ラキと満月の記憶
ラキは、夜空に浮かぶ満月を見上げました。
まんまるで、やさしく光る月。
満月を見るたび、ラキの胸はなぜかザワザワして、
同時に、とても懐かしい気持ちになります。
思い出せないのに、確かに「知っている」――
そんな満月の記憶が、心の奥でそっと揺れていました。
そのときです。
遠くの森のほうから、
「オオォーン……」
と、低く澄んだ狼の鳴き声が聞こえてきました。
⸻
昔、昔。
それは、今よりもずっと昔のお話。
この森のいちばん奥深くに、
一人の守り人が住んでいました。
彼は名前を持たず、
ただ狼の守り人と呼ばれていました。
夜のしずく――月の光が大地に落ちて生まれる、
世界でいちばん美しい宝物を、
狼たちと一緒に守る役目を負っていたのです。
森の匂い、夜の静けさ、
狼たちの温かな体温。
それが彼の世界のすべてでした。
けれど、ある日。
風に乗って、森の奥まで流れてきたのです。
パンが焼ける、甘くてやさしい匂いが。
守り人は立ち止まりました。
木々の匂いしか知らなかった彼の胸に、
その香りは、あまりにもあたたかく、
そして少しだけ――残酷でした。
夜、彼は狼の毛並みに顔をうずめながら、
遠くに見える村の明かりを思いました。
笑い声。
鍋の音。
誰かと一緒に食べる、朝ごはん。
「……ぼくも、あの中へ行ってみたいな」
それは、
彼がはじめて口にした「願い」でした。
⸻
やがて彼は、森の聖域の奥底で、
一本の羽ペンを見つけます。
それは、神さまが運命を書き記すのに使ったと
伝えられる、不思議な道具。
白い狼の、いちばん柔らかな胸の毛で作られた筆先。
運命を書き換えるペンでした。
満月が静かに輝く夜。
守り人は、そのペンを手に、
世界の果てに住む「銀河の魔女」を訪ねます。
「お願い。
ぼくを……人間に書き換えて」
魔女は、少しだけ悲しそうに微笑みました。
「いいよ。
でもね、新しい運命を書くには余白がいるんだ。
そのために、
守り人だった頃の記憶も、
狼たちの温もりも、
この森の静けさも――
すべて消えてしまう。
それでも、いいかい?」
守り人は、
そばにいた白い狼を、最後に一度だけ強く抱きしめ、
静かにうなずきました。
「……いいんだ」
⸻
夜空をインクに、
魔女は大きくペンを振るいます。
星がはじけ、
光が走り、
空に文字が浮かび上がりました。
――ラキ。
「それが、新しい君の名前だよ」
白い光があふれ、
守り人の世界は、やさしく閉じていきました。
⸻
ラキは目を覚ましました。
村の広場のベンチで、
うたた寝をしていたようです。
朝の太陽。
パンの焼ける匂い。
子どもたちの笑い声。
「おや、ラキ。
もうすぐ朝ごはんだよ」
優しいおばさんの声。
なぜここにいるのか、
前に何をしていたのか、
ラキには思い出せません。
それでも、
胸の奥は、なぜかとても温かいのでした。
「うん、今行くよ!」
少年ラキは、元気よく走り出します。
その背後。
村を囲む高い山の頂で、
一頭の白い大きな狼が、
いつまでも、静かに彼を見守っていました。
⸻
満月の夜。
ラキはベッドに入り、
無意識に、
狼の背中のようにやわらかな毛布に顔をうずめます。
理由はわからないけれど、
心が落ち着くのです。
それはきっと、
消えてしまったはずの記憶が、
月の光の中で、
そっと息をしているから。
――それが、
ラキの満月の記憶なのです。
**こちらの企画な参加させて頂きました。
