【短編】私の窓 #一枚の写真から文芸賞
両親が砂丘のある町の隅っこの小さな古い一軒家を買ったとき、私は一つの窓をもらった。
部屋の余分はなかったが、二階の廊下の突き当りの小さな窓を指さして母が「あの窓はアキ子のものにしていいわ」と得意げに言ったとき、私は嬉しくて目がくらむようだった。
それは小学四年生の私には、ちょうど腕を掛けて外をのぞくのに良い高さの窓だった。西向きの木枠の窓の向こうにはお隣の家の大きな桜の木があり、葉がしげっていて遠くまでは見えない。
窓の前の小さなスペースも使ってよい、と母は言って、元のアパートから持ってきた汚れた白いカラーボックスを置いてくれた。私にはそれで十分だった。私はその中に少ない持ち物を入れた。
一番下にランドセル、真ん中に教科書、一番上に洋服や下着。カラーボックスの上には、転校する前に先生にもらった、外国の、海の見えるきれいな街の絵葉書を置いた。
夜になってその窓を覗くと外は真っ暗でおかっぱ頭の自分が映る。
廊下の天井にぶら下がった、小さくてあまり明るくない星型の明かりも映る。そんなガラス窓を開けると、暗い夜空の彼方から、砂丘の向こうで砕ける波の音が響いてくる。どーん。どーん。
そんなことも嬉しくてたまらなかった。
窓ガラスには幾つかのシールが貼られていた。少し剝げた、昔のシール。剥がそうとして剝がれなかった、という感じで角がぼろぼろしている。でも私はそのシールたちも気に入った。
白いクジラのシール。顔が書いてある満月のシール。四角い砂漠の街の写真シール。小さな女の子の写った昔のプリクラ。赤い自転車のシール。
私は自分の筆箱から一枚のシールを取り出し、すき間に貼った。ふわふわ可愛い子猫のシール。
前のアパートの裏に子猫がいたことがあった。茶トラのとても小さな猫が、草むらでみぃみぃと鳴いていたがすぐにどこかに消えてしまった。あんな子猫が飼えたらどんなに良いだろう。私はずっとその猫のことを考えていた。その猫と似たシールを百円ショップで見つけてすぐに買った。
隣の大きな桜のある家もとても古い。腰を曲げた白い髪の小さなおばあさんが一人で住んでいる。桜の木以外に竹やぶに囲まれているので、おばあさんはよく庭に出て落葉を片付けている。
桜の木の下には白い花の咲く植物が広がっている。
あれはドクダミというとても臭い植物なのだと母が顔をしかめながら教えてくれた。おばあさんはしゃがんで、その臭い草を採っているときがある。たぶん洗って干して魔法の薬にするのだ。縁側に吊るして干してあるのが見える。
ある日、道からそっとその干された草をのぞいたら、縁側に子猫が寝ていた。一瞬、アパートの裏にいた子猫かと思った。よく似ていた。でももっとふっくらとして幸せそうに丸くなって寝ていた。
私はその夜、気がついた。
私が窓に貼った子猫のシールが無くなっていた。
台風が来た夜にはクジラのシールが行ってしまった。窓に打ち付ける雨を眺めていて、開けてはいけなかったのにどうしてもちょっと開けずにいられなかったのだ。
ひらり、と白いものが、すき間から滑り出て、強風に舞い上がっていった。白いからよく見えた。
慌てて窓を閉めた。カラーボックスの上が濡れてしまい、私はスカートのポケットからハンカチを出して拭き、舞い落ちた絵葉書を拾った。
そしてシールのクジラがいなくなっているのに気付いた。好きだったのに。私は窓を開けた自分の落ち度を心の中で責めた。
そんな私を満月のシールがなぐさめてくれた。
「アキ子ちゃんは悪くないわ。アキ子ちゃんのこと、私は大好きよ」
秋の夕ぐれには葉が落ちた桜の枝の隙き間から真っ赤な空が見えた。
ガラスに貼られた女の子が赤い自転車に乗って赤い空に走り出した。
「アキ子ちゃんもいらっしゃいよ!」
私は首を振った。
「じゃあさようなら!」
女の子は夕焼け空へと赤い自転車をこいでいく。下は砂漠の街だ。
行かないで、という声を飲み込んで、私も行きたい、という声も飲み込んでその光景を見ていると、胸に小石がたくさん詰まったように苦しくなった。急いで一階に降りて誰もいない台所で水を飲んだ。
ごくごくと二杯飲むと、やっと苦しさが治った。
その後、その家を出るまで、私は月のシールになぐさめられて過ごした。月からは遠い美しい町の話をたくさん聞いた。
今、私は新しい家に住んでいる。
なだらかな丘の上の、外国の景色のような街並みが見える広い窓のある家だ。大人になり、働き、結婚し、好きな場所に好きな家を建てたのだ。
両親と住んだあの古い家はもうない。両親ももういない。
隣のおばあさんの家もない。おばあさんも、もういない。
私は私の窓から月のシールを丁寧に剥がして持ってきた。皺になったその月を私は新しい家の西の窓に貼ったがすぐに落ちてしまった。
(了)
本文1,972 文字
*花澤薫さんの「一枚の写真から文芸賞」に応募します。
花澤さん、よろしくお願いいたします。
