見出し画像

チャットルームの君【風まかせ文芸部 / 思い出】

家族が寝静まった夜、そっと机の隅のブラウン管モニターをつける。
電話回線を通すモデムの音が、部屋の静寂を震わせる。ピーヒョロヒョロ……と、あの独特な音。

インターネットに接続すると、家の電話が一時的に使えなくなる。中学生が早く寝るべきなのはわかってはいるが、パソコンを触るのは自然とこの時間になってしまう。

箱庭諸島。Web日記。掲示板。携帯電話を持たせてもらえない子同士で、こっそりオンラインでやりとりをして楽しんだ。

メインの交流は、同じ学校の知っている相手。けれど、チャットなどでは知らない人とたくさん話をした。

たびたび訪れるチャットルームで頻繁に話したのは、「あかつき」というハンドルネームの誰かさん。彼──あかつきさんは自称男子だったので──は、やさしく、大人びた言葉遣いだった。

ルームでは読点代わりに「,(コンマ)」を使っていて、そのちょっとした癖が、彼の存在感を際立たせていた。

 あかつき:そうなんだ, じゃあ意外とご近所かもしれないね
 ツムギ:あなたも、九州の人?
 あかつき:うん, いつか会えたりするかな
 ツムギ:もしかしたらね。でも、その頃にはもう、お互い別の誰かになってるよ
 あかつき:そうかもね・・・

そして相手は、ログの最後にclearと打って画面を真っ白にしてからログアウトする。使っていたチャットでは、相手がメッセージを削除すると、削除された文章の代わりに「~♪」とだけ表示が残る仕様だった。

誰も残さない。誰にも見せない。
それが、彼の癖であり、彼なりの距離の取り方だったのだろう。

画面には、ROM──閲覧者──がひとり。自分だけ残る。それが、最後だった。

* * *

柿本つむぎは、福岡市の小さな事務所で経理をしていた。無機質な数字と伝票に囲まれる日々。ニュースサイトやSNSではリオ五輪の話題や日々の芸能ニュースが流れ、社内ではChatWorkが日常の連絡手段になっていた。

無音のオフィスでは、窓の外から夏の風がかすかに届く。キーボードを打つ指先に、時折あの夜のモデムの音を思い出していた。

ある日、社内ネットワークのルータの入れ替え作業があった。

事務室にやってきたのは、普段は交流のない他部署所属の迫田弘。細身の男性で、言葉少なにケーブルを束ねている。

手袋を外しながら、迫田は言った。

「この型、懐かしいですね。昔、ISDNでよく見ました。」

「えっと、ピーヒョロヒョロ~って鳴るやつですよね。私も昔、使ってました。」

「そうそう。友人のサイトを覗いて、キリバン報告とかしてた時代です。」

ふと笑った迫田の顔に、つむぎの胸が弾むようにざわめく。

冷たいお茶を出しつつ、雑談話に花を咲かせる。同じ部署内では、年の近い相手がおらず当時のことを共有できないため、自然と口数も増えた。

「そういえば僕、中学のころ、ツーショットチャットで学校の先生の名前を実名で出して、話している相手に怒られたことがあります。あの頃はネットのこと何もわかってなかったなあ。」

「まあ、履歴消せばいいか、みたいな時代でしたね。」

「それ以降は、知り合いの影響もあって、チャットツールとかでも余計な履歴は消すように意識してるんですよね。」

つむぎはふと、昔チャットで先生の名前を実名で出していたやり取りのことを思い出した。相手が、頭の薄い先生の名前を出して悪口を言っていたことがあったような、なかったような……。

* * *

後日、ChatWorkの通知が鳴った。迫田から、お礼と確認のダイレクトチャットだった。

 迫田弘:先日はお茶ごちそうさまでした。その後、ネットワークは問題ありませんか。

 柿本つむぎ:ありがとうございます。問題なさそうです。

つむぎは静かに笑った。この日はもう退社直前だったが、少し迷って、次のメッセージを打ちこむ。

 柿本つむぎ:あの, つかぬことをうかがいますが・・・ 昔『ツムギ』というハンドルネームで, チャットをされていませんでしたか?

どきどきしながら回答を待つ。意外にメッセージは早く届いた。

 迫田弘:ああ、なるほど。『あかつき』さんって、柿本さんだったんですね。昔と同じく、コンマ使いなんですね。

つむぎは、画面の向こうで微笑んでいるであろう迫田の顔を想像し、赤くなった。すかさずタイプしてメッセージを返す。

 柿本つむぎ:あの, 私が昔, 男子のふりしてチャットしてたこと, ばらさないでくださいね・・・

* * *

少し間を置いて、そのダイレクトチャットはつむぎによって削除された。

実際は存在しないが、迫田にはその画面に、あの夜に相手がclearをしたときの「~♪」の文字が浮かんでいるように見えた。

もう世界のどこにも、あのチャット部屋はない。
でも、あの夜に見た小さな明かりは、心の奥で今もまだ揺れていた。


※以下の企画に参加させていただきました。


いいなと思ったら応援しよう!

財布野紐ゆるみ 書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。