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母の愛は左手にも宿る

私の数ある幼い頃の夢は
「歌って踊れる看護師さんになりたい」
「新聞記者になりたい」
「競馬を育てたい」などあるが、
「母のような綺麗な字を書けるようになりたい」は上位にランクインしていた。

私含めて3人兄妹は5歳から、必ず習い事で野球と習字を習う家庭であった。

私には2人兄がいて、兄2人とも字がべらぼうに上手かった。1番上のにーちゃん「たかしくん」は、それはそれは習字の先生ができるほど上手い。
今は北海道で数Aの教師だが、黒板に書く数字がどれくらい綺麗なのか今でもたまに気になるくらい字が上手い。
たかしくんは、冬休みの書道の宿題で1年生から毎年クラス代表で選ばれていた。選ばれると神戸の街中にある高いビルの上あたりの階で、学生の書展のようなものが開かれて、市内の選ばれた作品がズラリと飾られるのだ。真ん中のにーちゃん「つう」もほぼ毎年選ばれていた。
たかしくんは五年生、六年生、そして中学生になっても、何度か特別な賞をもらっていた。
そして飾られる中、特別イベントのような感じで、その特別な賞をもらった何人かが、みんなの前で書道を披露するのだ。スラスラと、そして堂々と書くたかしくんがめちゃくちゃかっこよく、そしてめちゃくちゃ上手かったことを覚えている。

私もみんなの前で書きたい!文字らしいけど、全然読めないうにょうにょした蛇みたいな文字(草書体)を書きたい!

そう感じたものの、私が書道を習わされた理由は
"左利き"だったからだ。


日本語は右利き用に出来ている。
例えば「ひ」なんて平仮名は左で書いてみてほしい。右利きずるいな!と感じるほど、右利き用に出来ている平仮名である。贔屓だ!ひ いき。

その上、国語のノートの縦書き以外、左手の小指から手首にかけてノートを写すと真っ黒になる。
インクの出やすい、書きやすいボールペン(特にSARASAなんかで書いてみろ)なんて自殺行為だ。
まー左手の小指下の部位が邪魔をして滲んで見えたもんじゃないぜ。

そんな私でも、1.2年生の鉛筆で書く冬休みの書道の宿題までは良かった。二年連続鉛筆で書展に選ばれて、「左利きでも勝てるんやぞー」なんて呑気に思っていたが、小学三年生になると、宿題の提出が筆に変わってしまって小学五年生以外選ばれることはなかった。小筆はなんとか左で誤魔化しつつ書けるものの、大筆は右で書かないと文字の構造上、流れるように書けない。

イヤイヤ右手で書く。ひたすら右手で書く。筆を持ちたくないと嫌がる右手に「仕方ない、お前は右投げ右打ちだろ。できるはずさ」と伝えながら書いていた。

その間も兄たちは先生の見本と変わらない字で書きつつ、自分の色を出していった。
たかしくんは見本と全く変わらないが、少しだけ丸く、しなやかな文字を。
つうはカクカクしているが、見本より文字の丸が小さく、でも伸び伸びと跳ねる。
私はひたすら震える右手を、書きたくないと暴れる右手をなだめながら、兄に追いつきたいと思う反面、文鎮のように重い"煩わしさ"を感じていた。

冬休みに選ばれる兄たちが羨ましくて仕方なかった。

左利きがまだ「恥ずかしい」と言われていた最後の方の世代なので、「なんで左利きがダメなのですか」と年長の時、習字の先生に聞いたところ、先生はハッキリとした理由を答えられなかった。
「左利きがあかんことやないんや!」と思った私は、「右利きに直してほしい」と頼んだ母の想いを無視して、大筆でなければ左で書くことをやめなかった自分の責任も大いにあると分かっている。

たかしくんは中3まで、
つうは小6まで習字をやりきった。

小学五年生の時、思い出せないが、どうしても上手にかけない字にぶち当たった。何度もやり直す中、
「なんでお兄ちゃんたちは上手なのに…」
という先生のため息混じりの言葉を機に、(しまった!みたいな表情が尚悲しかった)毎週木曜日の書道の時間が、文字を書くことが、嫌で嫌で仕方なくなってしまった。

運動は得意だったこともあり、以前から気になっていたジャズダンスを習いたいと、母に志願し、習字をやめた。

先生に、「辞める」と伝えた。せいせいした。
書道の先生にはめちゃくちゃ引き留めてきたが、頑張ったのに兄たちのような字には追いつけないと分かってしまった時から自分を誤魔化し続けてきたので、先生の言葉は悲しかったが、辞めるキッカケにもなったのは事実だ。
「良かった、良かったんだ」と言い聞かせて5才から続けた6年間、右手で日本語と向き合う時間を消した。

習字を辞めて、代わりに習い始めたジャズダンスはとっても楽しかった。バレエが基本で、動きの準備運動含めて楽しかった。
自分の立ち位置も、幼い頃から始めていなかったのでセンターの子たちに追いつくにも追いつけないと分かっていたからか、誰と競うことなく、誰になりたいと思うこともなく、ただ、ただ、リズムに合わせて踊る時間を楽しんだ。

中学に上がったタイミングでジャズダンスを辞めて陸上競技長距離種目にのめり込んだ。
走るのが元々速かったこともあり、練習すればするだけ自分に返ってくる「走る」という単純なスポーツが苦しいけど、結果が出る=報われることが嬉しかった。

書道のことを思い出すタイミングは冬休みの宿題の時だけ。
自宅で書く。右手をイヤイヤ走らせて書く。
嫌ほど書道の道具はあったので、久々に取り出し、墨を入れて、筆を慣らす。半紙に文字の大きさをエアーで当てはめていき、書き出す。
懐かしいような、少し泣きそうになるような、変な感覚だった。
「適当でいい」と思うものの、納得いくまで書いてしまう。"たかが宿題"に時間を費やす冬休みだったが、一度も選ばれることはもちろんなかった。

それ以外は書道のことなんて一ミリも思い出さないほど朝練、午後練、土日は試合、記録会と忙しない日々だった。

全国で10位以内のタイムで走れるようになった頃、走る度にベストタイムが出る最中の中学二年生春先、大怪我をした。
左大腿骨がポッキンと折れたのだ。
バイク事故でも折れるか折れないかの太い骨。
レース中の転倒で折れた。
全治一年、陸上競技復帰は難しい。
神様は本当に意地悪なやつだ、と思ったのは後にも先にもこの時しかない。

意地悪なやつだからこそ、見返してやりたい。

5時間半の手術から全治までの一年間は、「人生で1番頑張った」とい言っても過言ではないほど、リハビリ、陸上競技復帰に全力を注いだ。

その時感じた想いは文字として、書き残した。
その想いを作文にして、読書感想文や、色んな課題の作文コンクールに自身の経験を当てはめて提出したら数々の賞に選ばれたのだ。

何度目かの賞の作文を見た母が、何の前置きなく、ポツンと言ってきた。

「あれ?この作文美波の?
私が書いたかと思った」

と言われた瞬間、私の中で衝撃が走ったのだ。
左利きの私が右利きの母の字に似てるってことやんな?
と整理する。

「似てるってこと?!?」

と聞き返していた。

「えー遺伝子怖いくらい似てるやーん。」

と、私の幼い頃から考えていた上位に値する夢のことなんてこれっぽっちも考えていない母の発言だからこそ信憑性がある。

丸字が流行っている時代だったが、流行りに乗りながらも母のような美しい字になりたいと思って友人への手紙は丸字。
勉強やノートの書き写しは綺麗に、と書き分けていた。
作文を書くようになってたくさん字を書く機会が増えたことで母の字に自然に寄せにいっていたのか、それとも遺伝子的なもので似たのかは分からないが、足が治ったかのような嬉しさだったことを今でも鮮明に覚えている。

左が私   右が母


今や私はあの頃の母の年齢に近付いている。

最近、娘に「習字を習いたい」と言われた。
今スイミングを習っていて、そのうちサッカーもすることになるだろう。(サッカーは年長の頃から娘に言われているが、夫(サッカー指導者)の兼ね合いでお預け状態なのである)
習い事はマイルールとして二つ。それ以上は友人と遊ぶ時間を大切にしてほしいので、させたくないのが本音だ。(もちろんこれからルールを変えるかもしれない)ただ、一応理由を聞いておこうと思い、
「なんでなん?」と聞くと


「あーた(私)みたいな字を書きたい」と言った。


胸が熱くなった。

娘よ、あーたの字は ばぁばの字やねんで。

と言いたい気持ちを抑えて、
「スイミングと選びな」とだけ伝えた。
25mは泳ぎたいからスイミングを続けると言った娘に拍手👏
目標を持つことが上達の一歩である。

代わりに私が書道を習うか迷っている。

あの瞬間、逃げ出した「日本語と向き合う」ことや、
あの瞬間、母の字のようになれた喜びを再度思い出せたキッカケをくれた娘に感謝して、日本語の美しさを書道で噛み締めたい。

習う際は嫌がる右手と向き合いたいと思う。
私を支えてくれた母や、この想いを文字にして残そうと思えたキッカケをくれた娘のように、しっかり左手を添えて。


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