五リットルのゴミ袋の閉じ口を開くと、ツンと鼻を突く刺激臭に見舞われた。

春先の陽気で既に生暖かい袋の中には、牛乳パックなどの紙類、生ゴミなどの燃えるゴミ、そして宅配弁当のプラスチック容器などの不燃ゴミが、ごちゃまぜになって詰め込まれている。
納豆の空箱はもちろん食べた後そのままで、三日ほどの間に誕生したコバエらが臭いの周りに群がっていた。
「明日は燃えないゴミの日ですからね。次からプラスチック容器はできるだけ緑色のゴミ箱に捨ててくださいね〜お義母さん」
できるだけ優しく、苛立ちが漏れないように一息で言い切る。
「はいはい。分かっているわよ。……碧さんは、そんな口うるさくなかったけどねぇ」
分かっているなら、ゴミの分別くらいちゃんとやってください──。
いつも喉まで出かかる言葉を飲み込んで、「うふふ」と目を細めた。
夫の兄、つまり長男の嫁である碧さんがそんなに口うるさくなかったのなら、きっと彼らが同居していた頃の義母ははは、まだこうなってはいなかったのだろう。

義兄あに夫婦には幼い一人娘がいた。義母は、それはそれは可愛がっていた。
新しい洋服に、新しいおもちゃ。
何かの記念の日が訪れる度に、義母はピカピカの新品を湯水の如く買い与えていた。
可愛い孫が安全に遊ぶために部屋を整理し、ハサミなどの危ないものもちゃんと引出しに閉まって。
扉を開け閉めして遊び、小さな手を挟んではいけないとチャイルドロックを装着し、コンセントにも一つ一つコンセントカバーを設置して。
部屋の隅々まで掃除機をかけ、雑巾で床を拭き、家の手入れを怠らなかった。
しかし、義兄夫婦も可愛い初孫も急な仕事の都合で義母の大切なこの家から出て行ってしまってからというものの、義母は多くのものに手をつけなくなってしまった。
本棚に並んだたくさんの絵本も、洋服ダンスから溢れた子ども服も、キャラクターの描かれた賞味期限のとっくに切れたお菓子も。
子どもと義兄夫妻のものだけでなく、既に亡くなっている義父との旅行の思い出の品さえも。
義母の目には、これまで輝いていたものの全てが一気に灰色にしか見えなくなってしまったみたいだった。
そこにあるのに、ないみたいに。けれど、あるのを分かっていて、あえて隠したいみたいに。置き去りにされた物の上には、どんどん別の物が重ねられて、最終的には最初そこにあったものが何だったのか思い出せなくなってしまう。
当時カラフルに艶めいていたブロックの入った大きな箱は、もはやいつ届いたのかさえ分からない義母宛の郵便やDMの墓場と化していた。

「兄さん達が引っ越すみたいなんだ。俺の職場からそう遠くないし、俺達が母さんと一緒にあの家で暮らさないか? 一人暮らしなんて心配だしさ」
結婚してから一年も経っていない頃、夫がそう言い出した時には目を剥いた。
「ほら、あれだよ。相続の時、親の家に一緒に住んでたら相続税がタダになるって、あれ! 今から母さんと一緒に住んどけば何かと得だろ?」
ああ、小規模宅地等の課税価格云々の特例のことか。
確かに、同居している親族がその不動産を相続する際に宅地の評価額から八〇パーセントを評価減できる制度がある。
でも、制度を利用したからといって相続税が必ずしもタダになるわけではない。この国の税金は、そうそうタダにはならない。
それに、その時の相続人はあなただけではないのよ。
どうせお義兄さんとは何の話もしていないんでしょう。
「へぇ、そうなんだぁ、知らなかったぁ!」
「千砂の職場は遠くなるから仕事は辞めないといけないけど、正社員だから退職金がでるだろ? そしたら、実家をリフォームして、いずれは二世帯住宅にするとかさ。いいアイディアだろ?」
機嫌を損ねまいと何も知らない振りをすると、夫の可愛らしい童顔が華やいだ。

私は夫の好きなものを見て、目を輝かせる姿が好きだった。
まだ夢が芽生えたばかりの子供みたいに、無垢で純粋で自分の心に正直なところに私は惹かれた。
だから、私を見つめて煌めくその光も同じ類のものだと思っていた。
愚かな恋心ゆえに、私に対して向けられていたものが、実は平凡な身には大きすぎる期待だと気づくまで、随分と長い時間を費やしてしまった。
夫が求めていたのは、十五も歳の離れた優秀な兄に見せつけるための、いわゆるトロフィーワイフだったのだ。
私の退職金や企業年金額が思ったよりも少ないことが分かると、彼の瞳は波打ち際に打ち捨てられた死にかけの魚のような眼に変わった。

結局、私達夫婦の財政では夫の実家の大規模なリフォームなど望めず、何とか理由をつけてたまたま空いていた義母の住む家の二軒隣の一戸建てを借りることで折り合いをつけた。
今はこうして、私が週に三度、義母の世話をしに来ることで夫も納得をしている。

二年前、新居への引っ越しを終えて私が久しぶりにこの家に入った日。
暫くの間、義母以外誰も立ち入らなかった空間には淀んだ空気が溜まり、埃の塊が積もり始めていた。
私はひとまず押し入れから季節外れで使用していないタオルケットを何枚も引っ張り出して、辺りに散乱した物の山に一枚一枚かぶせていく。
すぐに掃除ができればよかったけれど、まずは家の中に溜まったいくつものゴミ袋をどうにかせねばならなかったのだから、こんな応急処置でも仕方あるまい。
「散らかっていてごめんなさいね、千砂さん」
「いいんですよ。何もしたくない時もありますものね。少しずつ一緒に片付けていきましょう」
背中を小さく丸めて申し訳なさそうにする義母に、私は笑顔を返した。
今の家を安く借りられたのは、義母が地主さんと昔からの顔なじみであったおかげだ。
以前住んでいたコンクリート製のビルばかりが立ち並ぶ都会には飽き飽きしていたから、適度な自然があって近くにコンビニも図書館もある、今のこの土地に越してこられたこと自体は嬉しいのだ。
義母との折り合いが悪かったらどうしようかと不安も大きかったけれど、兄夫婦も可愛い孫も遠くに越して、以前よりも私に焦点を合わせてくれているように感じた。
今や「ありがとう」さえ言わない義母でも、私の料理を食べたがらない義母でも、身の回りを片付けられない義母でも。この人を一人にはできないと思う気持ちは嘘ではない。

「そう言えば、お義母さん。今朝も早朝から近所の犬達の吠え声が凄かったですね。お義母さんもそれで目を覚ましませんでしたか?」
「犬……? ああ、あの古い家のね。そんなにうるさかったかしら。気づかなかったわ。コウちゃんはなんて言ってるの」
「コウスケさんは元々早い時間に家を出ますし、イヤホンで……ニュースを聞いていて」
本当は朝食を適当に頬張りながら、イヤホンをして昨夜見逃したゲーム実況中継の動画を観ることに熱中していた。
「コウちゃんが気にしていないなら、千砂さんの気にしすぎじゃないかしら。犬は吠えるものだもの。そんなにうるさいなら、保健所か警察にでも連絡したの?」
「保健所に警察……。そうですね」
「それよりも、明日は燃えるゴミの日だったわね。そうだ、お風呂場にまだあるのよ」
ゴム手袋をして、マスクをして。
息を止めながらゴミ袋の中に手を突っ込んで分別作業を始めた私の前に、義母は新たにいつのものか分からない二つの雪だるまのような塊を並べた。

これから雪だるまの中身を本来あるべきゴミ袋に入れ替える。それから、洗濯機を回して洗濯物を干して、お風呂掃除をして、最低でもリビングと寝室だけは掃除機をかけて。今日も帰るのは夕方になりそうだ。
タオルケットの掛かった山々も、何かしらのおもちゃの墓場も、未だ当時の姿のまま眠っている。
録画した「連続テレビ小説」を観ようとテレビのスイッチを押した義母に、タオルケットの下に埋もれていた一つを手に取って「これはどうしましょうか」とさりげなく声を掛けた。
「うーん……、今は忙しいの。後で考えるわ」と、義母は背中で答える。
今日も私は山を切り崩すことに失敗した。
今は役に立たない、捨てるしか用途のないようなものに見えても、物にはひとそれぞれの思いや思い出がある。
人が握りしめる領域に、権利に、他人が土足で踏み込んでよいはずもない。

義母宅から自分の家に帰ると、外気より少し冷たい室内の空気が頬に触れ、やっとまともな呼吸をすることができた。
玄関に置き始めたばかりのヒノキのアロマも心地よい。買って正解だった。
〈ワンワン!〉
そうかい、お前もそう思うのか。
玄関を入ってすぐ聞こえてきたのは、すぐ真裏にある隣の古民家で飼われている保護犬の声だ。
最初は一頭だった吠え声が、三頭、四頭と増えてゆき、やがて混沌した世界を作り出す。
〈バウ、バウ、バウ!〉
〈ギャンギャンギャンギャン!〉
〈キャンキャンキャン!〉
十頭はいるかと思われる犬の吠え声が、締め切っているはずの窓の向こうから一気に押し寄せる。
古民家の木製壁はどんな音もよく通し、ドタバタと犬達が暴れる足音に、複数の猫の鳴き声も加わった。
〈ウァオ、ウァオ、ウァオ!〉
──ドタドタドタ、ガシャン、バタバタバタ。
〈クゥーン。〉
〈ミャー。ミャー。〉
〈ワンワン! ワンワン!〉
突如始まる連続して釘を打ち付けるような激しい吠えのリズムに、こうして私の束の間の静けさは打ち破られるのだ。
三か月ほど前に今の住民が越してきてからというものの、朝夕二回の犬達の食事の時間帯が迫ると毎日こうだった。
時折飼い主が怒鳴り散らし、落ち着くことのない犬達は寝ている以外の時間、誰かが何かを訴えながら吠え続けている。
──毎日の騒音に悩まされている私の方がおかしいのか。
そんな考えが過る度、頭を横に振った。

……そうだ。そんなことよりも、今は目の前のやるべきことをやらなければ。
今日こそ、夫に伝えなければならないことがある。
スマートフォンのスイッチを入れ、メッセージアプリを立ち上げた。
〈コウスケさん
 週末にお義母さんのこと、ちゃんと話したい。
 ゴミの分別もできていないし、部屋の散らかり方も酷くなってきてる。
 思い違いがあったり、耳も遠くなっている気がするから、一度病院に連れて行った方がいいと思う。〉
──送信。

夫から返信が来たのは、夜の九時半を回った頃だった。
〈今帰り。疲れた。
 やめてくれよ、母さんを病人にしようとするな。
 千砂は考えすぎだ。〉

「……何も知らないくせに」
思わず声が漏れた。
引っ越して来た日に見たことを、夫には話している。その後も、中々義母の家の中が片付かないことについて愚痴をこぼしたことが何度もある。
それでも、夫が見ているのは私がある程度片付けた後の部屋だけだ。タオルケットをかぶったままの物の山々も、生活するのに困る場所ではないからと深刻に捉えていない。
確かにそこに問題があると夫に認めさせるには、ゴミ袋も洗濯物もそのまま放置して、ありのままを見せつけるしかないのだろうか。
けれど、その後始末をするのは結局のところ私しかいないし、ゴミの分別も洗濯も掃除も溜めこむほどに大変になる。
週に三度の訪問でギリギリなのに、これ以上は私の手も追いつかなくなる。

それに、何か勘違いをしているようだが「病院に行くこと」が病気なのではない。
病院に行くということは少なくとも何かしら思う所があり、現状を知ったり、治したいと切望したりする気持ちがあるということだ。
医師の診断を受けて初めて、病名がつく可能性が生まれる。
「病院へ通っている人」と義母は違うと、都合の良いものだけを選び取って線を引く。
この人はそうやって自らの意見を正当化することで、ただ問題から目を背けているだけではないのか。
物事や自分自身を「条件」のみではかろうとすることには、明確な落とし穴があることに夫は気づいていない。


Ⅱ 五月

「あんまり無理すんなよ。こんなことで身体壊したら馬鹿みたいだぞ。……今日も帰りは遅いから」
この二か月ほどの間、隣家の犬達の吠え声が何とかならないかと手探りなりに情報を集めて各所に相談をしていた。今月に入って頭痛や胃痛に悩まされることが増え、朝食作りの手を抜くようになった私に、夫はそう言い捨てて仕事に出掛けた。
昔のあなたのお義母さんのように朝からご飯を炊いて、毎日お味噌汁の具を変えて、鯵の干物を焼いてあげられなくてごめんなさいね。
ただ混ぜて炒めるだけのスクランブルエッグでも、あなたの好みに合わせて砂糖を入れて甘くして、焦がさないよう気をつけながら作ったつもりだったのだけど。
「行ってきます」、「行ってらっしゃい」。
その言葉が交わされなくなった玄関扉の閉まる音は重い。

「やほー。あっちーね、最近」
無造作に髪をまとめたお団子に丸メガネをかけ、ティーシャツにハーフパンツというラフな格好で、ミリはスマートフォンの画面に現れた。
ビデオ通話は久しぶりだったけれど、どうやら通信状態は安定していそうだ。
「やほ、ミリ。本当に暑くて困るね、まだ五月だよ」
ミリは両手に扇子と氷の入った麦茶のグラスを掲げて、「私は準備万端」と笑った。
「ところで、最近はどうよ。隣の様子は」
ミリは早速話を切り出す。
「うーん……、相変わらずって感じ。特に暑くなってからは向こうの窓が全開で家の中の音が筒抜けだし、改善の兆しは見えない、かな。実はこの間、こういった近所の騒音苦情窓口の、区役所にある生活衛生課という所と警察の住民相談係には電話で相談してはみたんだけど……」
「役所も警察も、明らかな虐待が見られないと動いてくれない、か」
「うん。これまでに隣の家について通報や相談は何件かあって、役所も何回か直接訪問しているらしいんだけど……、あくまでも飼い主さんに対して言えるのは『近所から苦情が来ていますよ』とか、『窓は閉めてくださいね』とか、お願いベースみたいで。実際に家に上がり込んで頭数確認をしたり、飼育環境を確認するために立ち入ったりというのは、よっぽどのことがないと出来ないんだって」
「なんかさ、動物を飼ったことがないから分からないことのが多いけど、犬達がそんなに吠えるのって、去勢手術をしてないとか、競い合わないとご飯が食べれないとか、運動が足りてなくてストレスが溜まってるとか、そもそも手に負えない頭数を個人が飼いすぎてるとか、そういう適切な飼育がされてないのが原因じゃないかって素人でも思うんだけど。犬は痩せてて毛並みも悪い。その上、飼い主の怒鳴り声が聞こえるんだよね。それでも駄目なんだ?」
「犬の吠え声はあくまでも生活騒音扱いで、行政も警察も基本的には民事不介入。警察には実際に犬に対して蹴るなどの暴力があったり、死臭がしたらすぐに通報くださいと言われたよ。明らかな虐待行為といえる状態だと刑事罰対象になる可能性があるんだろうけど……、今の段階では動物は法律上の『物』だから飼い主の所有権に中々踏み込めないみたい」
「所有権か……。だけど、動物と『物』って随分と性質がかけ離れてる気がするよなぁ」

民法第206条(所有権の内容)
所有者は、法令の制限内において、自由にその所有物の使用、収益及び処分をする権利を有する。

ミリと一緒にスマートフォンで「民法」「所有権」「条文」と入力して検索してみた。
所有者は自由に”使用”して、”収益”して、”処分”できる……。
確かに、ちっともしっくり来ない。
実際は動物に対してそうさせないために特別な法律があるのだろうが、虐待が明らかでない場合にはなぜか所有権で説明される。
何だかちぐはぐで、何をどう考えればよいのかよく分からない。

高校一年生の時、「高校生のための法律セミナー」という特別授業で知り合った私とミリは、あまりにも無知のまま社会の荒波を泳ごうとしていたのだと衝撃を受け、夏休みの間中、子供向けに書かれた「民法」の本を図書館で読み漁った仲だ。
「ふーむ。今ここで千砂から借りた消しゴムは、千砂から返せと言われなければ十年後にようやく時効を迎えて私の物になるのか。大切に保管しないといかんな」
「あはは、やだミリってば。消しゴムはたくさんあるから、それあげるよ」
「今、あげるって言ったな。口約束も契約だぞ」
「あ、でも試験の時に消しゴムを忘れたら、返してって言おうかな」
「なにー? じゃあ、ちゃんと書面で契約をしておかねば。ほら、ノートのこのページにハンコ押してみなさい、ほら」
「そんなの後から何書かれるか分かんないじゃん! 合意のない書き足しは無効!」
「えー、いいじゃん! 夏休みに図書館に来て頑張ってるミリちゃんにアイスおごりますって書こうよー」
「おっ、アイスいいね。一息入れに行こ!」

今も法律について詳しいわけではないけれど、それでも似たような感覚でいてくれる人が友達でいてくれてありがたい。
けれど、ミリの眉間に皺が寄っていることに気づいて、話題を変えることにした。
ずっと続いている騒音の話は誰かに聞いてもらいたい気持ちはあっても、答えの見つからない会話をし続けることには抵抗がある。
特に、子育てに奔走しているミリには、あまり余計なストレスをかけたくない。

「そうそう。そんなことより、四月からの新生活はどう? ユイコちゃんは幼稚園に慣れた?」
ユイコちゃんというのはミリの三歳の子で、この四月から幼稚園に入園した。
絵描きを生業としているミリは、絵画展や画家仲間のグループ展覧会などに参加したり、都内の絵画教室で講師を勤めたりしていて、地元と都内を片道二時間ほどかけて行き来することも少なくない。
保育園への入園も検討したが、送り迎えのしやすさや、子どもの年齢や、色々な理由で難しかった。
「ひと月経って、やっと慣れたのかなってとこだよー。最初は離れたくないって泣いて大変だったけど、園にある遊具が珍しくて外で遊ぶのは楽しいみたい。ただ、幼稚園にも夕方以降の預かり保育があるにしても、うちの地域はほとんど利用する子がいないから夕方四時までには迎えに来てねってのが暗黙の了解でさ。幼稚園の先生も『できるだけ早くお迎えお願いしますね〜』って、笑顔だけど必死で。都内で仕事の日は、早めに切り上げてもお迎えの時間ギリギリ。あれは、結構厳しい人もいると思う。都内だけの話じゃなくて、ある程度の通勤時間が必要な人だと、育休明けに時短勤務できたとしても夜六時頃までは預かってもらえないと時間的にキツイ」
私が頷きながら聞いていると、ミリは話を続ける。
「何かさ、時々子どもを保育園や幼稚園に入れたから、自由に絵が描けていいね〜! とか言ってくる奴がいるんだけどね。いや、創作とはいえ、預けてる間にしてるのは仕事なんだわ。仕事が終われば家事が山積みで、お迎えの行き帰りの時間でさえ病院の閉院時間とかスーパーの特売とかと戦ってるんだわ。てかさ、仕事のない日も、子どもが病気の日も、どこかで必ず預かってもらえると思い込んでる人がたまにいるんだけど、あれなに!?  って、話してたらまた無性に腹が立ってきたな。急性胃腸炎の恐ろしさも知らないあいつらは、そんなに偉いんか⁉ なんだ、母親は夫や子どもや家族の下僕で、何があっても倒れないスーパーロボットなんか!? あんたの母さん、どんだけ我慢してたんやー!」
息継ぎの合間に講談師のように扇子でデスクを叩きながら、ミリは一気に話し終えると汗を掻いたグラスの中身を一気に飲み干す。麦茶だから心配はしていない。

「ミリ、珍しく吠えてるね」
「あ、ごめん。思わず方言出てたわ。……いかんね。生き方が違えば、経験も通る道も違うのは当たり前なのに、自分が知ってることを相手が知らないからって感情的に責めるのは違うわな」
「私の前でくらい、たまには愚痴ればいい。ミリが誰かを貶めたいわけでも、悪口を流布したいわけでもないことを、友人として分かってる」
「感謝だ、友よ」
「おう」
仕事で何かあったのだと思うけれど、特にこちらから詳細を尋ねることはしない。
話したいことを話す。話したくなったら話す。
それが私達二人の間の自然なコミュニケーションだ。
「子どもは減ってても先生達は激務だからどうにかしてあげて! って一保護者としては思うんだけど、人手不足のニュースばっかりで具体策がほとんど見当たらない。どこの誰を責めたらいいのかも、正直分かんないよね」
「うん。多分分からないようになってる。責任の所在が省庁や大臣の名前になっていたとしても、遠すぎて見えないね」

〈ワンワン、ワン!〉
〈ギャン、ギャン!〉
〈ウォンウォン、ウォン!〉
突然、隣家の犬達が吠え始めた。どうやら喧嘩をし始めたらしい。

「ねえ、ミリ。私って正しく生きられてるのかな」
「何よ、急に」
「昔、『高校生のための法律セミナー』の先生が、ゴミ捨て場に落ちてた包丁を普通の人が拾って持ちかえるのと、法学部の大学生が持って帰るのとでは意味が違うっていう話をしていたのを覚えてる?」
「あ、あ~。あの先生、そう言えばそんなこと話してたっけ。えっと、法学部に進学する気なら大学に入ってからもちゃんと勉強しろよ~、みたいなことを言ってた気がする。同じ状況で刃物を拾って持ちかえった場合でも、法学部大学生の方が法律を学んで違法性の認識ができるだろうから、普通の人と同じだと思うなよって話だったっけ。うろ覚えだけど」
「この前ふと思い出して調べてみたら、刑法38条3項に『法律を知らなかったとしても、罪を犯す意思がなかったとすることができない』っていう条文があった。ゴミ捨て場で包丁を拾った普通の人でも故意が否定されないかもしれないなら、もし少しでも法律を知っている人が包丁を拾ったらその分だけもっと故意が否定されづらくなるよね。それって、法律を知っている人の方が何をするにも『わざと』の意思があると思われて、罪が重くなるって言えない? 普通の人が許されることでも、少しでも知っている人は正しくしていないと……、正しくない方を選んだら、それは『わざと』犯した罪だと言えない?」
「ちょっと待った、待った。なんか話が飛躍しすぎてない? 普通の人なら無罪で、法律を知っているなら有罪とか、確かそんな話じゃなかったと思うよ。大学に進学して法学を学ぶなら責任を持って学んでほしいとか、落ちてた刃物が所有権放棄なのか、落とし物なのか、それ以外にはどんなことが考えられるのか、色んな面から考えてほしいって、先生がしていたのはそういう話なんじゃないかな。それに、私達は法律家でもないし、法学部に進学したわけでもない。もしそうだったとしても、法律は誰かの正しく生きてる、生きてないをジャッジするものじゃないよ」
「ミリはちゃんと子育ても仕事もしながら、しっかり家庭のことまでやってるじゃない。本当に偉いよ」
「さっきまでの会話で何を聞いてたのよ! その『偉い』って、正しいとか完璧って意味で言ってるんでしょ。あのね、外からうまくやっているように見えても、実際は毎日ギリギリ、毎日子供の病気とか怪我とか何が起こるか分からずにハラハラしてる。そんな状況で、歳だけ大人だからって完璧な人間でいられるはずがないんだよ。子どもが可愛いって話してるけど、鬼みたいに怒る日もある。仕事も家のこともどうにもならなくて、自己嫌悪に陥る日もある。それでも、自分で選んだ道を進むしかないから、正しい生き方かどうかなんて振り返ってらんないんだよ。私はね、ほんの僅かな時間でもユイコをぎゅっとして、抱きしめられたらそれで正解って思ってる。泣いたって、笑ったって、どっちでも正解だって思ってるよ」
「そうだよね……。一体何を悩んでるんだろう、私」
「どうせまた、義母に何か言われたんでしょ。千砂はさ、よくやってるよ。正しい、正しくないなんて……」

〈バウバウ、バウバウ!〉
〈ギャッ、ギャッ、ギャッ!〉
〈キャイーン!〉
犬達の喧嘩は、また別の犬らが加わり更に激しさを増した。
いくつもの吠え声が、ドタバタと踏み鳴らす足音が、ステンレス製の餌皿がひっくり返ったような金属音が、一斉に歌い出す。賑やかな音楽が響き渡ると、ミリの映るスマートフォンの画面が小さく揺れた気がした。

「とにかくさ、私にとって千砂は千砂ってこと! それは絶対に変わらないよ。ああ、今日はもっとそういう話をしたらよかった。私ばっかり愚痴ってごめん! 使い古しの人生双六なんてクソくらえだ!」
吠え声に掻き消されないよう、ミリは声量を上げて張り合った。
義母にまた遠回しに孫を催促されて気分が悪くなっていたと、何も言っていないのになぜ彼女には分かるのか。
「千砂、あんまり無理すんなよ。逃げたくなった時は、家に泊まりにくるのを許す」
同じ「無理すんなよ」という言葉でも、ミリの言葉はホッと息をつかせてくれる。
俺は関わらないと突き放されるのと、物理的に助けられない距離にいるけれど気にかけているよ、という思いやりと。
言葉は人が話すことで形を持ち、信じたい人の言葉が本当はどんな姿をしていたのか、時々残酷に見せつけてくる。


Ⅲ 七月

動物愛護及び管理に関する法律
第25条
1項 都道府県知事は、動物の飼養、保管又は給餌若しくは給水に起因した騒音又は悪臭の発生、動物の毛の飛散、多数の昆虫の発生等によつて周辺の生活環境が損なわれている事態として環境省令で定める事態が生じていると認めるときは、当該事態を生じさせている者に対し、必要な指導又は助言をすることができる。
2項 都道府県知事は、……期限を定めて、その事態を除去するために必要な措置をとるべきことを勧告することができる。
……
5項 都道府県知事は、前3項の規定の施行に必要な限度において、動物の飼養又は保管をしている者に対し、飼養若しくは保管の状況その他必要な事項に関し報告を求め、又はその職員に、当該動物の飼養若しくは保管をしている者の動物の飼養若しくは保管に関係のある場所に立ち入り、飼養施設その他の物件を検査させることができる。
……

「動物愛護及び管理に関する法律」、通称、「動物愛護管理法」の25条。
そこには、動物の飼育などに因る騒音や悪臭、その他ここに書かれた様々な問題が起きており、周辺の生活環境が損なわれている事態が生じていると認められる場合には、都道府県知事がその事態を生じさせている者、つまり飼い主に対して指導や助言、勧告、立入検査などをすることができるということが書かれていた。

「……これだ」
この二か月の間、区役所の生活衛生課には幾度となく相談してきたが、「飼い主さんにはお伝えしているんですけどね……」、「こういうことは時間が掛かるものですので」などの曖昧な回答に納得できぬまま受話器を置くばかりだった。
だが、この法律には条件を満たせば行政が動くことのできる根拠がある。これに該当することを示すことができれば、何も変わらぬ現状を打開できるかもしれない!
ただ、気になるのは25条1項の条文に書かれた「周辺の生活環境が損なわれている事態として環境省令で定める事態が生じていると認めるとき」という文言だ。
調べてみると、「環境省令で定める事態」とは「動物の愛護及び管理に関する法律の施行規則」12条に具体的に列挙されている、騒音・異臭・毛または羽毛の飛散・多数の昆虫の発生という動物愛護管理法25条の条文に書かれているものと同様の現象を指し、これらが「周辺の生活環境が損なわれている事態」になっているかが問題となるようだ。しかし、施行規則12条には更に「現に周辺住民の日常生活に著しい支障を及ぼしていると認められるもの」という文言がある。これは、25条1項の条文には明記されていない。
どういうことだろう。騒音や異臭、毛の飛散や昆虫の発生などのいずれかが「周辺の生活環境が損なわれている事態」となっているだけでは足りず、加えて「周辺住民の日常生活に著しい支障を及ぼしている」という条件が必要、かつ、何かの基準によって誰かに認められなければならないのか。
「著しいって、何? 誰にとって?」
素人が条文を読むだけではよく分からない。ひとまず、区役所の生活衛生課に電話をしてみることにした。

「はい。~区保健所生活衛生課です」
二度目の呼び出し音で受話器が上がる。
「もしもし、○○町の犬の多頭飼育の騒音と異臭について、以前から匿名で相談している者ですが、前回対応してくださったミネオさんはいらっしゃいますか」
「申し訳ありません。ミネオは本日外出しておりますので、私オオゾノが承ります。いかがしましたか」
前回電話口に出たのはミネオさんという中年の男性だったが、今回は若い女性だった。
「実は、動物愛護管理法25条というのを最近知りまして。今回の近所の騒音や異臭について、こちらを根拠に対応をして頂くことはできないでしょうか」
「条文をお調べいただいたのですね。ありがとうございます。○○町のこの件については、お宅に伺ってお話を聞いたり、餌のやり方についてこうしてはどうかと飼い主さんにお話をしたり、既に行政指導を行っております。動物愛護管理法25条の条文には『周辺の生活環境が損なわれている事態として環境省令で定める事態が生じていると認めるとき』とあると思うのですが、環境省令、つまり施行規則ですが、そこで定める『周辺住民の日常生活に著しい支障を及ぼしている』というのは、どこまでがそうで、そうでないかというのは曖昧でして……」
「環境省が公表しているパンフレットでは、25条について書かれたページに『動物が虐待を受けるおそれがある事態』として異常な鳴き声などが、『多頭飼育崩壊の危険信号』として動物が清潔でないことや飼い主の近隣とのコミュニケーションがないことなどが具体的に挙げられていますよね。今回の件で当てはまるものは多いと思うのですが。夏に入って臭いもきつくなっていますし、状況が悪化しているといえませんか。体調を崩すことも多くなって、本当に困っているんです」
「環境省のどのパンフレットですか。教えていただけますか」
「え、パンフレットですか? ええと、確か……」
スマートフォンに保存したウェブページをスクロールしながら探し出し、タイトルや何が描かれているのかを説明する。
「ありがとうございます。後で読んでみます」
「あの、それで、今回の騒音や異臭について、その施行規則に書かれた『日常生活に著しい支障を及ぼしている』状態かどうかの判断はしていただけないのでしょうか。酷いといえる状態であれば、現場に入って飼育状況や環境を確認したりすることも条文上は可能なのではないでしょうか」
「つまり、立入検査をしてほしいのですか?」
「犬達の異常な吠えが毎日続くのは、適切な飼育がされていないからとは考えられませんか。現段階で頭数も中の状況も確認できないのであれば、権限を持つ行政が第三者として飼育環境などについて介入することで、少しでも状況が良くなることをこちらとしては期待することしか……。犬達の激しい吠え声が毎日何時間も続いていて……。精神的にも限界なんです」
「そうでしたか。激しい吠え声の時間帯って、いつなんですか」

──ああ、またか。
前回のミネオさんという人にも、その前に電話に出た別の人にも、同じことを聞かれて最初から説明した。
隣の家の騒音については認識され、飼い主の元へも訪問してくれている。けれど、私が何度も同じことを話したこれまでの内容は、いつもどこかへ忘れ去られているようだった。本質に迫れぬまま、気苦労だけが重なって、ただただ胸の内側が抉るように削られていく。
犬達が一斉に吠え続ける一番騒音の酷い時間を知らないのだとしたら、一体どの時間帯に飼い主の元を訪問し、どんな現状を確認できたというのか。

「……例えば、吠えの激しい時の録音データや吠えが発生する時間帯などについて記録をまとめて提出したら、何か変わるでしょうか」
声を絞り出して問いかけると、「データをいただいても、それをもってこちらで何かをするわけではありません」との答えが素早く返ってきた。
「あの……、色々難しいのであれば、せめて吠え方が激しい間だけでも窓を閉めてもらうように、次に飼い主の方に会う際に再度お伝えいただけませんか」
「飼い主の方には、こちらからも既に伝えているのですが……。飼い主さんにも事情があって、何かあったら直接言って来てほしいとおっしゃっているんです。もし良かったら、そちらから飼い主さんのお宅を訪ねてみることはできませんか」

──私が? 隣の家に直接?
第三者に、行政に言われても改めない時点で、それは抵抗とも嫌がらせをしているとも捉えることができるじゃないか。
現時点で当事者同士が対峙して、一体何が良い方向に変わるというのだ。

「……」
「他に何かおっしゃりたいことはありますか?」
「いえ……」
「それでは、こちらで失礼させていただきます」
オオゾノさんの語り口は同情を込めた柔らかいものではあったが、これくらいの騒音で騒いでいる私はクレーマーのように思われているのかもしれない。
電話の切れる音と共に、何かが途切れる音がした。

「周辺住民の日常生活に著しい支障を及ぼしている」といえるためには、実際の騒音が何デシベルであるかよりも、きっと相当数の苦情や外部からも明らかなほどの悪辣な環境、被害状況が必要なのだろう。
そうだとすると、動物愛護管理法25条を基に行政が対応を検討し始めることができるのは、一体いつになるのか。
もしもいつかの未来に同法25条による検討がかなったとしても、行政からの「指導・助言」に飼い主は従う義務がない。その後、改善が見られないかどうか相当の期間様子を見、今度は「いつまでに改善をしてください」と「勧告」を出すことはできるが、この段階でもやはり飼い主には従う義務がない。
更に様子を見、改善されずにこのままでは明らかにまずい事態だと判断され、行政処分に当たる「命令」が出されることで初めて、飼い主にその命令に従う義務が生まれることになる。
「勧告」や「命令」を出すかどうか調査するために、飼い主に報告を求める「報告徴収」や、立ち入って現地の状況を調べる「立入検査」というものがあるのだとは思うけれど、今役所が隣家に対応している「行政指導」の範囲では、それを机の上の議題にすることさえ難しいのだろう。

窓を閉める気配もない隣人が、行動を変えてくれる日がいつかやって来るのだろうか。
それは一年後か。それとも、何年も先のことか。
もしかしたら、この先ずっと変わらないまま、私以外の人にとっては「著しい支障」とは言えない状況が続いていくだけなのかもしれない。

市の動物愛護センターにも相談したが、窓口は区役所の生活衛生課だと差戻しになった。
市役所に騒音に関係する部署を見つけて相談したが、企業や団体の出す騒音だけが対象だと、申し訳なさそうに断られた。
役所で騒音計を借りる予約をし、ようやく手元に届いた二ヶ月後に、慣れない操作をしながら吠え声と計測器の様子を同時に動画で記録した。
犬猫保護を行うNPO団体に相談し、話を聞いてもらった。自治体には「動物愛護推進員」という行政が委嘱している動物専門員やボランティアがいることを教えてもらったが、私の在住区には犬の担当がいないことが分かった。
自治体のホームページ上の「市民の声」から要望を伝えても、担当部署にそのまま割り当てられ、無味乾燥な短い文章が出されるだけだと知った。
総務省管轄の公害等調整委員会という調停や裁定を行う機関を教えられ、申請の手順を調べた。しかし、犬の騒音については事件として扱われた例が過去にほとんどなく、やっと見つけた僅かな事件も「取下げ」または「却下」で終了していた。

犬の騒音についての判例を調べた。民事裁判においては、睡眠障害を伴う神経症などの健康被害や精神的苦痛について損害賠償責任が認められた事例はあったが、飼い主に支払いが命じられたのは三十数万円ほどであり、弁護士へ依頼した際にかかるだろう費用とそう変わらなかった。
これまで相談してきた所では、飼い主の「所有権」があるから立ち入れないという話だったが、裁判では「動物の占有者は、その動物が他人に加えた損害を賠償する責任を負う。ただし、動物の種類及び性質に従い相当の注意をもってその管理をしたときは、この限りでない。」という民法718条1項の「占有権」から説明されていた。犬や動物に対して「所有権」があるかどうかは、判例の中では問題とされていなかった。

区役所の無料法律相談に予約をした。いつ、どの期間、どの程度の、どんな騒音かを説明することに相談時間の多くを費やした。いつの間にか心情を訴えることに傾いてしまい、要点を紙にまとめてから来ればよかったと後悔した。「騒音の相談はとても多いのですが……」と話す弁護士の表情を見て、簡単な問題ではないのだと改めて悟った。
民事裁判の場合には「受任限度」というものが重要になるらしい。最後に、弁護士会の連絡先が書かれた用紙をもらった。

夏に入り辺りに異臭が立ち込めていようとも、まだ死臭はしないから警察には動物虐待で通報できない。
家の窓に貼ったベニヤ板をもう一枚増やした。段ボールも貼り付けた。
高価なノイズキャンセリングイヤホンを買って、毎日装着した。ホワイトノイズを流すと思いの外に音を遮断したが、大型犬の吠え声は耳の奥まで届いた。
隣家の家主が町内会に入っていないことを再度確認した。
犬達の吠える時間帯や状況について、毎日日記をつけた。
音量を測りながら録音の出来るアプリで、敷地内に響く毎日の激しい吠え声を記録した。
せっかく記録したデータも、信用性のある証拠にはならないという誰かのポストをSNSで見かけた。

──あと、私は何を「していない」?
動物愛護管理法25条の「周辺の生活環境が損なわれている事態として環境省令で定める事態が生じている」とは、施行規則12条の「現に周辺住民の日常生活に著しい支障を及ぼしていると認められるもの」とは、どの程度、どの範囲に影響があれば行政の客観的な判断を可能とするのだろう。
ふとスマートフォンのAIに過去の判例にヒントがないか聞こうとしたけれど、やめておいた。
騒音問題を一刻も早くどうにかしたいと切実に願う時、出口に解決という結果が待っている保証がなくとも、行き着く先は今のところ民事しかない。和解を目指した調停での話し合い、もしくは裁判による民法の不法行為に基づく請求や、健康被害や精神的に被った損害についての損害賠償請求か──。
動物愛護管理法25条は行政に何ができるかを定めた法律であって、彼らの"裁量"について民事裁判で触れる余地はない。


明日は火曜日。
燃えるゴミ、燃えないゴミ、資源ゴミ、一体どのゴミの日だったろう。
そうだ、またお義母さんの家に行かなきゃならない。夏はゴミ袋の口を閉じていても臭いがすぐに酷くなる。でも、私はどうやってゴミを分別していたんだっけ。
ああ、頭が痛い。胃が痛い。動悸がする。眩暈がする。
なぜだか、やれないことばかりが増えていく。


Ⅳ 十月

〈〜県の山中で発見された小学生男児と思われる遺体は、損傷が激しく身元や死亡時期について未だ不明のまま……〉
県内の山中で身元不明の遺体が発見されたニュースは、特段大きな特集にはならないものの、この一週間、深夜のニュース番組の短いトピックになるくらいには注目を集めている。全く可哀想な話だ。

──ピッ。
テレビの電源が突然切られた。

「千砂、食器が溜まってるぞ。……このぐらいのこと、何でやらないんだよ」
一昨日から台所のシンクに溜まったままの汚れた食器の上に、不規則に積み上がった山を崩さぬよう自身の晩飯の皿を慎重に重ねながら、夫は言った。
「おい、聞いてるのか? 病気でもないんだから、しっかりしてくれよ」
夫は今日も仕事からの帰りが遅く、イライラしている。
私が返事もせずにテーブルに突っ伏して寝ている振りをすると、大きなため息を吐いてから今夜もゲーム実況中継を見るために寝室へと戻って行った。

人は、何かをやらないことを怠けだと捉えて相手を責めることがある。
けれど、「やらない」よりも、むしろ「やれない」がその根っこにあることが問題なのだ。
やろうという気持ちになれない、その原因を自分で直視することができない。
無意識に生まれた葛藤を地中に深く、存在を忘れるほどにどこまでも重く沈めて、気軽に開くことなどできぬように鉄の蓋をして固く閉ざしてしまう。
そんなことはきっと誰でも一度は経験のある、ありふれたことなのに。私達は日々を懸命に生きる中で誰かが隠したマンホールのような蓋を探す余裕などなく、ただ深く考えることをやめ、周りの意見を見渡し、「自己責任だ」、「政府が何とかするべき問題だ」と曖昧な一般論に溶かしてゆく。
大雨が降り、隣のマンホールから水が溢れてもなお、誰かの問題は自分の問題になり得ない。

──私の足元にも寡黙なマンホールが鎮座していた。
私はずっと、少しずつ溢れていたものに目もやらず、汚水の川が濁流に変わっていても、自分の足元を見ようとしていなかった。

〈ワンワンワンワン!〉
「お母さん、お腹すいた!」
〈ウォンウォン、ウォンウォン!〉
〈飲食料品の消費税一パーセント! 一パーセントに相当する六千億円は中低所得者に分配することが国民のためと……。〉
〈キャンキャンキャン!〉
「あんまり無理すんなよ。こんなことで身体壊したら、馬鹿みたいだぞ」
〈ウァオ、ウァオ、ウァオ!〉
〈昨日、〜県の山中で小学生男児と思われる身元不明の遺体が発見され……。〉
〈ギャッ、ギャッ、ギャッ!〉
「児童は、適切に養育され、その生活を保障され、愛され、保護される権利を有すると児童福祉法で定められており……」
〈クゥーン、クゥーン。〉
〈やめてくれよ、母さんを病人にしようとするな。千砂は考えすぎだ。〉
〈ギャンギャン、ギャン!〉
「犬は法律上では『物』なので、飼い主には所有権があって踏み込めないんです。殴ったり蹴ったりを目撃したり、死臭がしたりした時には、すぐに……」
〈ウォ、ウォ、ウォ、ウォ。〉
〈未だ緊張状態にある中東情勢の影響を受け、経済は……。〉
〈バウバウ、バウバウ。〉
「動物愛護管理法25条の条文には……、『周辺住民の日常生活に著しい支障を及ぼしている』というのは、どこまでがそうで、そうでないかというのは曖昧でして……」
〈ワンワン、ワン!〉
「コウちゃんが気にしていないなら、千砂さんの気にしすぎじゃないかしら。犬は吠えるものだもの」
〈ヒン、ヒン、ヒン。〉
「僕はどこに居たいのかな。施設が怖いなら、やっぱりお家に帰りたい?」
〈キャイーン!〉
「いたい! ぶたないで!」

あの子の叫ぶ声が聞こえて、私は受話器を手に取った。
救えなくても、少しでも救いたくて、ダイヤルを押した。
あの晩、すぐに警察がやって来て、数日の間に役所や児童相談所の職員だと名乗る人間が代わる代わる隣の古民家のインターホンを押していった。
ようやくあの子は保護された。
けれど、半月も経たない内にまた家に舞い戻って来た時には目を疑った。

ある日の深夜三時、物音がした気がして裏口の扉を恐る恐る開くと、隣家の物陰であの子がスコップを片手に庭の土を掘り起こしていた。何かを探しているようで、じゃがいもでも埋まっていたのかという大きな穴ができていた。
「……何をしているの?」
「……食べもの、ないかなと思って……」
「お腹がすいてるの? それなら……、こっちにおいで」
手を貸しながら、錆びきったフェンスを彼が自力で乗り越えるのを見守る。すとん、と無事に着地した足音は消えてしまいそうなほどか細くて、そこに実体が存在することが不思議に思えた。
「キーを開けておくから、先に車に乗ってて。美味しいもの、取ってくるから待っててね」
夫が寝ているから、家に入れるわけにはいかない。隣に住むこの子の親に見つかってもやっかいだ。
私は一度家の中に戻ると、冷蔵庫を開けて、晩御飯の残りで作っておいた焼き鮭入りのおにぎり、コンビニで買ったシュークリームと紙パックの牛乳、それにリンゴジュースとペットボトルの緑茶も見つけて、目の前にあったエコバッグの中に放り込む。
あの子は小学校中学年か高学年に入ったくらいか。あのくらいの年頃の子どもがどんなものが好きか分からないが、お徳用パックに入ったドーナッツ、チョコレート、おせんべい、インスタントラーメンなど、甘いものとしょっぱいものを取り混ぜて空になって萎れていたコンビニのビニール袋に詰め込んだ。
本当はもっと栄養のあるものを持っていきたいのに。タンパク質も野菜や果物も全然足りていない。けれど、今は時間も心の余裕もない。
エコバッグに印刷された自治体のゆるキャラクターだけが、指先を震わせる私を見て可笑しそうに笑っていた。

……何処へ向かえばいいのだろう。
車中の私達に会話はない。
後部シートに座った彼は、既にエコバッグの中から私の握ったおにぎりを見つけてがむしゃらにかぶりついていた。
閉め切っていると車内にすえたような臭いが充満して、少しだけ窓を開けて外気を入れる。
彼を傷つけてしまったのではないか、と心配して車のルームミラーで様子をうかがったが、食べ物や飲み物に夢中で気に掛けてはいないようだった。
そう言えば、隣の家のベランダに洗濯ものが干されているのを、あまり見かけたことがない。夕餉の時刻にも、魚を焼く香りや醤油と砂糖で甘辛く煮つけたような香りが台所の換気扇から漂ってきた記憶もなかった。家事はどうしていたのだろう。
私の脳裏には、引っ越してきたばかりの頃に義母の家の中で見た光景が一瞬浮かんだ。

彼の食事が一段落すると、沈黙と稀にすれ違う車の走行音だけが時と共に流れていく。
「あなたの名前は?」
「小学生だよね。今は何年生なの?」
「お母さんとお父さんは一緒に住んでいるの?」
子どもと接する機会の乏しい私が思い浮かぶ質問は、彼がこれまで何人もの大人に上っ面の笑みを浮かべながら問われてきただろう質問ばかりだ。これから自分も同じことをしようとしているのかと思ったら、何だか話しかける意志も冷えていった。

彼はまだお腹がいっぱいになっていないのか、黙ったままフィルムのついたカップラーメンを見つめている。
私はなぜ、お湯もないのに、インスタントラーメンなんて持って来てしまったんだろう。
目の前にあるのに食べられない。そんな状況は、ますますこの子の気持ちを萎ませてしまうだけじゃないか。
思えば、私は同じようなことを何度もこの子にしてきたのではないだろうか。
夜遅くに隣の家から響いてくる彼の親の怒鳴る声。お腹が空いたと泣く子どもの声。
窓ガラスを振るわせる彼らの声は何日も私の耳に届いていたのに、 「明日は聞こえないかもしれない」、「きっと親子にはよくあることなのだ。ミリも鬼のように怒ることがあると話していたから、気にしすぎに違いない」、「余裕もないのに他の家庭のことに干渉したくない」と無視を続けてきた。

「いたい! ぶたないで!」
小さな抵抗の声を聞いた時に初めて、私は思わず受話器を手に取って警察に通報した。
救えなくても、少しでも状況が良くなればと願ってのことだった。
けれど、複数の社会的機関と多くの大人達が関わって、それでも彼はあの家に戻ってしまった。
透明なフィルムを通してあなたの状況を知っていたのに、何も出来なかった。
「お家に帰りたい?」
私も、そう聞くべきなのだろうか。彼の意思を尊重するとは、そういうことなのだろうか。
どうすれば良いのか、どうすることが正解なのか分からない。
善人になる勇気も、悪人になる勇気もない私が考え始めると、結局堂々巡りになってゆく。

警察に連れていくのが一番いい? それとも、朝になったら区役所に連れて行って、また児童相談所に繋いでもらう? でも、それでは彼がたらい回しにされてきたこれまでと変わらないじゃないか。
そうだ、彼の通っている小学校へ行ったら、先生が子どものことを一番に考えてどうにかしてくれるかもしれない。いや、朝を待って学校へ向かっている間に、もしかしたらこの子の親が、子どもがいないことに気がついて騒ぎ出すかもしれない。私の家の車がないことに気づいたら、私のことを誘拐犯だ何だと近所中に聞こえるように大声で叫び出すかもしれない。
そんなことになったら、せっかく借りられたあの家に住み続けられない。夫にも義母にも何と言われるか。あの人達に見下されたくなんてない。そうだ、今日は義母の家に行く日だっただろうか。義母の家を片付ける人がいなくなったら、これまでの私の苦労が水の泡になってしまう。夫はいつも仕事の帰りが遅いし、私のせいで義母を一人にしてしまう。
いっそ、夜の間に家に帰って……。いや、どうせ騒がれるなら、むしろ深夜に子どもが一人で外に出されていたことを警察に話した方が周りの目も……。

──それならば、どうして私は彼を車に乗せて遠くまで連れ出したのだ。

思わず出くわしたカーブに大きくハンドルを切ると、ライトの照らした《鹿の飛び出し注意!》の看板が目に入った。
いつの間にか山道に入っていたらしい。辺りは雑木林で、夜明けの近い空が薄っすらと白みを帯び始めていた。
まともに眠らないまま考え事をして、こんな道を運転するなんて。やっぱり今日の私は私らくない。

「おばちゃん、止めて!」
突然の大声に驚いて、急ブレーキをかけた。
か弱そうな子どもからこんなに大きな音が出るとは思わず、唖然とする。
車が止まったことを確認すると、彼はすぐに扉を開けた。いつの間にか菓子やジュースをゆるキャラのエコバッグにまとめていて、取っ手ををひったくるように握りしめ、逃げるように駆けていく。
狼みたいに走ってゆく彼が、一度だけ足を止めて僅かに振り返る。
私に向けた片目が映していたのは、感謝でも、希望でも、哀しみでもなく、己に迫る真っ暗な濁流だった。
彼を見てもただ傍観し立ち尽くすだけの無意味な大人に、ただその事実をありありと思い知らせるだけのそれだった。
私は声も出せずに、暫くの間、呆然とハンドルを握りしめて林の先を見つめていた。
そうだ。きっと彼は、山を越えた隣の自治体に住む親戚か、友達か、信頼できる誰かの所へと逃げたのだ。だから、いとも簡単に車から飛び出して行ったのだ。そうとしか考えられない。
私の頭は、そう結論づけた。

車の後部座席のシートには、彼がスコップで掬っていた土が僅かに残されている。私はその粒子を人差し指の先につけて、そのまま外に捨てた。
痕跡を残さぬよう窓を全開にして換気をし、座席シートはアルコールシートで隅々まで綺麗に拭いた。
その後、家に帰ったのは早朝だったと思うが、どの道を通って辿り着いたのかはよく覚えていない。まだ夫は起きていなかったから、もしかしたら日曜日か祝日だったのかもしれない。

あの子の顔は、よく思い出せない。
一年前の秋は、まだそんなに寒くなかった。それだけは、今でもよく覚えている。

今朝も六時から、何頭もの犬達が吠え続けている。
眠れぬ私の脳味噌は、テレビや、夫や、犬達や、義母や、猫らや、役所の職員や、名前も知らない誰かの、何十種類あるのか判別もつかない吠え声を、ただひたすらに繰り返し私の耳へと直に垂れ流していた。
物が溜まって、埃が溜まって、生ゴミもプラスチックゴミも分別がつかなくなって。
私の思考は徐々に灰色の世界に埋もれつつあるのに、言葉だけは妙に冷たく冴えている。
心の底にある感情が、轟く吠えのリズムに合わせて踊り狂いながら、何かを叫んでいた。

時刻はもうすぐ午前九時。
役所も、警察も、NPO団体も、弁護士事務所も、一斉に窓口を開く時間だ。
今日は珍しく、頭の中に一際目立つ声が響いていた。
自ら蓋をした汚水を汲み取る覚悟が鈍らぬ内に、受話器のダイヤルに指先を合わせる。
皆に等しく届けられる優しい電話の呼出音が、三度鳴り終える前に途切れた。
「はい。こちら──」

息を吸い込み、私は、吠えることにした。


参考資料

環境省_パンフレット「動物の愛護及び管理に関する法律のあらまし 令和元年改正版」 [動物の愛護と適切な管理] (令和2年9月発行、令和3年3月一部修正版)
環境省_パンフレット「知っていますか?動物愛護管理法」 [動物の愛護と適切な管理](平成30年8月発行)
環境省_動物愛護推進員を養成するための教材マニュアル(案) [動物の愛護と適切な管理](2005年3月発行)
・大阪地裁平成27年12月11日判決(判例時報2301号103頁)
総務省|公害等調整委員会 ホームページ
・付 録2 公害等調整委員会に係属した公害紛争事件一覧(https://www.soumu.go.jp/main_content/001056395.pdf
環境省_報告書等「動物虐待等に関する対応ガイドライン」 [動物の愛護と適切な管理](令和7年3月第2版)


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みなとせ はる いつも応援ありがとうございます🌸 いただいたサポートは、今後の活動に役立てていきます。 現在の目標は、「小説を冊子にしてネット上で小説を読む機会の少ない方々に知ってもらう機会を作る!」ということです。 ☆アイコンイラストは、秋月林檎さんの作品です。