短編小説『星空さん』
その人は、大体いつも夕陽を背負ってやってくる。私は彼を『星空さん』と呼んでいた。
彼が初めて我が家にやって来たのは、私がまだ小学5年生の時だ。黒ずくめの、少しだぼっとゆるい服を来た人がうちの門の前に立っている。ベランダの窓から、母が夕飯の支度をしているのが見えて、私は横を通りすぎて玄関の中に駆け込んだ。
そして、ベランダのカーテンを閉める。
「どうしたの?千夏(ちか)」
「外に変な人いる!ずっとお母さんを見てたの」
私の喉は、恐怖で引きつっていた。
私はひどく臆病で、毎朝見るニュースのように母も巻き込まれてしまうんじゃないかと気が気ではない。
母は笑っていた。
「誰も見ちゃいないわよ」
「本当に見てたの!」
私は恐怖のあまり、いい年(小学5年生)して母の腕をつかみ、泣きそうな声で言った。
「どれどれ?」
チラッと、というレベルでは無い。
シャッ!と勢いよく母はカーテンを開けた。
私は声にならない悲鳴を上げる。
ギャーーーッ!
母はいつもそうだった。
私が恐れることを、わざとするのだ。
「あっ!……ら君じゃない」
「えっ?なに?」
母が不審人物の名前を呼んだようだったが、うまく聞き取れなかった。たまに、こういう時がある。全部ではないが、特に人の名前が聞き取りにくい時がある。
何となく『そら』と聴こえた気がした。
母は私をリビングに置いて、一人玄関へと向かう。せっかく閉めた鍵を開けて「いらっしゃーい」と招き入れていた。
それが、星空さんとの出会いだった。
星空さんは、母のことを『恩人』だと言い、病弱な母の手伝いをしに来てくれるようになった。あの日も、どうやら買い物袋を持っていたらしく、すぐに不審者だと誤解して駆け込んだ私は気がついていなかったのだ。
その日から星空さんは、ほぼ毎日やって来て、買い物や掃除等の家事手伝いをしてくれた。途中、私は塾に向かわなくてはならなくて、母が心配で言い聞かせた。
「何かあったらスマホに連絡してね!」
「どっちがお母さんか、わからないわね」
相変わらず母は呑気だ、本気で心配しているのに。けれど、それはいつも杞憂に終わっていた。塾が終わる頃、星空さんは外で待っていてくれて「一人じゃ心配だから」と、家まで一緒に帰ってくれた。
「どうして塾の場所を知ってるの?ストーカー?」
その頃に観ていたアニメの影響もあり、名探偵ぶって星空さんを問い詰める。
「白由(さゆ)さんが教えてくれたんだ」
母を名前呼びするのが気に食わなくて、私はその後、彼とは一言も口を聞かずに歩いた。
そんな失礼な態度をとっていたにも関わらず、星空さんは気にもとめていないようだった。
「そうだ、アイスを3つ頼まれていたんだ」
と、私に確認もせずに先にコンビニへと歩いていく。置いて帰ったら母に何を言われるかわからない。仕方なく私も後を追った。マイペースな人である。
星空さんは、いくつくらいの人なのか分からない、少年と青年の間のような人だった。
私は人の年齢を気にしない方なので、結局の所聞いてはいない。
遅い夕飯の後、デザートにアイスを食べて。
いつも先に母が寝室に向う。私が眠るのに部屋に戻る頃、星空さんは帰っていく。
いつしか、私は2階の窓から手を振って見送るまでになっていた。
私が中学に上がる頃、星空さんに恋をしていた。恥ずかしいことに、『星空さんは私のことが好きなのだろう』などと自惚れていたのだ。
ダイエットを始めたり、透明なマスカラを睫毛に塗ったり、リップはどの色が似合うのか分からなくて、もどかしく思っていたり。
母は茶碗の半分しかご飯を食べない私の事を、とても心配していた。
「背が伸びないわよ?」
と、私の茶碗にさらにご飯をよそう。
「やめてよ!」
ただでさえ、体重が減らなくて焦っていた私はヒステリックな声を上げる。糖分も制限していたので、気が立っていたのだろう。
「いいよ、ご飯いらない!」
私は箸を怒りにまかせてテーブルに叩きつけて、階段をやかましく上がっていく。
「おかわりもらいますね」
という、星空さんの声が聴こえていた。
ひょっとしたら、私を追って星空さんも上がってくるかもしれない。
「勝手にご飯を足すのはよくないよね」
なんて、私の味方してくれるかもしれない。
などと自惚れの強い私は部屋で待っていたが、星空さんが上がってくる気配は無かった。
一階は、ひどく静かだった。
母が寝室に戻る音が聴こえて、星空さんは私に声もかけずに帰っていく。合鍵でしっかりと鍵をかけていく音が遠く聞こえる。
2階の窓から、私は星空さんの背中を、小さくなるまで見送っていた。
翌日の三者面談には、母が来るのかと思っていたが、来たのは元父だった。
目の前が真っ暗になったかと思った。
母が来るのが当たり前だと思って、確認などしていなかったが、まさか幼い頃に別れていた父が来るとは思わないだろう。
私はショックを受けていた。
何も、ケンカしたからって代わりに父だった人を寄越さなくても…。
私も背が伸びて、少しは父に近づいたかと思って見上げてみたが、父の目は相変わらず私を見ていなかった。
私だけではない。父は、誰のことも見ていないのかもしれない。
担任の前では穏やかで、人の良い笑顔を浮かべている。
「勉強などもしっかり頑張っているようです」
と、誇らしげな目線を私に向ける。
担任の唇が、「素敵なお父さんですね」と動いた気がしたが、気の所為だったかもしれない。私の耳には言葉として届かなかった。
それからの記憶は曖昧で、ぼんやりと学校で過ごして、掃除をして、部活はサボって家に戻った所までは覚えている。
「お母さん!」
玄関を過ぎると、また怒りが沸々と沸いてきていた。
「おかえり〜」
と、どこかぎこちない笑顔で母が出迎える。
「どうして教えてくれなかったの!?」
つい口調もキツくなってしまう。
「ひどいよ!!」
感情が抑えられず、私の目から涙がこぼれていた。悲しみよりも、悔しいという感情が先立つ。私はまだ不自由な子供なのだと、突きつけられた気がしていた。
母に言葉をぶつけている間にも、私の胸は抉られていく。本当は先に「ごめんなさい」を言うつもりだったのに。
「ごめんね……。千夏」
先に母に言わせてしまった。
それが一番、深く胸を抉られた。
私は、逃げるように階段を上がっていった。
しばらくして、玄関のチャイムが鳴り、いつもの彼の到着を報せた。
こんな、しばらくは引きずりそうなケンカをした私だったが、思ったよりすぐに母とはいつも通りに戻る事が出来た。
「今日は僕が作ります」
と、星空さんがナポリタン宣言をしたのだ。
私も母も『ナポリタン』が好きで、二人でいかに美味しいナポリタンを極めるかという遊びで始まったこの『ナポリタン宣言』。
軽く説明すると、
①
今晩のナポリタンを支配する宣言を、声高らかにする。宣言された者はキッチンを譲らなければならない。早いもの勝ちの勝負だ。
②
ナポリタンを手際良く、素材に敬意をはらいながらナポリタンを炒める。
(※ピーマンが無い日は無効試合)
③
手を合わせて美味しく食べきり、健闘を称える。美味しかった場合は、次も支配者としての権利を獲得できる事もある。
こんな、我が家限定のルールだ。
そんな、ケチャップでケチャップを洗うような戦いの渦中に、星空さんが自ら飛び込んできたのだ。
「「えっ?大丈夫…??」」
母と同時に声が出ていた。
「練習はしてきました。お二人を満足させてやれると思います」
いつもは大人しい星空さんが珍しく強気である。買い物袋をごそごそやって、先に星空さんが取り出したのは10 個入りの玉子パックだった。
「ねえ!!ナポリタンってわかってる!?」
私がたまらずガヤとして声を上げる。
「オムライス作ろうとしてない!?」
「落ち着いて、千夏!ナポリタン界隈に新しい風を吹き込もうとしてるのかも…」
そして、さらに出てきたのはマヨネーズ。
「お母さん!!!」
私はたまらず、母にしがみついた。
母は面白くなってきたのか、クスクス笑って目尻に涙をためていた。
「……ら君って、本当面白いわ」
やはり、星空さんの名前が聞き取りにくい。
この頃になるともう、私も気にならなくなっていた。
私は現場監督ばりに腰に手を当て、斜めに傾いて今日の支配者の腕前を見守る。
いや、もはや見張っているといっても過言では無かった。
星空さんはまず、熱したフライパンにマヨネーズを落とし、玉ねぎとピーマン、玉子を溶いたものを回し入れている。
箸で調整して、玉子を上手いことふわふわにまとめ、野菜にこびりつかないうちに一度皿にまとめていた。
そして、空になったフライパンにまたマヨネーズを落とし、次はパスタを炒めている。
麺がいい感じにマヨネーズの油をまとった頃に塩コショウを振り回し、さらに小さくカットしたバターを投入。香ばしい香りが辺りを漂う。
ケチャップを多めに入れ、ある程度麺に絡めた所で、再び炒めていた玉子と野菜を戻し、フライパンを振ってまとめて完成。
私のお腹はすでに、背中とくっつきそうになっていた。ぐう、と呻いたのは私ではなく、お腹だ。
乾燥パセリはお好みで、とテーブルに置き、ようやく待ちに待った実食タイムが訪れる。
私はカップにコンソメスープの素を入れて、3人分のスープの用意をする。
母は勝手に私のスマホを使って、完成したナポリタンを撮っていた。
「「「いただきます」」」
3人で手を合わせ、思いきりナポリタンをすする。このナポリタンコロシアムの中では、派手に麺をすすっても許されていた。
麺をすする音で日和る者は、足を踏み入れることも許されないのである。
元父は、静かに食事をする人であった。
ふと、そんなことが私の頭をよぎったが、思ったより優しい味わいのナポリタンにフォークが止まらない。ただひたすら、味に意識を向ける。
「美味しい!スープにもよく合うよ」
「これは、私たちもうかうかしてられないわね…」
「ありがとうございます」
ふわ、と空気が軽くなったような気がした。
淡く、星空さんが微笑んだのだ。
口元を少しだけ上げて、控えめに笑う人だった。
タバスコも入れていないのに、頬が熱くなる。
「ハムじゃなくて、玉子も合うものね」
と、母が言うまですっかりハムの存在を忘れていた。私と母の二人は、ナポリタンにはハム派であった。
けれど、そんな事は今はどうでもよくなっていた。誰のことも見ない父の目のことも忘れ、どうでもよくなっていた。
「ねえ、星空さん……」
食器を拭きながら、声をかける。
「なに?」
「今日、泊まっていかない?」
「あらあら」
後ろで母の声がする。
星空さんは、ちらりと母を見て「ううん、帰るよ」と言った。
「お母さんが冷やかすから〜」
と、私は口を尖らせた。
中学1年まではギリギリ許される行為だと思っている。
後片付けを終えて、いつもより早い時間に星空さんが帰り、玄関の鍵が閉まる音が小さく響いた。
リビングには、さっきまでのナポリタンの香ばしい匂いがまだ微かに残っている。
「……お母さん」
キッチンで、明日のお弁当のおかずを用意している母の背中に、私は声をかけた。
「なぁに?」
「今日は、ごめんね。あと……昨日も、ごめん」
目の奥が少し熱くなったけれど、今度は逃げずに真っ直ぐ母を見た。
母はミニトマトをつまんで、私の口の前に差し出した。それをぱくりと食べる。
まだ少し青くさみの残る味だけど、美味しい。
「お腹が空いてたのね、私たち。これからはしっかり食べなきゃね」
母のその言葉に、私はようやく本当の意味で、胸のつかえが取れた気がした。
少し残ったナポリタンの卵を取り除いて、小さな器に入っているのが見えた。
明日、お弁当に入れてくれるのかもしれない。
足音を弾ませて二階の自分の部屋に戻り、窓を開ける。
夕陽はもうとっくに沈み、空には名前も知らない星たちが瞬き始めていた。
明日になれば、またお腹が空く。
次は私が、母を笑顔にするくらいのナポリタンを作ってやろう。
もうすでに見えなくなった星空さんの背中を見つめて、気が済むと窓を閉めてカーテンを引いた。
────────────────────
