【エッセイ】”先生”という存在
昔は”先生”が好きだった。私はいつも”良い子”にしていたので先生にも良くしてもらえた(気がしていた)。
小学校の頃は、きまりを守る口うるさい学級委員として、”悪いこと”をする男子を先生に言いつけた。
生徒同士の諍いが多い中学の頃は、先生に贔屓されていると他の女子に陰口を言われたりした。服装も髪型も行いも、絶対に先生に怒られないように過ごしていた。
先生から将来は先生になるといいと何度か勧められた。絶対になりたくないと思っていた。何気ない一言が生徒に一生影響を与えてしまうような恐ろしい職業には付けないとずっと思っていた。自分は先生からの、良い言葉も悪い言葉も記憶に残っていないのに。
そんな自分の過去が嫌でたまらなくなったのは、遅くてはずかしいけれど結婚後かもしれない。夫は自由きままな人だ。良い子の逆なタイプできまりなんて気にせず、先生とも平気で敵対してきた話を聞いていると、何も考えずただ良い子にしていた自分はバカみたいだと思った。
私はただ母親から「きまりを守るように」言い聞かされたことを守っていただけだった。その”きまり”について考えてみたこともなかった。あの頃は無意味な規則も多かったと思う。たとえば前髪は眉にかかってはいけないし男子はみんな坊主頭だった。
時々、母親から何か人生について教わったことはあるだろうかと考えてみるが、その「きまりを守る」以外に思い浮かばない。きまりを守る呪いにかかっていた、と思った。
子育て中には逆に、我が子を分かってくれない”先生”への不信感が高まり、”先生”が嫌いになった。
今は子育ても終わり、もう学校の先生と接することもない。好きでも嫌いでもない。ただnoteを始めて、note仲間で教師をしている人の記事を読んだりしていると、以前とは違ったフラットな気持ちでの好感が持てるようになった。
そんな今の私の”先生”といえば、俳句の先生だけだ。学生時代の恩師の俳句結社にずっと所属している。細々細々、俳句を続けてきた。
句会で「先生~」と話しかけると、今だに微かに自分のどこかが学生気分なのを感じる。それは大学を卒業してから過ごした少ししんどい役割をどこかに脱ぎ捨てて、静かで小さな地味な女子大での空気に戻るような甘さがある。
そして「先生に褒められるような良い俳句を作りたいな~」と思うとき、また昔の”良い子”の自分に戻っているかもしれない。
でもそれはそれでもう構わない。そんな自分のことはもう嫌いとは思わなくなれた。少しずつ、昔の嫌いな自分を奥から引っ張り出して、洗って、お日様に干して、ふかふかにしているから。だからもう大丈夫だ。
