比較を通して失敗の評価を考える― ゲーム・TRPG・現実から見えた一つの仮説 ―


「不正解が魅力的なゲームは名作。」

そんな言葉を目にして、少し考え込んだ。

ゲームでは、不正解にも価値がある作品が高く評価されることがある。

失敗したからこそ見られる物語。

別の結末。

新しい発見。

プレイヤーは「失敗した」と思いながらも、その体験そのものに満足することがある。

しかし、現実ではどうだろう。

現実では、一つの失敗が人生を大きく変えてしまうこともある。

自分だけではない。

家族や周囲へ影響することもある。

精神的にも経済的にも余裕がなければ、その失敗を経験として受け止め直すことさえ難しい。

ゲームのように、「不正解にも価値がある」と簡単には言えない。

では、この違いは何なのだろう。

私はこの問いを、テレビゲーム、TRPG(テーブルトークRPG)、そして現実を比較しながら考えてみた。

また、ゲームデザインやTRPG論、心理学、社会学の考え方も調べ、その共通点と違いを整理してみた。

なお、ここで述べるのは、それらを踏まえて私が考えた一つの仮説である。


比較してみる

ゲームデザインについて調べてみると、「失敗」そのものよりも、プレイヤーがどのような体験を得るかを重視する考え方が多く見られた。

代表的なMDAでは、ルールだけではなく、そこから生まれる体験まで含めてゲームを設計すると考えられている。

また、「Meaningful Choices(意味のある選択)」という考え方では、選択肢の違いと、その結果をプレイヤーが理解できることが重要視される。

つまり、多くのゲームでは、不正解も体験の一部として設計されている。

TRPGについて調べると、また少し違う景色が見えてきた。

GMもプレイヤーも未来を完全には知らない。

それでも「Fail Forward」という考え方では、失敗は終わりではなく、新しい展開を生み出す契機として扱われることがある。

もちろん、すべての卓がそうではない。

それでも、参加者全員で出来事に意味を与えながら物語を進めていく文化が比較的強いように感じた。

心理学では、出来事そのものではなく、その出来事をどう評価したかが感情や行動へ影響すると考えられている。

社会学では、評価は個人だけで決まるものではなく、人との関係や社会との相互作用の中で形成されると考えられている。

さらにSNSでは、評価そのものが他者へ伝わり、新たな評価を生み続けている。

説明の仕方はそれぞれ異なる。

しかし共通しているのは、「出来事だけではなく、その出来事がどのように受け止められるか」を重視している点だった。


比較して見えてきたこと

ここまで比較してみると、私は「失敗」の違いを考えていたのではないことに気づいた。

考えていたのは、「失敗がどのように評価されるのか」という構造だった。

ゲームでは、主人公が変わることもある。

演出も変わる。

情報量も変わる。

しかし、それらを一つの体験として受け取るのは、基本的には一人のプレイヤーである。

制作者は、その一人へ向けて体験全体を設計できる。

だから、不正解さえ価値ある体験として受け取れるように設計しやすいのではないだろうか。

もしかすると私たちは、不正解そのものを評価しているのではない。

不正解まで含め、一つの体験として成立させた設計を評価しているのかもしれない。

TRPGでは少し構造が変わる。

出来事は複数人で共有され、その場で意味が調整される。

卓によって文化や雰囲気は異なるが、一人の失敗が共同体全体の物語へ組み込まれていくことも少なくない。

だから私は、TRPGを現実社会の一部を縮小し、人が出来事へ意味を与える過程を観察しやすくしたモデルとして考えてみた。

そして現実では、さらに複雑になる。

出来事を受け取る主体は一人ではない。

自分。

家族。

友人。

社会。

「他人はこう思うだろう」という想像上の他者。

客観的な記録。

SNS。

時間が経った未来の自分。

同じ出来事でも、それぞれが異なる立場から受け取り、評価し、その評価がさらに別の評価へ影響していく。

比較してみると、評価とは出来事そのものから生まれるというより、出来事と受け手との関係の中で形づくられているようにも思えた。


私の仮説

ここから先は、私自身の仮説である。

ゲームと現実の違いは、「失敗」の違いではないのかもしれない。

違うのは、出来事がどのような構造の中で受け取られ、評価されるのかという点ではないだろうか。

ゲームでは、一つの体験を比較的一つの受け手へ向けて設計しやすい。

TRPGでは、少人数の共同体の中で意味が調整される。

現実では、無数の立場や価値観が同時に存在し、それぞれが互いに影響し続ける。

もしこの見方が成り立つなら、「不正解が魅力的なゲームは名作」という言葉は、不正解が面白いという意味だけではない。

不正解を含めた体験全体を、一人の受け手にとって価値ある経験として成立させた設計への評価とも考えられる。


この仮説の限界

もちろん、この考えだけですべてを説明できるとは思っていない。

一人用ゲームでも、失敗が単なるストレスになる作品はある。

現実でも、失敗が後になって人生の転機として語られることはある。

TRPGでも、卓の文化や人間関係によって、失敗は楽しさにも負担にもなる。

つまり、この仮説は評価構造を説明する一つの視点であり、ゲームデザイン、演出、難易度、文化、時間、周囲の支援など、他にも多くの要因が関わっているはずである。

今後、反例や別の説明に出会えば、この仮説も修正されるだろう。


おわりに

比較を始めたとき、私はゲームについて考えているつもりだった。

しかし最後に残った問いは、ゲームではなかった。

失敗は、何によって評価されるのか。

ゲームデザイン。

TRPG。

心理学。

社会学。

それぞれは異なる言葉で説明していた。

しかし比較してみると、共通して「出来事そのものだけでは評価は決まらない」という視点が見えてきた。

そして私は、その比較の先にもう一つの可能性を考えた。

私たちは出来事だけを評価しているのではない。

その出来事を、誰が、どのような立場で受け取り、どのような関係の中で意味づけるのか。

その構造もまた、評価を形づくる重要な要素なのではないだろうか。

これは現時点での私の仮説である。

だからこそ、この考えも今後の比較や反例によって修正されていく可能性がある。

それでも今回、ゲーム・TRPG・現実を比較したことで、私にとって「失敗」という言葉は、出来事そのものではなく、「評価が生まれる構造」を考える入口になった。

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