『私の葬式に、私が来た。』3
第三話 私の名前
「神谷さん。」
「今……何歳ですか?」
神谷の表情から笑みが消えた。
ファミレスのざわめきが、急に遠くなったように感じた。
「どうしてそんなことを聞く?」
「これ。」
私はスマホをテーブルに置いた。
八年前の写真。
高校生の私。
その隣には、今とほとんど変わらない神谷がいる。
『この男は、八年前から歳を取っていない。』
神谷は写真を見る。
驚かなかった。
それが何より怖かった。
「誰から来た?」
「知らない番号。」
「見せて。」
「先に答えてください。」
私はスマホを引き寄せた。
「何歳なんですか?」
長い沈黙。
そして。
「二十八。」
私は息を止めた。
「八年前なら二十歳ですよね。」
「ああ。」
「これが二十歳?」
写真の神谷を指差す。
どう見ても二十代後半。
今の神谷と同じ。
髪型も。
輪郭も。
目元も。
「説明してください。」
神谷はしばらく黙っていた。
やがて。
「その写真は本物じゃない。」
「加工?」
「違う。」
「じゃあ何?」
神谷は私を見る。
「日付が違う。」
私は眉をひそめる。
「八年前って書いてあります。」
「書いてあるだけだ。」
「でも私は高校生ですよ。」
制服。
校舎。
間違いなく高校時代の私。
神谷が低い声で言う。
「本当に?」
「……何が?」
「その写真に写ってる女。」
「本当に君か?」
言葉が出なかった。
「私に決まってる。」
「どうして?」
「顔が同じだから。」
言ってから気付く。
それは今、一番信用できない証拠だった。
棺の中にも、
私と同じ顔の女がいる。
神谷はそれ以上何も言わなかった。
私はトイレへ向かった。
鏡を見る。
いつもの私。
佐伯真央。
二十六歳。
会社員。
父。
母。
妹。
高校。
大学。
就職。
記憶はある。
なのに。
どうしてだろう。
自分の顔を見ているだけなのに。
知らない人を見ているような感覚がする。
私は財布を開いた。
運転免許証。
佐伯 真央
生年月日。
住所。
顔写真。
間違いない。
保険証。
クレジットカード。
全部、
佐伯真央。
「私は……私。」
小さく呟いた。
その時。
スマホが震えた。
また知らない番号。
今度は文章だけ。
『神谷にあなたの本名を言わないで。』
私は画面を見つめた。
本名?
佐伯真央じゃないの?
続けてメッセージ。
『あなたは自分の名前を、一度も思い出していない。』
意味が分からない。
私はちゃんと知っている。
佐伯真央。
ずっとその名前で生きてきた。
でも。
ふと気付いた。
今朝。
ホテルで目覚めてから。
私は自分の名前を、
記憶から思い出しただろうか。
違う。
最初に見たのはスマホだった。
ロック画面。
通知。
その後、
財布。
カード。
そして葬儀場の案内。
全部、
「佐伯真央」と書かれたものを見て知った。
自分の頭の中から、
名前を思い出した瞬間がない。
「……そんな。」
さらにメッセージ。
『確認したければ、家族に会って。』
そして住所。
実家だった。
「帰ります。」
席へ戻るなり私は言った。
神谷が顔を上げる。
「どこへ?」
「家。」
「やめた方がいい。」
「どうして?」
「葬儀で見ただろ。」
母は私を見ても、
何の反応もしなかった。
「だから確かめるんです。」
「何を?」
私は一瞬迷った。
本名を言うな。
メッセージを思い出す。
「……家族が、どうして私を無視したのか。」
神谷は私をじっと見た。
「俺も行く。」
「来ないでください。」
「一人は危険だ。」
「あなたが危険じゃない保証は?」
神谷は黙った。
私は店を出た。
実家まで歩いて十五分。
子どもの頃から何千回も通った道。
公園。
パン屋。
小学校。
全部覚えている。
玄関の前に立つ。
鍵を取り出す。
差し込む。
回った。
やっぱり私の家だ。
中から話し声が聞こえる。
母。
父。
妹。
私は扉を開けた。
「ただいま。」
声が止まった。
リビングへ入る。
三人が私を見る。
母の手から、
コップが落ちた。
ガシャン。
「……。」
誰も動かない。
「お母さん。」
母の顔が青ざめていく。
葬儀場とは違う。
今度は明らかに、
私を見て怯えている。
「どうして……。」
母の唇が震える。
「どうしてここにいるの。」
胸が苦しくなる。
「私だから。」
私は笑おうとした。
「真央だよ。」
その瞬間。
父が立ち上がった。
「その名前を口にするな!」
怒鳴り声。
私は身体を震わせた。
「……お父さん?」
「出ていけ。」
「何言ってるの?」
「出ていけ!」
妹が泣いている。
私は混乱した。
「待ってよ。」
「私だよ?」
「顔見れば分かるでしょ!」
母が泣きながら首を振った。
「違う。」
「何が違うの?」
母は私を見る。
その目には、
悲しみと恐怖が入り混じっていた。
「真央は。」
母が言う。
「昨日、私たちが確認した。」
「何を……?」
「遺体を。」
頭が真っ白になる。
「顔も。」
「傷も。」
「子どもの頃に手術した痕も。」
母は泣いていた。
「全部、真央だった。」
私は自分の腹部へ手を当てる。
小学生の頃。
盲腸の手術をした。
右下腹部。
傷痕。
服を少し持ち上げる。
そこには。
同じ傷があった。
「ほら……。」
震える声で言う。
「私にもある。」
母がそれを見て、
さらに青ざめた。
父が私と母の間に入る。
「警察を呼ぶ。」
「待って!」
「帰れ!」
「私なの!」
涙が出る。
「じゃあ私が誰なのか教えてよ!」

その時だった。
妹が小さな声で言った。
「……お姉ちゃん。」
父が振り返る。
「やめろ。」
「でも。」
妹は私を見ていた。
「一個だけ違う。」
「え?」
妹が自分の耳を指差す。
「お姉ちゃんの左耳。」
「子どもの頃、犬に噛まれたじゃん。」
私は左耳に触れる。
「ちょっとだけ欠けてた。」
覚えている。
小学一年生。
近所の犬。
大量の血。
病院。
母に抱きしめられた。
確かに覚えている。
私は鏡を見る。
左耳。
綺麗だった。
傷一つない。
「……嘘。」
何度触っても、
欠けていない。
母が呟いた。
「昨日の真央には……あった。」
棺の中の女には、
本物の傷があった。
私にはない。
私は家を飛び出した。
走った。
どこへ向かっているのか分からない。
頭の中で、
記憶が崩れていく。
犬に噛まれた記憶。
手術。
高校。
大学。
家族旅行。
全部覚えている。
なのに。
身体が一致しない。
スマホが震えた。
知らない番号。
『分かった?』
私は立ち止まる。
震える指で返信した。
『あなたは誰?』
初めてこちらから送った。
すぐ既読になる。
返事。
『あなたを知っている人。』
私は打つ。
『私は誰なの?』
少し間が空いた。
三点リーダー。
相手が入力している。
消える。
また表示される。
そして。
写真が届いた。
病院の新生児室。
二つ並んだベビーベッド。
一方には、
佐伯 真央
もう一方には、
知らない名前。
水城 澪
二人の赤ちゃん。
顔はよく似ている。
写真の裏側を撮影した二枚目。
母らしき人物の字で、
こう書かれていた。
『真央と澪。生後三日。』
その下。
赤い文字。
『佐伯真央には、妹がいた。』
私は画面を見つめる。
そんなはずない。
私の妹は、
さっき家にいた。
年齢も違う。
すると最後のメッセージ。
『正確には――』
『双子の妹。』
風が止まった。
そして。
『あなたの本当の名前は、水城澪。』
私は自分の顔に触れた。
棺の中で眠っていた女。
私と同じ顔。
DNAも同じ。
同じ傷。
同じ記憶。
そして私は、
初めて思った。
死んだのは私じゃない。
姉だったんだ。
――第三話 終

