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【短編小説】深夜の草大福は魂を救う。――母性の償却

#創作大賞2026 #エンタメ原作部門

【あらすじ】


深夜1時25分。

ミズキは生後6か月の息子から逃れるべく、雨の国道へと車を走らせる。

かつて社会の荒波をハックしてきた自負は、今や「名前のない数時間」に支配され、歴史を失った「母親」という記号に飲み込まれていた。

無理解な夫の「漂白された善意」に吐き気を覚え、孤独なドライブの果てに辿り着いたのは、深夜のコンビニだった。

そこで貪り食う、二つの草大福。

白い粉にまみれ、沁みる甘さと、平安の昔から女たちが噛み締めてきた滋養が、「母性」の鎖を戦士の武器へと反転させる。

「バカ野郎」

夫へのメッセージを打ち込んだ彼女が選んだ道とは——。

これは、聖域化された母性を償却し、泥まみれの生命体として再起動する女性の、葛藤と再生の記録である。

【※注意】この物語は、著者の精神を削り出し、一つの実存として産み落とされたものです。剽窃、および生成AIへの学習利用は、理由を問わず固くお断りいたします。すべての権利は著者に帰属します。

――ルイーザ・ジューン・ボルコット
(画像は全てNano Banana 2で作成しています)


【短編小説】深夜の草大福は魂を救う。――母性の償却


車内の深夜ラジオから流れるベートーベンの「月光」が闇にしみ込み、眼球の表面を厚い涙の膜が覆う。

しかし、こぼれ落ちはしない。

運転に集中しながらも、ミズキはナビゲーションの液晶パネルに表示された時刻に目をやった。


1時25分。


家を出て5分。

とうとう、とうとう出てきてしまった。

遁走するミズキを受け入れる場所なんて、どこにあるのだろうか。


口の粘膜が乾燥して前歯が貼りつき、喉がかすれて呼吸が乱れる。

蒸し暑いのに、エアコンの冷気が首周りを通り抜けると、顔と胃のあたりが凍ってしまったような錯覚。

すれ違うトラックのヘッドライトが顔に当たるたびに、ミズキの瞼周りがこわばって小指に力が入り、ハンドルが汗をはじく。

かつて企画書を仕上げるために、栄養ドリンクを求めて真夜中の運転をしていた時とは、まったく種類の異なる興奮が全身を包んでいた。


当てもなく国道を走らせるフロントガラスの上を、せわしなくワイパーが行き来し、視界の雨粒を勢いよく振り払う。

通りの信号が一斉に赤に変わり、その攻撃的なLEDの光線が、ミズキを責め立てる。


「そう!私は悪い母親なの!」


ミズキは、額をハンドルに付けて顔を伏せ、誰もいない車内に叩き割るような叫び声がこだまする。

脳の大部分が、怒りと不安と心配と罪悪感によって、キャベツのように隙間なく包まれる。

しかし、罪悪感の一部は、自分のどこかが感じている解放感に対して、だ。

子ども、家族、そして6か月前に連続性を失った私自身の歴史。

オートモードの不規則なワイパーのゴムの音が、鎖のようにまとわりつく。

その隙間を縫って、雨粒が時折ランダムに方向を急旋回させながらも、結局は重力に従ってガラスの枠で融合する。


このまま私がいなくなったら。


このまま私が事故に遭ったら。


ライトによってシルエットだけが見える街路樹の枝は、無数にあるはずの人生の選択のようだ。それぞれの葉をつけ、それぞれに枯れていく。

ラジオが軽快なトーンのCMへ切り替わり、今朝、夫が出張のために準備していたカバンに、鼻歌交じりで読みかけの小説を何冊か入れていた光景がフラッシュバックする。

たぶん今頃、ミズキからのメッセージも未読のまま、ストレスも感じずホテルのベッドで熟睡していることだろう。




20分前、ミズキは「もう、ムリ」と夫に送信した。

スマホの画面の光沢に、パリッとしていて触り心地の良い、ホテルのシーツを想起した。

片方だけ乳房を露わにした情けない格好で生後6か月のカイトとパズルのように横たわり、数日洗っていないシーツは、ミズキとカイトの涙で湿り気を帯びていた。

最初の夜泣きから、今日は既に4時間近くが経過していた。


ほんの1カ月前までは、それでもカイトは自力で移動をしなかったので、泣いていても面倒を見るまでの心と時間の余裕があった。

しかし、ずり這いから、ハイハイらしきものを習得してからは、泣くと同時にミズキを探してドアの前まで来てしまう。

カイトが寝返りをし、自らの意思で移動し始めた時には、泣き笑いしながら数えきれない程の画像と動画をスマホに収めたが、宵の始まりと共にそれが大きな次の試練と知らされたのである。

どんな事をしていてもミズキは、その行動を中断せざるを得なかった。

特に、ここ2週間は夫の帰宅も遅く、満足にシャワーすら浴びられていなかった。

そして結局、毎日何もできぬままカイトの横で、寝ているわけでも、起きているわけでもない、「名前のない数時間」を過ごさなければならない。


ようやっとカイトが寝息を立てると、ミリ単位で乳頭を外し、スローモーション映像のように起き上がる。そしてコソ泥のようにドアを開け、リビングに移動する。

右手に握ったスマホの画面を覗く。未読だった。


ミズキは、これまでにも何度も自家用車を、心を落ち着かせる空間として使ってきた。

なのに、この日は下駄箱の上のカギ置き場から、キーを持ってきてしまった。ラフな部屋着のまま、何も考えられず、気づけばエンジンをかけて走り出していた。


「大丈夫、何とかなるよ」という夫の口癖。

子どもができるまでは、ミズキはそんな「おまじない」に心を救われていたこともあった。

しかし、最近ではその言葉を聞くたび、夫は現実逃避しているだけだと腹を立てていた。

それでも、こんな極限状態では「いつものおまじない」を聞いて安心したかったのかもしれない。




信号が、一斉に冷たい青色に表情を変え、雨に滲む。ミズキは弱々しくアクセルを踏んだ。

車はゆっくりと加速し、回転数を上げるエンジンの音が、鼓動のざわめきを隠してくれる。

近所の見慣れた風景が、すべて深夜の虚ろな佇まいでミズキを取り囲んでいた。

かつて栄養ドリンクを飲みながら、意気揚々と運転していた面影はどこにもない。

こんなことを思うこと自体が不謹慎だということはわかっている。

でも、正直言って、妊娠期間が最も時間がゆっくり流れて満ち足りていた。カイトが生まれたその時だって、涙やら鼻水やらで、赤い顔を濡らしていたけれど、写真のミズキは本当の笑顔だったはずだ。

いや、一瞬ものすごく腹を立てた。見舞いに来た義母が、

「男の子で良かったわね~」

と無邪気にカイトを抱き上げた時だ。


妊婦健診の超音波検査でも、しばらくはっきり陰茎が見えず、主治医には、女の子かもね、なんて言われていた。夫を介して、そのことを伝えられた義母は、わざわざミズキに電話してきた。

「ミズキさん、私はね、女の子でも別に良いと思うのよ。長男って言ったって、ウチはそんな大層な家柄でもないしねぇ。私は、ほら、3人とも息子だったでしょう?女の子も珍しいからね」

結局、何を言いたいのかよくわからない電話だったが、次の健診で男の子と判明した時には、

「でかしたわ~、ミズキさん!」

なんてはしゃいでいた。その時の、まんざらでもない夫の表情が忘れられない。

三従の教えの善し悪しは、ミズキにとってはどうでもよかった。

ただ、何のリスクも負っていない人間たちが、偉そうにしているのが許せなかったのだ。

「ミズキさんなら、カイトも我が家の孫として、完璧に育てられるわよねぇ。楽しみだわ」

ここ最近、義母がミズキたちの家に遊びに来ては、発するセリフだ。

ミズキは、抜け毛と乾燥肌でやつれた顔面の筋肉を最大限酷使して、作り笑顔で応対するしかなかった。

そして、義母は事あるごとに、誇るようにして自分の息子を褒め称えた。

息子を持つ母親として、ミズキはその気持ちをわからないではなかったが、もしカイトに奥さんができたら、決してそうはしまい、と誓うのだった。




1時29分。

後ろの車のハイビームが反射して眼に突き刺さり、ミズキはルームミラーの角度をずらした。

後部座席のベビーシートがミラーに映りこみ、繋ぐ相手を失って無気力に緩んだベルトの留め具がひんやりと光った。

ミズキの右腕を、カイトの吐き戻しで汚れたベビーシートを何度も掃除した時の、冷たい感触が通り過ぎる。


病院を出て実家に戻った彼女を最初に襲ったのは、乳腺炎だった。

カイトが吸啜するリズムと、自分の身体の歩みが、合わない。

うっ滞した母乳が、さらにカイトを遠ざけた。

重く破裂しそうな芯から、痛みが地響きのように拡がって精神を支配する。ミズキはうなだれながら、保冷剤を当ててソファに座っていた。

その向こうで、夫が楽しそうにオムツを代えている。

都合の良いときだけの触れあいでも、カイトの笑顔は嬉しそうに見えた。それを見て真に受けている夫の姿は、ミズキの知らない誰かのようだった。

そして、この燃えるような乳房の熱さにも触れないその指をスマホの画面にスライドさせ、

「なんか油物が良くないらしいよ」

などと、検索上位のそれらしい内容を専門家のように高説する夫。

「これからは、和食を中心に作るといいんじゃないかな。俺も我慢するからさ」

柔らかくなった保冷剤の表面の結露が、ミズキの汗と混ざり合って腹部を滴り落ちる。

助産師による母乳指導を受け、ネットの口コミを見て必死に探した搾乳機が届いた時も、夫は、

「随分大げさな機械だね。いくらしたの?」

と、説明書を眺めながら言っていた。


薄暗い寝室で、グン、グン、という搾乳機の無機質で控えめな電動音が胸の中に共鳴し、ミズキの顔の、穴という穴から液体が流出した。




1時31分。

雨足が少し穏やかになり、ワイパーの動きが緩慢になる。

ミズキは、夫を「穏やかで、優しい人」と思って選んだはずだった。

結婚してから、ちょっとズレた所が、さらに明らかになったものの、それなりに会社では活躍しているらしかったから、「家では自然体でいるのだ」ということで納得していた。


数年後に、ようやく妊娠が判明して喜んだのも束の間、つわりがミズキを疲弊させた。


自分が自分でなくなった感覚。空腹なのに、食べたくない。


ファストフード店のフライドポテトと、レモン味の炭酸水。色々調べて試してみたが、この2つ以外は、敢えて口に入れようとは思わなかった。会社では、カリカリ梅をデスクに忍ばせ、休憩の度に炭酸水で凌いだ。

そんな時も、夫はコンビニで豆腐やら、ヨーグルトなんかを買ってきてはテーブルに並べる。ヨーグルトに至っては、味が選べるだろうと、フレーバーの入ったものを4種類も買ってきた。

「つわりには、ヨーグルトが良いって、職場の女の子が言ってたよ。それにね、助産師さんのまとめページ見たら、カルシウムも豊富で、一石二鳥らしいよ」

そう言って夫は、そっと背中に手を当てた。

「とにかく栄養摂って、元気な赤ちゃん産まなくちゃ」

温かいはずの手の圧迫に、わずかな嘔気が催される。今までも、こんな感触だったのだろうか。

それでもミズキは、これも夫の優しさと言い聞かせながら舌に乗せてみる。

しかし、大豆独特のタンパク質の存在感や、胃液に手招きする乳清の鋭い刺激が、口腔内で化学的な香りとなって、喉の奥の粘膜がそれを頑なに拒否した。

ミズキは夫に気づかれぬよう、残渣を下水道に消し去るのだった。これが近世以前であれば、夫は切腹ものだ、と夫の背中を睨みつけて自分を鎮めた。

つわりが落ち着くと、次第にお腹が張るようになってくる。

太鼓の皮のように薄くなった皮膚が悲鳴を上げて、それでも内側から全方向に引き延ばしてくる。

ズッシリと骨盤を拡げて骨格を変化させ、両足の裏の圧迫感を感じる頃には、「私、お母さんになるんだな」と、変形した臍の周囲を撫でながら胎児との一体感を自覚していた。


夫は、一緒にいる時には荷物を率先して持ち、お腹も気遣ってくれた。

食器を洗っている最中にカイトが大泣きして、寝かしつけたままミズキも寝落ちしてしまった時も、風呂から出てきた夫が残りの食器を洗ってくれたりもした。

「洗い物、残っていたから。やっておいたよ」

子どもが生まれる前には、それほど気にならなかった夫の一言。

カチャカチャと、耳の奥に突き刺さる音とともに、ミズキの自尊心を抉る。

「無理な時は、いつでも言ってね」

役割を終えた夫は、満足そうにしてソファに深く座り、スマホで動画を見ていた。

洗ってくれた食器には、わずかな汚れが残っている。それを見て、ミズキは怒る気力もなく、夫は、この汚れが見えない世界に生きているのだと、つい思ってしまうのだ。

「私って、こんなに性格悪かったっけ」

ミズキは、いつのまにか狭くなっている自分の器量の変化も十分自覚していたし、何とか元の自分に戻りたいと願っていた。

しかし、抗うことのできない肉体の変化が生み出す、精神への呪いを解くことは不可能だった。


一方で、夫は子育てのために「自分のテリトリー」を崩すことには積極的ではなかった。

友人や同僚との飲み会を断ることもなかったし、週末の釣りのペースも、若干頻度が減った程度だ。

そして真顔で、

「自分の時間も大切だよ。ミズキも好きな事して、楽しんで育児するといいよ」

という夫。それも正論のような気がして、何も言い返せなかった。

「先は長いんだし、もっと、手を抜きなよ」

とも、夫は言った。

どこを、どう手抜きできるのだろうか?

今のミズキは、鳴かぬなら自分で鳴くしかない、人質のようなものなのに。




1時35分。

ミズキは、車内の重い空気に耐えられなくなり、運転席の窓を少しだけ開けた。

そのとたん、窓枠から雨粒が垂れて座席シートに落下し、慌ててミズキは窓を閉め直した。

アスファルトの継ぎ目がタイヤを弾く。その衝撃は臀部から頭部へ伝わり、まだ少し緩みの残っている腹部の皮膚を震わせ、ミズキは思わず左手で臍の下あたりを押さえた。


夫のズレが、ミズキの育児生活に与える苦悩については、妊娠中からその予兆はあった。

産休に入ったある日、ミズキは夫と出産の準備のための買い物に出かけた。

ずっしりと地面に向かって押し付けられる膝周りと足裏に耐えながら、チェックリストの用品を揃え、半ば朦朧として帰路についた。

そんな中、助手席にいたミズキは、くしゃみをした拍子に、ジュワッと失禁をしてしまった。

大した量ではないし、妊娠中にはよくあること。いつもはパッドを当てているが、忙しい時には付け忘れてしまうこともある。

「ごめん、ちょっとだけ、出ちゃった。拭くね」

当事者以外にはわからないかもしれないが、気づいたら、出てしまっているのだ。

ミズキの悪気のない謝罪に、夫は車を止め、慌てた様子で運転席を降りて助手席まで回り込んだ。

「ちょっと!ちゃんと準備してって言ってるじゃん!早く降りて!」

夫は、ティッシュペーパーを何枚か手早く抜き取るとミズキに手渡し、そのまま車の後ろに姿を消してしまった。

リアゲートが開き、室内清掃グッズを入れたバケツを右手に持ってきた夫の表情は険しく、歩道に降りたミズキとは目を合わせず、上半身は助手席の空間へ消えていった。

妊娠前には、トイレに行く間も惜しんで仕事をしていた。そして、制御された生理現象を遂行するわずかな「間」までも、ミズキにとっては次の戦いへの備えだった。

ミズキは、水分を含んだティッシュペーパーを両手で隠すようにして包み、夫から目線を外して疲れ果てた足元を見る。

不格好なシューズから覗く着圧ソックスの安っぽい布地の白が、不自然に浮き上がる。かつて覆っていた質感の良いストッキングの光沢は、皮膚が忘却していた。

自分の見えている世界さえ調和的であることを願う夫が、シート用洗剤を含んだタオルで必死に座席を擦る様子を、ミズキは下半身の熱が外気に奪われながら見守ることしかできなかった。

夫の後ろ姿は、不都合な肉体のバグを受け入れてはいないようだった。

「ごめんね」

とだけ言って、ミズキはタオルを当てたシートに乗った。

無言の夫の横で、冷たさとぬるさが混在する布地の感触を肌に記憶させながら、夫の行動の意味をこれ以上考えないようにした。

この屈辱は、有史以前から妊婦の困りごとだったはずだ。しかし、歴史上の記録にも殆ど登場しない。

妊婦は、ただ産めばいい、ずっと我慢しろということなのか。文明は、本当に進化しているのだろうか。




1時39分。

フロントガラスに当たる雨粒が小さくまばらになり、ミズキの意識は少し薄くなっていた。

慢性的な眠気が神経細胞を包んでいたから、目線がどこかに定まると、次の瞬間には思考の凧が糸を切って舞い上がってしまう。


産後1ヶ月経って、実家での生活を切り上げて自宅に戻ると、夫はすっかり独身時代のような生活リズムを我が物にしていた。

仕事に触るからと、寝室は別々になり、数時間おきに繰り返される天然のアラームへの対応はミズキの孤高な戦いとなった。

薄明るいカーテン越しの光は、ミズキの時間間隔を狂わせ、曜日さえ分からなくなる。

横で眠るカイトの高い体温だけが、ミズキの正気を保たせていた。


乳腺炎が落ち着いた後も、授乳がうまくいっていたとはお世辞にも言えなかった。

お出かけの時も、静かな吸啜の音と穏やかな赤ん坊の声だけが支配する授乳スペースの空気を、カイトがミズキの乳頭を拒否する叫び声が切り裂くのだ。

しかしミズキは、繰り返しカイトとの接続を試みた。

そして、取り替えても、取り替えても、ひたすらに湿気を帯びるオムツの温度を感じるたびに、自分自身の栄養が、カイトの中で確実に循環していることに安堵していた。

「ああ、この子は一生懸命に生きている」


そのような状態の中、ミズキは買い物を忘れてしまい、朝起きると冷凍保存した食パンしかない日があった。

泣き叫ぶカイトを抱っこ紐で抱え、トースターに固く冷たいパンをセットし、冷蔵庫の中をもう一度覗き込む。

おつまみ用のチーズが奥の方にあるのが見えた。今日はこれでいいだろう。

カイトのおむつを替え終わると同時に、トースターが急かすように鳴る。

荒武者のようなひとつ縛りをバサバサ揺らしながら、ミズキはキッチンへ小走りしてトースターの扉を開ける。

香ばしい熱気が顔を照り付けて、ほんのわずか意識が楽園を覗き込むが、カイトのぐずり泣きに背中を掴まれて現実に戻る。トングで少し焦げすぎた食パンを皿に移し、テーブルへ乗せた。


そこへ寝室からパジャマのままやってきた夫が、まだ寝足りないという表情でテーブルを見て言った。


「今日、これだけ?」


さすがのミズキも、瞬間的に反応する。

「これだけって、どういう意味?」

責める口調で口走ったことに後悔する。


「いや、ちょっと思っただけ。無理しなくていいんだよ」


夫の表情が、何だか自分を憐れんでいるように見えた。無理しなくていい?何を?

無理しているつもりはない。しかし、古くなったパソコンのように、動くのが精一杯だった。なぜ、自分でも要領よくやれないのかわからない。

「育児は、みんな初めての事だからね。仕事みたいに上手くいかなくて当たり前だよ」

客観的には優しい慰めに違いない夫の言葉を、素直に受け取る余裕も失っていた。

「私の育児は、上手くいっていないということか」

ミズキは、食パンをちぎって口に頬張り、キッチンに駆け込んだ。カリカリの食パンの表面を緩ませた顔を、夫には見せたくなかった。

ミズキの綿密なプロンプト通りに、生理反応が動くわけではない。

ひとつの身体から分かれた二つの生命のぶつかり合いの前では、仕事で培ってきたノウハウや精神力など、新入社員の企画書レベルのものでしかなかったのだ。




1時44分。

眠気がさらに強まっていたミズキは、すれ違うヘッドライトに意識を引き戻しながら、両肩を挙げて顔をフロントガラスに近づけるようにして深呼吸した。

罪悪感と解放感が波のように行ったり来たりして、太古と変らないこの闇夜との境界線をなくして溶けていき、恐怖が積もっていく。

ミズキは、暗がりにオレンジの蛍光看板を見つけると、オアシスだと言わんばかりに背筋を伸ばし、左ウインカーを点灯させた。


給油機の前で停車して運転席から脱出するとガソリンの臭いが吸気に混ざり、軽いめまいを覚える。

非常口を示す緑のランプだけが室内を照らす無人の店内。

天井のライトには、先走って成虫になった何かの甲虫が、体をぶつけていた。

無機質なタッチパネルとは対極にある、カイトの柔らかい感触の記憶が脳から指先へ再生される。

独り泣いているかもしれない息子の姿を振り払うように、赤いノズルを力任せに引き寄せ、給油口へ入れる。ゴツリという鈍い金属の感触が右手を震わせた。

ガソリンがホースを疾走する波動を感じながら、ミズキは給油メーターの数字が目まぐるしく増えていくのを見つめ、ちょっとだけ映画の主人公になったような錯覚に陥った。


こんな時間に給油している人が、自分以外にもいるのだ。

真夜中のガソリンスタンドは、中世の修道院の寄宿舎のようだ。本来出会わないはずの人々が、それぞれの人生を背負って、奇跡的に交差する。

映画だったら、きっとここで新しい出会いがあって、新しい生活が始まったりするのだろう。

しかし現実には、誰もミズキに気を留めている様子もなく、自分は交差路からも疎外されている存在なのだと再び思い知る。

自販機で飲み物を買っているトラックドライバーには家族はいるのだろうか。

わざわざ2人で車外に出て、仲良く給油するカップルは、もしかすると付き合いたてなのだろうか。


ミズキは、物凄く寒い日に、夫と2人で星を見に行った事を思い出していた。

そんな普通の生活の延長線上に、今のミズキがいるはずだった。

男性の体に肩を寄せて微笑みかける女性は、選ばなかった時間軸のミズキだったかもしれない。その世界では、まだ社会は自分を必要としたのだろうか。

車の白い塗装に反射する天井のライトが、会議室のホワイトボードを呼び起こす。


会社では、何度もプロジェクトを任され、満足いく結果を残してきたミズキは、社会から必要とされている自負があった。

大学で学んだ歴史学は、直接仕事に生かすものではなかったが、人類の系譜に名を遺した成功や失敗の記憶は、ミズキが人々との関係をハックするのに十分役立った。

戦国時代の英傑たちのように、熟考し、溶け込み、時には大胆に攻める。しかし信義も忘れない。

タブレット端末を放り投げ、終電までホワイトボードを囲んでいた日々。

肉体的な疲れはあったけれど、ホワイトボードに反射する光源が心地よくミズキの生命を栽培していた。


ある大きなプロジェクトを終えた時には、個別に上司に呼ばれた。その理由の想像はついた。

「今のポジションで、この規模の案件を無事成功させたのは、私が知る限り少数ですが、たぶん女性ではミズキさんが初めてだと思います」

上司は、ゆっくりと、しかし誇らしげにそう言った。女性が活躍することは、上司としても加点になるのだろう。

「ご指導の賜物です」

ミズキも、通り一遍の謙遜をしたが、自分はまだまだ登れる、むしろ風は加速している、と感じていた。もはや乾坤一擲の閾値を越えたのではとすら思っていた。

しかし、社会が必要としていたのは「ミズキ」という個ではなかった。

妊娠を上司に報告したとき、

「おめでとう」

と、笑顔だったものの、

「申し送りは、きちんとね」

と、言った後に、彼が軽い溜息を吐いたのをミズキは聞き逃さなかった。


チームの同僚、自分を評価してくれていたはずの先輩、一生懸命に面倒を見てきたはずの後輩。

主君を失い彷徨う浪人になったような錯覚は、きっと自意識過剰なんだと言い聞かせた。




満タンに給油したミズキは、ノズルをホルダーに戻し、レシートを受け取った。

先客が残した、タイヤの濡れた跡が屋根のないエリアまで一方通行で続いているのを見つめ、ミズキは深く息を吐いた。

脳を圧迫するようなガソリンの匂いがさらに肺へ流れ込み、体に浸食するようだった。


ミズキの会社には、産休・育休でご迷惑をかけたということで、職場に菓子折りを持っていく謎の習慣があった。

全くもって意味不明であるが、「和を尊ぶ」暗黙のルールに反抗する者はなく、ミズキも産後4ヶ月で職場へ行った。

しかし、そこで浪人となったミズキが見たのは、無関心の連鎖だった。

仲の良かった同期こそ笑顔で会いに来てくれたが、迷惑そうに時折パソコンのモニターの隙間から覗く上司と目が合った。

チームのメンバーは、本当に一瞬挨拶して、皆戻っていった。私もこうだったのだろうか、とミズキは愕然としてうつむく。

視界の隅に、自分の座席が映り込む。

生活感を失ったデスクの上には、本社から表彰された時のクリスタルの小さなオブジェが埃をかぶって、ざらついた質感だけを残していた。

ミズキが、自分の全てを捧げていたプロジェクトも、何の問題もなく完了した事実だけを上司から伝えられた。

「まあ、会社の事は気にしないで。ゆっくり育児に専念して下さい」

ミズキの能力を特別視している、と思っていた上司は、マウスを操る右手の動きを止めずにミズキの胸元あたりに目をやって、口元の筋肉だけ笑顔を作ってそう言った。

社会が準備した「男女平等」のための、ありがたい制度。

ワックスで磨かれたフロアに反射する光は、ミズキをあざ笑うように、無機質にそして美しく輝いていた。




ミズキは、ガソリンのレシートを右手で丸めてポケットにしまうと、運転席のドアを開いた。

噴きこぼれて揮発したガソリンが髪の毛にまとわりつき、運転席の空間までを塗り替える。

ルームミラーの位置を直す際に、無造作に地肌から飛び出す髪の毛が見えた。これまで、虚飾の世界に生きていたのかもしれない。

ふと起こる頭皮の痒みが、右手の指先に髪を絡みつかせ、何本かが指の間に残った。脂っぽい臭いが指先から漂う。

抜け落ちたこの髪は自分自身だ、とミズキは思った。指先には、髪を抜いた自覚も、悪意もなかった。


あるプロジェクトの途中、ミズキが管理するメンバーの一人、ナナカという女性が妊娠した。ナナカは、ミズキが特に信頼して育てた後輩であり、重要な業務を任せていた。

「おめでとう、ナナカちゃん。仕事の事は心配しないで、元気な赤ちゃん産んでね」

表面上は、笑顔で優しく言ったつもりのミズキであったが、心の内が眼の周りの筋肉に表れていたのかもしれない。

ナナカは「本当にご迷惑をおかけして、すいません」と、申し訳なさそうにして去っていった。


「このタイミングで妊娠?少し考えれば、今じゃないってわかるよね?」


ミズキはあのとき本気で、そう思っていたのだ。

でも、今となってはわかる。昭和の時代には「家族計画」なんて言葉があったが、妊娠・出産は計画的になんて行かない。

もちろん思い通りになっている人も大勢いるが、予想外に妊娠したり、強く望んでいても長く授からない事だってある。

そもそも人間の場合、チャンスは、年に12回しかないのだ。それも、確実なチャンスではない。年中発情期のおめでたいオスたちの存在を考慮しても、思い通りに行くはずがない。

長い歴史の中で、いつ生まれても、集合体を維持する貴重な命として迎えられる社会的なイベントだったはずの出産は、いつの間にか「個人の都合」に矮小化されたのだと、ミズキは思った。

産む時期をコントロールするという考えが、現代人の傲慢なのか。

ナナカは今頃どうしているだろうか。次のステージのクエストに、必死に取り組んでいるに違いない。




シートベルトを締めてエンジンをスタートすると、送風口から一瞬生暖かい空気が漏れ、カイトの寝息がよぎる。

しかし、直ちに冷気へと変化した気体が一度に吹き込んで、車内はあっという間に温度を下げた。

液晶パネルは、1時51分を示していた。


さあ、どこへでも行ける。片隅には常にカイトの温度を抱きしめながらも、ミズキは恐る恐るハンドルを握る。

給油機から少し移動した所で、結婚式で使った曲がラジオからミズキを奇襲して頭を揺さぶり、アクセルに乗せた右足を思わず床へ戻した。

ミズキは、洗車スペースの横まで車を移動すると、バッグからスマホを取り出して連絡先一覧を開いた。

所どころ指先の皮膚の亀裂から覗く赤い湿潤が、スマホの光に照らされる。

履歴リストをスクロールさせると、母親の名前の所で指を止めた。

実家から自宅へ戻ってから、母親には何度かSOSを出していた。

車で2時間の距離だったので、時間を見つけては母親も手伝いに来てくれた。しかし、少しでも愚痴をこぼそうものなら、決まってこう言うのだ。

「子どもじゃないんだから、いつまでも甘えちゃだめよ」

「もう、お母さんなんだから、しっかりしなさい」

「私たちの頃に比べたら、ずっと便利な世の中なのに」

「夫婦の問題は、どちらか一方が悪いってことはないのよ」

「やさしくて、良いダンナさんじゃない」

「お母さんはね、子どもと家庭のために、じっと我慢しなきゃいけない時もあるのよ」


親世代の育児。夫は仕事で家庭を顧みず、情報も今ほど豊富でなかった時代だ。母親の言う事には、一理あるのかもしれない。

しかし、ミズキが欲しかったのは、この行き場のない圧力釜のような感情を経験したであろう、先輩としての「母親の言葉」だった。

こうなってしまう前に、2日前だって電話をしたのだ。ミズキは、職場や社会から忘れ去られようとしている危機を母親に訴えた。

「でもね、ミズキ。仕事や他のことには、替えはいるけど、カイトのお母さんは、あなたしかいないのよ」

電話から聞こえる母親の声は、ゆっくり諭すようだった。そんな事はわかっている。だからこそ、脳が溶けてしまいそうになるんじゃないか。


ミズキが幼い頃、母親は着の身着のままで、妹たちの世話に必死になっていた。眉の周りの筋肉がいつも盛り上がり、その間には深い縦のシワが見えていた。

そして、一日何回もため息をついていた。

「お母さんだって、お父さんと喧嘩して、一度家出したじゃない」

ミズキはそう言いかけて、まるでそんな事などなかったかのような母親の振る舞いに、今は無駄に消費できるエネルギーもない、と諦めた。

みんな良い思い出に塗りつぶされて、忘れてしまったとでもいうのだろうか。

それとも、乗り越えた末の苦労の忘却までもが、育児のパッケージとして人類の遺伝子に刻み込まれているのか。

あの、生暖かい母親の吐息は、逃避は、次世代に絶望を伝播させないための、生物としての儀式だったのだろうか。


人類に普遍的なはずの営みは、「誰もが乗り越えてきた」という事実をミズキに繰り返し突き刺す。

名もなき大勢の母親たちが、それぞれの試練を超えて現在の世界が紡がれていることに、ミズキは改めて身震いするのだった。


ガソリンの刺激が時折鼻をつく中、ミズキは、連絡先をさらにスライドさせた。所々に顔を出す、友人たちの名前。

ミズキは、結婚してからも、仲の良かった高校時代の友人たちが集まるランチ会に参加していた。

ずっと同じ目線で、同じ話題を楽しんできたグループ。仕事や恋の悩みなど、共有して盛り上がることもあった。

しかし、出産をきっかけに、次第に出席しなくなった友人もいた。

その時には「子供がいるから、出てきにくいのかな」なんて軽く考えていたが、そうではなかった。

育児はあまりに個別的すぎて、住む世界の異なる人々に共感してもらえるような代物ではないのだ。

「子どもを置いて、何度も家を出ていきたくなるよね~」なんて、誰に言えるのか。

ミズキも、一度だけの参加では終始笑顔に徹して過ごし、しばらく欠席しようと決めたのだった。




1時56分。

ミズキは、電話リストを閉じた。

SNSのアプリに、未読のアイコンが「ここにいますよ」とアピールしている。

こういう悩みは、かえって赤の他人にぶつけるのが良いとも言われる。

しかし、画面を開くたびに現れる、写真館のような子供との一コマ、育児の成功体験、お役立ちハック。

次々とタイムラインから飛び出しては、ミズキを殴り続ける。

先輩ママさんが、皆、神のように見える。

「イライラしない育児術!」

「疲れるママさん必見!時短のコツ!」

「子どもから学んで、親も成長!」

たまに、共鳴できる記事を見つけ、すがるように読み進めると現れる商品紹介。

最後はいつも、自分だけが出来損ないの無価値なものなのだと、ページを閉じるのだ。


ミズキは目を閉じてため息をつき、スマホをバックに入れた。

エンジンがアイドリングストップから静かに復帰し、エアコンの風量が強くなる。

送風口に取り付けて古くなったフレグランスが、最後でシトラスの香りを絞り出していた。


ミズキの車は、国道のまばらな流れへと再び合流する。

雨上がりのアスファルトをタイヤがなぞっていく音が車内に伝わる。それを覆い消すように、ミズキはラジオの音量を上げた。

もう、クラシック音楽のコーナーは終わって、男性パーソナリティの陽気なトークが流れていた。音は受信していたが、内容は耳で止まっていた。


交差点に差し掛かった所で、ラジオの音を上書きするようにして近づくサイレンの音に気付いた。

耳を覆いたくなるようなシとソの音階が徐々に近づくと、乳腺が共鳴しツーンと乳頭に鋭い痛覚として現れた。

ランプと白い車体が目の前を横切ってミズキの顔面を赤く染めると、拍動が首元、そしてこめかみあたりまで拡がっていった。


今まで片隅に追いやられていたカイトとの記憶が、水を吸ったスポンジのように膨らみ始める。


この世のものと思えない、絶妙な弾力の頬。

泣いたときのカイロのような温もり。

乳製品のような衣服の匂いと、頭頂部と顎下の溝から発する酸っぱい匂い。


これが抗えない生命の営みなのか。


ミズキは、見えない鉄条網に血まみれの両手でしがみついていた。


動悸が治まらないミズキは、道路脇にコンビニを見つけると、縋るように車を停めて明るい店内へと駆け込んだ。

「イラッシャイマセ」と、慣れない口調で店員が笑顔で迎え入れる。この青年は、見知らぬ土地でひとり、深夜のコンビニでなぜ笑顔でいられるのだろう?

汚れたスニーカーが床のアイボリーに足跡を残し、ミズキは、店舗の奥までふらつくようにして進んだ。


冷蔵庫の前まで行くと、上からゆっくりと棚を睨みつけ、そして扉を開けてプライベートブランドの緑茶に手を伸ばした。

右の手のひらに、ペットボトルの凍るような冷気がしみ込む。ミズキは身震いすると緑茶を元の棚に戻し、冷蔵庫を閉めてトイレへと駆け込んだ。

ヒーターの生暖かい便座に座り、ミズキは目をつむる。擬音装置に完全に存在感を消され、力なく水面に落下し続ける。

「私って、こんなに弱々しかったっけ?」

プライベートな個室の中でさえも、自信に溢れていた身体の記憶が、遠い過去のようだ。

ミズキは何だか可笑しくなってしまった。そして、腹部の内容量が減ると、無性に何か口に入れたくなった。

身支度をして立ち上がると、足どりが軽い。出産直後に、足の裏の圧迫感が減ったのを思い出した。

入念に手を洗った後、再び冷蔵庫から緑茶をつかみ取り、店内の棚を物色する。


「よし、これにしよう」


ミズキは、棚に2つだけ残っていた草大福を見つけると、両方とも手に取った。

「乳腺を詰まらせる」と、甘いものは夫にずっと止められていた。

「426エンデス。フクロハヒツヨウデスカ」

真夜中に草大福なんて、どんな客と思われているのだろうか。店員はマニュアル通りの対応をしつつも、笑顔を崩さない。

「アリガトウゴザイマシタ~」

店員は、最後まで笑顔だった。


運転席に戻ってフィルムをはがすと、白い粉が衣服にこぼれた。

ミズキは、一口、かじりついた。


甘い。


草のニオイが鼻孔を充満し、こし餡のほのかな香りが後を追いかける。

甘さが胃にしみわたり、全身の血潮が入れ替えられているようだ。

これは、まさに人類が生きることを諦めないための発明だ。

そして、かつて草大福には母子草が練り込まれていたというのは、偶然ではないだろう。

平安の世から女性たちは、この粘り強い草を噛みしめ、時に理不尽な生命の循環を自らに取り込んできたのだ。


かじる。

噛む。

口中に甘さが拡がると、喉から食道を通過する柔らかな感触が、ミズキの全ての感覚を開く。

ミズキは、小学校で行われた体験学習の田植えの風景を思い出していた。最初は冷たくて、じんわりと温くて滑らかな足裏の感触。クラスメイトと大笑いした泥だらけの顔。髪の毛を通り過ぎる生命の呼気。

ミズキは、1袋目の空袋をごみ箱に入れると、勢い良く2袋目を開け、1個目よりもさらに豪快に喰らいついていった。

座席にパラパラと粉が落ちたが、ミズキは、それを払いもしないで飲み込み続けた。

喉を圧迫する滋養が、ミズキの身体の芯まで染めていく。


餡だけの人生には、もう戻ることはできない。

6か月前までの自分は、もう死んだ。

そしてカイトと一緒に、もう一度生まれ、共に育っていくのだ。

まっさらな大地に人生を築いていくカイトと、古代の人々が紡いだように、過去という瓦礫の上に絶妙に建築しなくてはいけないミズキ。

地層は交わることがないが、地表はつながっている。

地表で、甘さに縋りながらも、泥まみれになりながらまみえて生きていくしかないのだ。


慣れない手つきで、商品棚を整理する店員の後ろ姿を、ガラス越しに見つめる。入社したての頃の筋肉の緊張と、発散しても底を見せなかった熱がフラッシュバックする。

店内のLEDの眩しさは、同じ白色でも、オフィスのそれとは明らかに違った色合いだ。


口の周りを粉だらけにしながら、ミズキは口の粘膜に貼り付いた大福を喉の奥に吸い込んでいく。

ミズキは顔じゅうの筋肉を総動員させながら、スマホをバッグから取り出した。画面を開くと、夫とのメッセージアプリを立ち上げた。


「バカ野郎」


ゆっくり、4文字だけを打った。

送信ボタンのアイコン越しに、斜め上にズレた夫の、その場だけやり過ごすためだけの謝罪が透けて見えた。

ミズキは、そのまま送信ボタンを押さずに、画面に浮かぶ夫の無責任な笑顔を塗りつぶすように迷いなく電源ボタンを長押しした。

ミズキが求めていることは、教えでも、施しでも、正解の提示でも、寄り添いですらない。

今ここに、私がいるというその事実を、ありのままに受け止めること。

光が消えた黒い画面に映る、髪が乱れた粉まみれの自分と目が合う。


「ブサイクだな、私」


画面の中のミズキが吹き出して笑う。眼鏡のレンズの下縁が、一瞬曇る。

それは職場で活躍していた頃の輝きとはまた違った、戦地から帰還した戦士の気高さだ。

ミズキは、スマホをバッグに放り投げ、両手でしっかりとハンドルを握った。

エンジンをスタートさせ、液晶パネルに明るさが灯る。




2時37分。

小気味良い車の振動が足裏をくすぐる。

「大丈夫、私なら、何とかなる。家康のように、最後に笑うのは私だ」

漏らしても、ブサイクでも、生き延びて絶対に平穏を手に入れる。

ハンドルのわずかな弾力を感じながら、手のひらが密着し、自分自身の体温がこだまする。

家に向けてアクセルを踏み込む筋肉は、迷いなく、そして逞しく膨らんでいく。

乳房の内側からの張りは、カイトを求めている。


「待ってて。カイト」


雲間が拡がり覗く月の光が、歴史の観察者の視線のように冷たく、しかし真っ直ぐにミズキの瞳を射抜いていた。

(完)