【掌編小説】春一番(#せりふ三題噺)
どんよりとした雲が、重く垂れ下がっている。
「せっかくの卒業式なのに」
空を見上げて呟いた希実香は、肩を落として俯いた。履き古したローファーにこびりついた泥を、苦い気持ちで見つめる。
「三年前は、あんなにピカピカだったのにな」
三年前の自分の方が輝いていた気がする。言いようのない不安がこびりつく今よりも、よほど明るく純粋に、期待に目を輝かせて。
「おーい、希実香!」
突然大きな声で名を呼ばれ、希実香はびくりと肩を揺らした。
「こっちこっち!」
屋上から、誰かが手を振っている。距離があるため、姿形をはっきりとは捉えられない。でも、だけど、この声は。
「ここまで来いよ!」
「⋯⋯卓也?」
希実香は呆然として呟き、次の瞬間には猛然と駆け出した。二段飛ばしで階段を駆け上がり、その勢いのまま屋上の扉に体当たりをする。
バン、と扉が開いた。
「よぉ、希実香」
手すりに寄りかかった卓也は、にかっと笑って希実香を出迎えた。
「ようやく卒業だな。おめでとう」
「卓也⋯⋯卓也も、でしょ」
希実香が声を詰まらせながら言うと、「俺は学校、最後までは行けてないからさ」と卓也は明るく笑った。
「そうだけど⋯⋯」
「今日は、希実香におめでとうって言いたくて出てきたんだ」
卓也は目を細め、希実香を眩しそうに見つめた。
「お前、けっこう塞ぎ込んでたからさ。途中から学校休んでばっかりで、留年するんじゃないかって、俺本気で心配したんだからな。無事に卒業できて良かったよ」
「⋯⋯うん」
希実香は目を潤ませて頷いた。
「進路、まだ決まってないんだよな」
「そうなの。合格発表待ちなんだけど」
「受験勉強、すっげー頑張ってたじゃん。特に後半の追い込みすごかったし。だからきっと、大丈夫」
今日くらい笑顔でいろよ、と言われた希実香は、ぐいっと口角を上げた。
「俺、お前に言いたかったことがあってさ」
卓也は希実香にゆっくりと近づき、そっと手を伸ばす。
「お前のことが好きだったよ。本当に、大好きだった」
希実香は、はっと息を飲んだ。
「お前の明るさや、思い切りの良さ、屈託のない笑顔が大好きだった。だからさ、いつまでも後ろばかり見てないで、思い切って前を向けって今日は言いに来たんだ」
卓也の指先が希実香の髪をすり抜ける。卓也は切なそうに顔を曇らせて自らの手を見つめた後、目を閉じて大きく息を吐いた。
「大学に受かったとしても、地元を離れるかどうか迷ってるんだろ。俺のことがあったから、自分だけ地元を捨てて好きにしていいのかって」
希実香の顔がくしゃりと歪む。でもさ、と卓也は希実香の顔をじっと見つめた。
「俺のせいでお前の未来を閉ざしたくない。お前には、好きなことをして笑っていてほしいんだ。だから、迷うな。進め」
希実香がこくりと頷くと、卓也はにかっと笑った。
「俺、今日は春を運んできたんだ。見てろよ、すっげー驚くぞ!」
ざあっと強い風が通り抜ける。全てを吹き飛ばすようなその風が鈍い灰色の雲を連れ去り、空一面に青が澄み渡る。陽の光がきらきらと差し込んだ。
「卒業祝いに、春一番を連れてきた! 希実香、絶対に幸せになれよ!」
卒業おめでとう、という言葉を残し、ふっと卓也の姿がかき消える。
「卓也!」
希実香は叫んだが、その姿はもうどこにもなかった。
「⋯⋯ずるいね、卓也」
希実香は、青空を見上げて呟く。
「言い逃げじゃん。私だって、言いたいことたくさんあったのに」
希実香はかがみ込むと、ローファーの泥を丁寧に拭った。そして立ち上がり、もう一度青空を見上げた後、ゆっくりと階段を下りて行った。
こちらのお題で書かせていただきました。
卒業式シーズンですね。卒業を迎えられた皆様、おめでとうございます。
