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文学談義:「作者の気持ちを考えよう」じゃなくなった。じゃあ文学研究って何をしてるの?

大学生の頃、「文学部です」というと、よくこんなことを言われた。

「昔の作品をこねくり回して何になるの?」 「作者に聞けば終わりじゃないの?」

当時はうまく答えられず、悔しい思いをした。
特に理系の人、(これは完全に私怨だけど)元カレなんかに言われたときには非常に腹がった。

大学院・社会人を経て、いろんな経験をして、最近自分なりの答えを見つけられた気がする。
今日はそれについて言葉にしてみようと思う。

「作者の気持ち」だけでは説明できない


「この時の作者の気持ちを考えましょう」

そう言われるとこんな思いが浮かぶ。

そんな作者に聞けば分かることを、わざわざ追求する必要はあるのだろうか。
しかも、作者が聞いたら永遠に正解はわからない、そんな答えの出ないことを追い求めることに意味はあるのか。

このように「作者の意図を追求するのみの学問」と思っている人は、「文学研究」に意義を見出せないのではと思う。

最近、小学校や中学校の国語教育でも、「作者の意図はなんでしょう」ではなくなってきている、と聞いたことがある人も多いようだ。

実際、今の文学研究は、“作者の真意を当てる”ばかりではない。

では今、何を考える学問なのか。
ここで実際の研究を少し紹介したい。


同じ作品でも、“読み方”は時代によって変わる

例えば、カミュの『異邦人』。

あらすじだけを言えば、とてもシンプルな作品だ。

主人公ムルソーは、海辺で「太陽がまぶしかった」という理由でアラブ人を射殺する。 そして裁判で、その動機を問われ続ける。

この作品は長い間、

「不条理の文学」 「近代的自我を持った青年の孤独」

として読まれてきた。

でも近年では、別の視点からも論じられるようになった。

それが、植民地主義やレイシズム(人種差別)の問題。

被害者である“アラブ人”には最後まで名前が与えられない。

つまりこの作品には、当時のフランス植民地主義的な視線が無意識に入り込んでいるのではないか。

そうした読み方が現在では重要視されている。

ここで面白いのは、

「作品そのものは変わっていない」

ということだ。

変わったのは、“私たちの読み方”。

作品というものは、多様な読み方ができる。

時代や立場によって、まるで違う意味を持ち始める。

文学研究は、

「作品が、時代ごとにどう読まれてきたか」

を考えると同時に、

「今を生きる人間が、作品をどう読むのか」

を考える学問であると思う。


『源氏物語』も、読む時代によって姿を変える

これは海外文学だけではない。

例えば『源氏物語』。

日本人なら誰でも名前くらいは知っている作品だと思う。

でも実は、この作品も時代によって全く違う読み方をされてきた。

  • 恋愛小説として読む

  • 政治構造として読む

  • 女性たちの生存戦略として読む

  • 仏教思想から読む

  • ジェンダー論として読む

など、研究の切り口は本当に多様だ。

つまり文学研究は、

「この作品の正解は何か」

を探す学問というより、

「今の私たちは、この作品から何を読み取るのか」

を考える学問に近い。

だから文学研究は、過去を扱っているようで、実はかなり“現在的”な学問でもある。


文学は、「今の私たち」を映す鏡

夏目漱石も、三島由紀夫も、谷崎潤一郎も、 そして『源氏物語』も。

作品自体は過去に書かれたものだけれど、研究は常に「今」行われる。

つまり文学は、

「現代を生きる私たちが、何を問題として見ているか」

を映し出す鏡でもある。

例えば現代では、

  • ジェンダー

  • 植民地主義

  • 階級

  • ケア

  • アイデンティティ

といったテーマが重視される。

だから、昔の作品もそういう視点から読み直される。

逆に言えば、

「どんな読み方が生まれるか」

を見ることで、その時代の人間の思考や価値観も見えてくる。

そういう意味では、文学研究は作品研究であると同時に、

“今の人間の精神構造”を研究している

とも言えるのかもしれない。


じゃあ、作者はもう関係ないの?

ここで誤解してほしくないのは、

「作者なんてどうでもいい」

と言いたいわけではない、ということ。

今でも作者研究は盛んに行われている。

それは単なるゴシップではなく、

「その時代を生きた一人の人間が、何を考え、何を書こうとしたのか」

を探るためでもある。

実際、文学研究にはさまざまな立場がある。

  • 作者を重視する立場

  • 作品を独立して読む立場

  • 読者側を重視する立場

など。

だから、「作品と作者を切り離すべきか」は、一概にどちらが正しいとは言えない。

研究手法による部分が大きい。

個人的には、作品は作品として読むべきだと思っている。

でも、一読者としては、作者の人生を知ることで作品がさらに面白くなることもある。

例えば谷崎潤一郎と佐藤春夫。

谷崎は自身の妻を、弟子だった佐藤春夫に譲ったことで知られている。

この心境を谷崎側から描いたのが『痴人の愛』、佐藤春夫側から描いたのが『田園の憂鬱』と言われている。
複雑な人間関係を知っていると、当時の作品群の読み方も少し変わって見えてくる。

文学って、こういう“人間くささ”も含めて面白い。


「優れた作品」は、答えが一つじゃない

ここまで読むと、

「じゃあ文学研究って何でもありなの?」

と思うかもしれない。

もちろん、そうではない。

作品解釈には、論理の筋道が必要だ。

本文のどこからその解釈が導けるのか。 なぜそう読めるのか。

そこを丁寧に積み上げていく必要がある。

ただ、そのうえで、優れた作品ほど“読み切れなさ”が残る。

だからこそ、何度も論じられ続ける。

例えば宮沢賢治。

童話というと、一見シンプルな作品に思える。

でも実際には、

  • 仏教

  • 科学

  • 宗教

  • 知覚論

  • 自然観

など、本当にさまざまな方向から論じられてきた。

それは作品の中に、“余白”があるからだと思う。

読む人によって、時代によって、違う光を反射する。

だから文学は、何十年経っても読み直され続ける。


「作者の気持ちを考えよう」の、その先へ

結局、文学研究は、

「作者の本当の気持ちを当てるゲーム」

ではない。

作品を通して、

  • 私たちは何を感じるのか

  • なぜそう読むのか

  • 今の社会は何を問題視しているのか

を考える営みなんだと思う。

だから文学研究は、昔の作品を扱っているようで、実はかなり“現在”を見ている。つまり文学研究には、「これが絶対の正解」という終わりがない。

でも私は、その“終わりのなさ”こそが面白いと思っている。

人間の価値観や感受性が変わり続ける限り、文学の読み方も増え続ける。

そう考えると、文学研究の無限性って、人間そのものの無限性みたいだ。

だから私は、本を読むのが好きだし、人の感想を聞くのも好き。

同じ作品を読んでも、まったく違う受け取り方をしていることがある。

「そんな読み方があったんだ」

と、自分の世界が少し広がる瞬間に、今でもすごくわくわくする。


あとがき

過去に研究の端くれにいた身として、少し考えてみました。
文学研究もいろんな手法があるし、学閥や学派(今は昔ほどではないらしいですが)によっても捉え方は異なると思います。

自分自身、今回執筆しながら本を読む意味みたいなものが形にできて、一層読書が楽しいです。

ぜひみなさんの本・文学との向き合い方も聞いてみたいです。

ここまで読んでいただきありがとうございました。

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