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【連載小説】「みつばち奇想曲(カプリース)」第三話

「ラ・トゥールの絵みたい……」
 口から零れた言葉を掬って戻すように、美憂は口元を覆う。
 またやってしまった。思っていることをつい口走ってしまう癖が、母の機嫌を損ねてしまうと気づいてからは一層気を付けていたのに。特に、絵画や美術の話は……。
「ラ・トゥールって、画家のジョルジュ・ド・ラ・トゥールのことかしら?」
 まさか彼女が画家の名を言い当てるとは思ってもいなかった。思わずその美しい顔をじっと見つめてしまう。
 彼女の小さな顔には、小振りな鼻と輪郭のはっきりした形良い唇がバランスよく配置されている。瞳の奥は、ブルーベリーや桑の実、山葡萄などの木の実を煮詰めたような深い藍色をしていて、この世にある綺麗なものだけが混じり合ってきらめいていた。腰まで届きそうな長い黒髪は、渓谷を流れる川のごとく彼女の身体の線に沿って緩やかに流れている。
「……ラ・トゥール、知ってるの?」
「ええ、知っているわ。『いかさま師』の絵画が有名よね。あなたは、絵画が好き?」
 美憂は、「こくん」と頷く。
「『いかさま師』と言えば、アメリカテキサス州のキンベル美術館とパリのルーヴル美術館に同じ構図の絵があるのよね。キンベルの方はいかさま師の持っているトランプの柄が『クラブ』、ルーヴルの方は『ダイヤ』なの」
「そうなの? ルーヴル美術館にあるのしか知らなかった。同じ絵がふたつあるって面白い」
「世間知らずの少年が、三人のいかさま師グループとトランプゲームをして騙される場面が描かれているけれど、あの絵の面白いところはいかさま師の表情や目線よね。いかにも『怪しい』という感じが出ていて、傍から見たら分かりやすくて笑っちゃう」
「いかさま師の女性なんて、隣の仲間に『エースをくれ』って思いっきり指で合図してるしね!」
 美憂は彼女と目線を合わせて笑い合う。まさか同じ年頃の女の子と絵画の話ができるなんて。ピカソやゴッホであれば名前くらいは理解してもらえることもあるが、「ラ・トゥール」と聞いて、それが画家の名であることをすぐに言い当てられる人など簡単には見つからない。
 美憂がその名を知っているのも、今は離れて暮らす父が昔、日曜日には必ず上野にある大きな美術館に連れて行ってくれたからだ。小学生の時には画家の人生や宗教観などを説かれてもよく理解することができなかったが、父に手を引かれながら古い紙のような匂いのする静かな館内を歩いていると、誰もが沈思黙考しながら過去と現在の狭間を漂っているようで、目に見えない精神世界があるのだと子どもながらに感じた。また、厚く塗り重ねられた絵具の筆跡を見れば画家の熱情が伝わってきたし、透明に近い絵具を塗り重ねて描かれたフレスコ画の人物像からは、こちらの考えが見透かされているような驚きと恐怖を感じた。美憂にとって絵画とは「生」そのものであり、芸術家たちだけが見ることのできた「確かに存在する世界」だった。
 普段は避けている絵画の話が自然に話せている。相手は初めて会った少女だというのに、なぜか母よりも近い存在に感じられた。
 姉妹とはこういう感じなのだろうか。一人っ子の美憂には想像がつかないが、例えるならば、ふたつの精神世界の垣根が溶けあって、それぞれを自由に往来できるような、初めて感じる不思議な感覚だった。
「けれど、あの少年は本当に騙されているのかしら。子どもだからといって、うぶで世間知らずとは限らないわ。子どもだからそうだと思い込んでいるのは、周りの大人のいかさま師たちの方ということもあるかもしれない」
 そう言いながら彼女がキャップを開けたペットボトルを渡してきたので、水を一口飲み込む。すると、胃の中のジャンクフードの残骸は、すっと下の方へと落ちていった。
「大人に気を遣って、騙されてあげていることって、子どもにはあるでしょう? あなたみたいに」
 彼女の大きな瞳の奥で、何かがぬらりと動いた。
「……何のこと?」
 一瞬、蠱惑こわく的な表情を見せた彼女にどきりとしたが、動揺を悟られまいと平然を装い聞き返す。
「さっき、私も地下のあの店で食事をしていたの。たまたま進路の話が聞こえてきたら、母親のために嘘をついてご機嫌取っているあなたがいた。自分の将来のことなのに、ちゃんと考えていないでしょう」
「そんなことない。ちゃんと考えて選んでる。公立の高校を選んで何が悪いの?」
「それじゃあ、なぜ絵画が好きなことを母親に話さないの?」
 痛いところをつかれた。「自宅から通いやすい高校に進学し、働く母を支えるため部活に入らず夕食を作る」と言えば、家庭状況を知る大抵の人からは「良い子だね」とか「親孝行だね」だと褒められるのに。ラ・トゥールの話をついしてしまったばかりに、心の奥に隠していた「好きなもの」を自ら他人に暴いてしまった。中学に入学すると同時に両親が離婚してからは、父を連想させる絵画、美術、芸術の類の話題は母を刺激してしまうため、口にしないよう細心の注意を払っていたはずだった。しかし、絵画の話ができる少女と出会えたことにすっかり浮かれてしまっていた。
「……そんなの、あなたには関係ない。私が何を好きでも、それができるか、できないかは、それぞれの家庭で違うの」
「そうやって決めつけるのもどうかと思うわ。絵画が好きなことが、まるで『罪』みたい。母親のために好きなことを我慢するの? もっとたくさんの作品を見て、本物に触れてみたいと思わない? 日本の美術館だけじゃなく、海外の美術館に行ってみたいと思わない? 例えば、パリのルーヴルとか」

(つづく)

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