題名のわからない本を買った話
古本屋で本を買った。美しいラピスラズリ色の表紙に惹かれて買っただけで何が書かれているかなんてまるで興味を持たずに買ってしまった。おかしいな。本っていつもは読みたくて買うのに私はなぜ今日に限ってそんなことをしてしまったのだろう?題名も作者も値段も見ずにレジへ持って行ってしまった。
そしてそれは千円札と引き換えに「ミモザ古書店」のミモザ印の消しゴムハンコが押されたいつもの茶色の紙袋に入れられて手渡された。もし今ばったり友達に会って「なんていう本を買ったの?」と聞かれたら私は真っ赤になって口ごもるだろう。「え!題名もわからない本を買ったの?」と、答えられない私は軽蔑されてしまうだろう…
そんな想像をしながら誰にも会いませんようにと祈りながら、私はそれでも本を買った嬉しさに少しはずむ足取りで帰り道を歩いていた。
だんだん楽しくなって用もないのに公園の中を横切った。
「あのう」
声を掛けられた。私はドキッとして立ち止まった。しまった。
「その本を…」
しまった。やっぱり本のことだ。
私はうつむいて相手をみないように目も閉じて抱えた茶色の袋をぎゅっと胸に押し付ける。紙袋にくちゃっとしわが寄る。
どうしよう。駆けだしてしまおうか。逃げてしまおうか。
あれ?どうして逃げるの?あれ?
私は急に落ち着いて顔を上げて相手を見た。
相手は鳩人間だった。
つまり頭が鳩で首から下は人間という、よく絵本の挿絵にあるような姿の人(?)が私の前に立って声を掛けてきたのだった。
人間の部分の服装は、グレーの男性のスーツ姿だった。私がまた目線を下にやると、きちんとした黒い革靴も履いていた。
でも再び顔を上げるともう顔も鳩ではなかった。見間違いだったのだ。変なことを考えてびくびくして歩いていたせいだ。
私はとびきり澄ました顔と声で「なんの御用でしょう?」と尋ねてみた。
相手が鳩人間のときも何故か全然平気だったが、今は普通の若い無害っぽいサラリーマンみたいな人だから上品ぶるのだってへっちゃらだ。今日の私は可愛いワンピースを着ているし、髪もきれいに整っているのだから。問題は買った本が何か分からないことだけなのだから。
取り澄ました私に彼はこういった。
「その本を…その本は実は…」
本、と言われて動揺した私の眼に彼はまた鳩人間になっていた。
私はまた本の袋をぎゅっと抱きしめる。
「本がなんなんですかっ」
私はいきなりけんか腰に訊ねる。でも頭のどこかで「あんたのけんか腰なんてちっとも怖くないよ」という友達の声がする。それを振りはらい、相手の鳩な顔を睨みつける。
「実はその本は僕の大切な大切な特別な本なんです。
悪い奴に奪われて古本屋に売られてしまいました。
僕は鳩なので古本屋に入れません。お金もありません。大苦労の末、なんとかここまで身なりを整え、なんとか買い戻しに行こうとしていましたがまだお金がありません。顔もすぐ鳩になってしまいます。
それで毎日、本が売れてしまわないか心配で店の窓から覗き込んでいました。その時あなたがその本を買ったのをみたのです。
あなたがどこか遠くのあなたの家に持って帰ってしまう前に、どうかお譲りいただけないかとお願いするしだいなのです」
私はとても親切で優しいことで有名だ。自分でもそう思う。
鳩がそこまでして本を取り戻そうとしたと聞いて、もうこの本は彼に渡してあげようとすぐに決めた。
「ハイ、どうぞ!」
私は紙袋ごと、彼に本を渡そうとしたけれど、思いとどまって袋から本をとりだした。返す前に題名だけは見てみようと思ったのだ。
出してみるとそもそも題名など書いていなかった。だから題名がわからなかったのだ。ただ、深い夜空のようなラピスラズリ色一面の表紙だった。
「ああ!」
鳩はうめいた。
「良かった、それです、その本です!」
「なんのお話の本なの?」
私は紙袋から出した本を開いてみようかと思ったけれどやめて、そのまま彼に手渡した。だって大切な本なのだから。
「よろしければちょっとそこのベンチへ」
彼がすぐそこのベンチを指すので私はそこへ座った。彼も隣に座った。座ってから自分の膝の上で本をそおっと開いて見せてくれた。
本を開くとそこには彼の世界が詰まっていた。
明けて赤く染まる空、昼の青い空、流れて行く白い雲、優しい風、激しい風、公園いっぱいの桜、鳥たちの声、子供たちの遊ぶ声、お母さんの呼ぶ声、虫の声、遠くを走る車の音、もっと遠くの電車の音、もっともっと遠くを飛ぶヘリコプターの音、木々のざわめき、夏の木漏れ日、昨日の雨の匂い、土の匂い、誰かの喜び、誰かの哀しみ、誰かの歌声、小学校のチャイム、下校の子供たちの吹く縦笛、犬の声、自転車のブレーキ、チリ紙交換の車、お豆腐屋さんのラッパ、風鈴売りの通る音、公園に降りてくる夕暮れ、空にちりばめられた星、夕暮れの三日月…
私の目の前または頭の中に記憶のように、または眼前にあるようにそれらの景色と音と匂いと全てが五感に本から溢れ出た。
ぱたん。
彼が本を閉じて私はほうっと息をつく。
まだ胸の中にいっぱい何かが残っている。
「ありがとう。大切なものを見せてくれて」
やっと声が出たのでお礼を言う。
「こちらこそ。本を僕に、ありがとうございました。お金返せなくてごめんなさい。でもいつかきっと」
私は首を振った。
「お金はいいの。今、千円分以上素敵なものを見たから。
その本ちゃんと読んだから」
そう。読んだような気がした。景色だけでなくて物語があった気がした。詩が書いてあった気がした。
「あ、これを。せめてこれをどうぞ受け取ってください」
鳩が本から零れ落ちたものを見つけて指先でそっとつまんで私に差し出した。
「本にはさんであったタンポポです」
私も指先で受け取る。
「ずっと枯れないです」
私は自分の手にあるタンポポの押し花をじっと見る。
それは少し硬い星のような光をたたえていた。
「ありがとう」
顔を上げると鳩人間はもういなかった。
まぶしい空に飛んで行く鳩が見えた。
私は家に帰ったら詩を書こう、と思った。
(了)
