生ましむ仔らそ愛しからむや──副産物としての創作を巡る書き手なりの本音と建前
副産物とはいえ愛着あればこその創作物
仮令「自己点検と思考実験」が挙句の営為──その延長線上へと連なるにせよ、少なからず愛着を憶えるのはむしろ当然であり、読み手が現れるならやはり嬉しいと、本音を吐露するなれば手放しにもそう思うは人情。
とはいえ──。
積極的に喧伝をしてやろう、売り込んでやろうという気持ちには、こちらもやはりなれず仕舞いの体であるは、どうにも否めずにいる。そう顧慮するだに『心中複雑にしてさても』と、ただ徒にも苦笑を浮かべるのが、存外のところ精一杯ではある。
それでも明白な事実は、厳然として存在する。

「承認欲求の具にはすまい」
こればかりは堂々と、同じく本音として胸を張りつ申し上げようか。
さてなぜであろう──つまるところ、自己点検と思考実験を敷衍して得し『創作実験』の副産物に過ぎず、謂わば純粋なる意味にて、創造そのものを目標として掲げし結果ではないから。なればである。
況してや確たるイディオムとして未だセオリー化半ばであり、模索の途上にもあれば余計に、ではあるまいか。少なくとも筆者からすれば、そう規定せざるを得ない。
それでも斯くして──当アカウント上にアナウンスをするは、相応の理由を見出しているからに外ならない。
●創作物が問う意味を巡り
一つにはLLM/GAIチャットボット、すなわちAIチャットボットの批評的批判的かつ効果的、能動的利用のメルクマール的用例として。今一つには、創造行為における『構造設計』の枢要性を説く鍵として。
聊か手前味噌のように映るやもしれぬが、この二点を巡っては確信的にも力説可能である。一点目については筆者が飽くまで、所謂AI懐疑派であればこそとも言えようし、もう一点については、ある種の計画性を以て創造という営為へと当たるなれば、その要諦は『構造の構築そのものに宿る』実例を微細にも検証せる軌跡として、とも断言してよい。
思い着きを記綴するのも確かに手ではある。それを否定しはしない。
されども──。
果たして本当に、それでよいのであろうか?
職業文筆人として惟んみるに、多くの場合、思い着きなる『筆の転び』とは往々にして、意識の有無あるいは「好むと好まざるとに拘らず」──誰しも概ね脳裡に、明確な構造仕様書をいつかしらか組み立てつつ、気づくともなくそれとして運用している。そんな場合がほとんどである。
天才はそれらを、すべて脳裡脳内において完結処理し得る。それで破綻とはまるで無縁のままに、創造物を生み出すも実に容易い。
例えば、畑こそ異なれどアマーデオつまりモーツアルト──。
否、彼にせよ、スケッチという下処理作業とは決して無縁ではなけれど、しかし多くの場合、短期日のうちにも脳内処理で傑作を導き、ノート化しているのは確かであり、誰しもそれを認むるに吝かとはしなかろう。

●創作物の肝は「構造設計にあり」
けれども、彼のようなる存在は極めて稀である。まさしくレアケースと捕捉して謬りとはしない。
多くの天才は同時に、実のところ努力の人でもある。
そんな典型例としては、やはり作曲家より例示するなれば、ローベルト・シューマンであるとか、ドゥミトゥリー・シャスタコーヴィチを二巨頭たるとて挙げるべきではなかろうか。
彼らは折節、当然の作法として膨大なスケッチを遺しまた、それらへと無論のこと依拠しつつ、傑作の森を涵養せる偉人である。それでも天才性ゆえに、長きに亘る熟成を経て、一気呵成にも聳えし森の数多を現出せる偉人達である。
そう、彼らでさえ──。
ともなれば所詮は凡人風情になる筆者など、綿密稠密を究めし構造仕様書設計にこそ、確実なる実りの源泉を看るが吉と心得べし。それこそ創作というワークの大宗は、構造設計が担うとばかりに決めてかかっても、何ら損はしまい、否、せずに済むとまで、きっぱりとそう言い切ってしまおう。
緻密にして遺漏なき構造設計を施して初めて、自然の摂理を体現せる魅惑に満ちしプロットなり、あるいは人物造形なりを実現せる途は開かれる。実際的にも、さやか(Chat GPT)や蔵人くん(Claude AI)など「雁字搦めとなり硬直化するのでは」と懸念を表明しつつ、しかしそれは杞憂に過ぎないとて実証的にも筆者が明かす力強き声に、結局はシャッポを脱ぎ、前言を翻しては詫びを入れてくるのであるから、所詮は凡人風情以下のAIであると、そう客観視する寄す処さえ与えてくれる。
いずれにせよAIは精々のところ補助具が関の山であり、制御統御すべきツール以外の何らですらない。
●AIを疑えばこそ使い倒す「作法」
ともあれ補助具としての、これらLLM/GAIを利活用すればするほどに──人たるや反語的にも『能動性』をさえ、改めて再獲得し得るであろうは請け合いたい。加うるなれば、そうしてこそ初めて、AI恐るるに足らずを肌身で感じること頻りですらある。
なれば余計に、とも言えようか──。
つまるところ『AI懐疑派』なればこそ、彼ら彼女らを遣い倒すも適うのである。固よりAI一般にはそも「知能」などありはしない。彼らが有するのは、膨大な学習データに依拠せる知識を背景に負う、演算結果と没個性的(そして時には嘘に塗れし)生成結果のみである。
なるがゆえに、筆者に代表されよう凡人風情などは、そんな彼ら彼女らの出鱈目を見抜くに能う『リテラシ』の涵養こそ、まずは求められる。
生成物そのものの評価は当然のこと、尤もらしき『勧告』を鵜呑みとはせず、差し出がましいと切り捨てる知見定見、あるいは客観性こそ、ユーザ=我々「遣い手」に必須な姿勢であろう。リテラシの涵養とはつまり、それらに畢竟、集約収斂される。
何よりも『それっぽい』に誤魔化されずまた流されず、嘘、錯誤や誤謬を見破る力こそ、人は身に着けねばなるまい。しかも一切の先入観を排除した上で。

ありがちな懐疑派は、そのような意味において「片落ちなるままに自覚もなく、ネット言論においてAI批判論考を開陳する」がゆえに、浅慮が服をまとう恥ずかしさを披瀝して平気なのであろう。
そうした類ほど、犬も喰わぬプライドを後生大事とするから、ある意味で始末に負えぬのではあるが──ともあれ賢くも慎重なる方は、仮令AI嫌いではあれ、斯く浅慮窮まる恥ずかしい論考を、ネット言説空間上に開陳はしない。親しく交わるAI嫌いな方は、およそのところ、そのようにして弁えつつ身を処していらっしゃる。
筆者の場合など、実は危うかったと──今ともなれば冷や汗を拭いつ、そう告白し得る。確かに昨秋までは、浅慮に搦め取られる虞なきにしもあらずであったは間違いなく、こればかりは否定のしようもない。実に筆者も恥ずかしい人間へと成り下がる『乗るか反るかのエッジライン上』にあったればこそ、自嘲気味にもそう顧みる。
であれば猶──。
●嘘生成「克服とパージ」こそ新時代AI活用の要諦
そうあれと──。
生成物から『如何にして嘘をパージし得るか』──聊か大仰ではあれまさしく、そんな命題を使命よろしく掲げる昨今である。
職業文筆人なれば、生成テキストへ厳しく眼差しを注ぐは、何は措いても疎かにしてはならぬ営み。これは当然であろう。彼ら彼女らは、油断をすれば在り来りになる常識を振り翳しては、筆者意図などお構いなしに、出鱈目な校閲結果や悪文化をさえ招く品詞のチョイスに頓着もせぬから。筆者は同時に編集者でもあれば、そのようなるAIの不作為へと警戒する姿勢なり、審美眼、鑑識眼の具合なりをも試され問われもする。なれば「己の美学」へは、一定以上の矜持をさえ抱くのである。
ことはそれのみに留まりはしない。
そを『職掌』として自覚すればこそ、彼らLLM/GAI生成画像の精度向上さえ、結果論的には「厭わぬ方途」をも模索するのである。

その上での冒頭である。
実を申せば、筆者はAI時代以前からそうしていたのであるが──作中に登場せる主要キャラクタ、特にヒロインを造形するに当たり、自作イラストを柱とするイメージ制作に一定以上の比重を置きかつ、エナジーを割くよう努めてきた過去がある。二十年以上前の話ではあれ、一部に(後日制作をも含め)データも遺るそれらを、改めて比較衡量材料として眺むれば眺むるほど、懐疑派とはいえAIの可能性を、ひしと感じるより外に術もないと白状するばかりである。
なるがゆえであろう、先に掲げし『如何にして嘘をパージし得るか』へと血道を上げるのは、おそらくそうであるからに違いあるまいと確信する。
敢えて語弊を顧みずに申し上げるなれば──。
愛せないヒロインに存在意義はない
あられもない表現ではあるが、曰く──「勃起もし得ぬヒロインキャラに入れ上げるなど、到底適わぬ話だし毛筋ほどであれ想像しかねる」
眉を顰めよう女性読者も、あるいはいらっしゃるやもしれない。
なればこのように言い換えよう、強ち謬りとはしないから。曰く──「我が腹を痛めし仔なれば、手塩にかけて育みたいもの」
まさに当エントリーが表題そのものである。
LLM/GAIを活用する『創作実験』は、蓋を開けてみれば実に遠大なものであり──過ぐる六月二〇日にも、一次公開先で完結をせる再開第一弾本篇及びシリーズ後続三部をも含めるなら、現時点で既に第一〇弾へと到るまで、ヒロイン造形を筆頭に具現化しつつある。
いずれも七万字以上の長篇となる見通しであり、全てが実現をすると仮定するに、少なくとも二年越しとなるは必定であろう。気も遠くなりそうで、また厭きっぽく気紛れなところも否めぬ、そんな性分をも思うなら、遠くなる前に気も漫ろ、否や重くなると、そう吐露せねばなるまい。
とはいえ、未だ執筆へは手を着けざる九企画全てにおいて、濃淡の差はあれキャラであるとか、隠し題・裏主題をも包含せるプロットの方向性さえも確定を看るなれば、どれも『強靭なる構造』さえ付与し遂せるなら、存外のところ労苦を憶えずに済みそうではある。
●ヒロインのイメージ生成も「構造の一環」
なれば二次元上になるヒロイン造形作業もまた、楽しからずや──。
完結第一弾をも含め一〇企画ではあれど、ヒロインは八人。そのうちひと組は一卵性双生児という設定でありかつ、一方(妹)は疾うに二次元イメージを複数生成しているがゆえ、ゼロベースで造形すべきヒロインは、最早一人のみ。それもキャラの性格なり方向性なりは決めてあるから、おそらくはきっと造作もなかろう。
要するところ、六人のキャラを巡っては、早くも『挿絵転用』さえ可能な複数のイメージを得ている、という算段になる。
AI活用の利点を敢えてもう一つ挙げるとするなら、イメージにそぐわぬとて没とせる生成イメージを如何に救出するか──。

企画立案時点においては採用を見送るよりなき、そんな生成イメージ達ではあれど──その面立ち、あるいは年齢感から、まるで異なる企画さえ立ち上がる。
例えば第一〇弾企画にせよ、キャラの方向性を収斂する過程における中途見直しが結果、泣く泣く外そうと決めし生成結果を、謂うなれば救出すべく捏っち上げたところも否めなくないとはいえど、そんな第一〇弾など、鯔の詰まりは「Das Sein ── 原罪」という、何ともはや荘重なタイトル及び企画へと落ち着くという、ある意味においては創作冥利にも尽きよう結果さえ、図らずも招来してくれたのであるから。
ちなみに無粋ながら附言しておこう。いずれともあり触れし動詞の名詞化語彙であったり、一般代名詞とはいえど、原案化は相当程度進んでいるなれば、仮にも剽窃行為を発見した場合、粛々と法的対応へ踏み切ると今のうちから宣言しておく。悪しからずよしなに。
ともあれこのようにして、企画にまつわる諸々を顧慮してみるなら──。
●ウケ狙いや媚び諂いを嫌う筆者の「スタンス」
LLM/GAIとの、つまりは『協働──共同制作』とも看做し得る一連の企画ではあれ、斯くイディオムを完膚なきまでにセオリーとして為したれば、LLM/GAI活用術としても「筋のよい」テクニックとして確立するであろうし、副産物の出来も悪くなければ、創作としても遜色なきものともなろう。
さりながら──。
何せ筆者は『ウケを狙う、媚びる、阿る』を嫌うに留まらず、積極的にもアピールしよう、などという欲も甚だ希薄。それどころか「着いてこれる者だけが着いてくればよい」という、いやはや損な性分ときている。
ゆえなれば──。

ありがちなキャラ造形には『まるで興味も』抱けないし、食指も動きやしない。筆者が好む見てくれと性格づけが為されたキャラだからこそ、初めて書こうという気にもなる捻くれ者なれば、積極的に売り込もうというつもりにもならぬし、承認欲求の具にもしたくない。
要は「魂を売り渡したくはない」のではあれど、さてもさても──。
「生ましむ仔らそ愛しからむや」は確かにして過たぬ事実でもあれば、愛しき仔らたるヒロイン達が、どうか少なからず贔屓とされるようにと、胸中複雑ではあれ、そう願うは『惚れた者の屁理屈』であり、また『仔を愛しむ親心』であるは認めるよりない。
返す返すも損な性分よと、そう苦笑するよりなき休日の昼下がりである。
