【連載小説】「みつばち奇想曲(カプリース)」第十話
同じ頃、「美化委員の仕事がある」と美憂たちに嘘をついていた白雪は、高等部西棟の外れにある旧校舎に潜り込んでいた。
旧校舎は、現在の校舎とは比べものにならないほど古くこじんまりした木造建てで、閉ざされた窓と壁の一面にはアイビーが蔦を張り巡らせている。壁が朽ちて崩れ落ちて来ないのも、ひとえに粛々と手を伸ばし続けてきたこの植物のおかげかもしれない。ここは校舎として使われなくなった後も、十年ほど前までは教師の宿直室として利用されていたらしいが、今では誰も近づけず、ひっそりと息を潜めて微かに聞こえてくる生徒の声に耳を傾けている。
日当たりが悪く、鬱蒼と雑草の茂る旧校舎の庭に来ると、夏でもないのにじっとりとした汗が額に浮かんだ。白雪は、今にも文字が消えそうな「通用口」と書かれた扉の前に立つと、一度深呼吸をしてからドアノブを回した。
その鍵が壊れていることに気づいたのは、先月のこと。檜崎クララから命じられたアイドル雑誌を何とか手に入れて彼女に渡すと、「持ってくるのが遅い」とこの旧校舎に放り込まれた。
といっても、最初は奈那と愛果に目隠しをされており、自分のいる場所がまさかここだとは全く思わなかった。目隠しを外せた後も、暗闇の中で泣きながら這いつくばって、何とかひとつだけ鍵の掛かっていない扉を見つけることができたのだ。開いた扉の隙間から夕陽が差し込み、やっとの思いで外へ転がり出ると、離れた場所から下校を促す夕方六時のチャイムが聞こえ、ようやく旧校舎に閉じ込められていたことが分かったのだった。
まだ昼間とはいえ、今日も一歩中に入れば相変わらず闇の世界が広がっている。理科室から拝借した非常用の懐中電灯を点灯すると、「キイキイ」と錆びた音を立てて鳴く重い扉を背中側でゆっくりと閉めた。
校舎一階の廊下には、左手に三つの部屋が並んでいる。一番手前の大きな部屋には「職員室」、その隣には「保健室」、一番奥の小さな部屋には「用務員室」というプレートが掲げられ、それぞれのプレートにはうっすらと蜘蛛の巣が掛かっていた。
「どこから探したらいいかしら……」
部屋の並びから推測すると、教室は二階にあり、それ以外の学校として最低限必要な機能が一階に揃っているようだ。
白雪は、まず一階の入口に近い部屋から調べてみることにした。先月の出来事を思い出すと、まだ暗闇が恐ろしい。日の当たる外へと逃げ出したくなる気持ちを押さえて、足を一歩ずつ前へと進めた。
──どんなに怖くても、探さなければ。「例のもの」がある可能性を否定できない限り、引き返したくはない。
「高等部で『赤い意見箱』を見つけたの」
大出蘭がそう言うのを聞いたのは、中等部三年生の時だった。蘭は中等部二年生からのクラスメイトで、クララからいじめられていたわけではないが、いつも物事を大袈裟に話し、周りから少し浮いている子だった。
蘭の言うことが本当のことであれば「重大ニュース」に違いないが、「赤い意見箱」は学院七不思議にも数えられる、いわば伝説だ。「毎年、誰かが消えているのは意見箱のせい」なんて昔からの噂もあるが、その箱を見たという者も誰もいないし、意見箱に投書した何かが叶ったなんていうことも誰も聞いたことがなかった。元々ビッグマウスの傾向のあった彼女の言うことは、「出たよ、虚言癖」という奈那と愛果の言葉によって、ただの笑い話として処理された。
そんな哀れな彼女が突如「転校した」と担任教師から聞かされたのは、その年の夏休みに入る前だ。彼女に別れを言えなかったことを悔やむ者も、彼女がいなくなったことを悲しむ素振りを見せる者もおらず、彼女が姿を消したことが「赤い意見箱」と関わりのあることだなんて、誰ひとり言わなかった。
しかし、白雪だけは心の中でこう思っていた。
「──きっと、蘭は『赤い意見箱』を見つけたのだ。そこに何か書いたのだ。だから、どこかへ消えてしまったのだ」と。
微塵も信じられない担任教師の言うことよりも、「こちらの理由」の方がよっぽど信憑性があった。
噂では、その意見箱が設置されるのは春の間だけ。高等部にあがったその日から、「美化委員」の名目で校内をくまなく探し回っている。しかし、五月の中頃が近づいても、それらしき影さえ見つけることはできず、残すはこの旧校舎だけとなった。
「職員室」の引き戸を開けてみると、部屋の中は意外にも綺麗な状態だった。ここは、宿直室として使われていたのだろう。床は畳敷きに改装されており、文机、ベッド、本棚、そしてこの部屋に不釣り合いな大きなヨーロッパ風の姿見鏡が不規則に置かれている。
もちろんテレビやラジオは見当たらず、ベッド脇に備えつけられた本棚には、図書館では見かけないような古い洋書が三十冊ほど並んでいた。
何の本なのだろうと、本棚から一冊引き抜いてみると、妙な感覚があった。
旧校舎にはほとんど誰も近づかず、標識プレートは蜘蛛の巣をかぶり、先月ここから外に出た時には制服が煤で汚れていたいたはずだ。しかし、今、本棚から本を抜き取っても塵ひとつ舞わない。懐中電灯で照らしてみても、触れたところに指の跡さえ付いていなかった。まるで、今朝にでも掃除を済ませたばかりのような……。
「今も誰かいるの……?」
そう考えると、ある意味、幽霊がいると思うよりも背筋が冷える。白雪は、姿鏡に自分の影が映るだけで身震いし、文机の引き出しや本棚の隙間に意見箱らしきものがないことを手早く確認すると、その部屋を後にした。
(つづく)
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