真犯人は校長先生第6章 新任カウンセラーと影のネットワーク 2
「霧島先生、最近一年一組の佐藤健太君の様子はどうですか?」
霧島景子が着任して三日が経った金曜日の放課後。私は廊下で彼女を呼び止めた。
彼女はカウンセラー室の資料を抱えたまま、足を止め、私を振り返った。
「ええ、とても順調です。ソーシャルワーカーの支援が入ったおかげで、家庭環境も落ち着き、笑顔が増えました。ただ……」
霧島はわざとらしく言葉を区切り、私の様子を伺った。
「彼、時々奇妙なことを言うんです。先週の木曜日、自分が給食費を払えなくて困っていた時、放課後に高坂蓮君という生徒から『もう心配いらない。校長先生がすべてデータの上で片付けてくれたから』と言われた、と」
「……」
「給食費がオンラインで決済されたのは、その日の午後三時。事件の誤報騒ぎが起きる直前です。なぜ一年の高坂君が、その時点で『校長先生が片付けた』という事実を知り得たのでしょうか? まるで、最初からそういう『シナリオ』が存在していたかのように、健太君の記憶と、現実のタイムラインが矛盾しているんです」
霧島は私の一歩手前まで詰め寄り、その冷たい視線を私の喉元に固定した。
「黒木校長。あなたと高坂君は、一体あの木曜日に、この学校で何を『演出』したのですか? 警察の鑑識のデータも、あまりにも綺麗にバグとして処理されすぎている。まるで、誰かが国家権力の目を意図的に逸らしたかのように」
完璧な追求だった。彼女は健太君の「無垢な記憶のノイズ」から、私と高坂君の共犯関係の核心へと、寸分の狂いもなく辿り着きつつあった。
だが、私は「黒木校長」だ。この程度の心理的包囲網、最初から想定の範囲内だ。
「霧島先生」
私は声を一段低くし、父親が子供に言い聞かせるような、圧倒的な包容力を含んだ声を出した。
「子供の記憶というのは、時に願望や不安によって容易に再構成されるものです。健太君は、自分が困窮しているという恐怖から救われたい一心で、自分を助けてくれたソーシャルワーカーの存在や、私の寄付という事実を、彼のヒーローである高坂君の言葉として脳内で結びつけてしまったのではないかね? 心理学者であるあなたなら、その程度の『記憶の変容』は釈迦に説法のはずだ」
霧島は私の言葉をじっと聞き、やがて、くくくと低く笑った。
「素晴らしい弁明です、校長先生。流石は数千人の生徒と教員を動かしてきたお方だ。あなたのその『声のトーン』と『完璧な視線制御』、嘘をついている人間のそれではなく、自らの嘘を『本物の正義』だと完全に信じ込んでいる狂信者のそれです」
彼女は資料を抱え直し、私の耳元に顔を近づけた。
「ですが、論理的な言い訳もここまでです。私は今朝、教育委員会のメインサーバーの『物理バックアップ』を直接押さえました。高坂君がいくらネットワーク上のデータを書き換えても、物理的にハードディスクに刻まれた『変更前の磁気データ』までは消去しきれなかった。明日、教育委員会の技術チームがその磁気データを復元します。そうなれば……あなたたちの『美しい嘘』は、完全に剥ぎ取られる」
霧島景子は、勝利を確信した笑みを浮かべ、そのまま廊下の向こうへと歩き去っていった。
私はその場に立ち尽くし、胸の万年筆に手を当てた。
(物理バックアップ……! そうか、教育委員会はネットワークとは完全に遮断された、オフラインの磁気テープで毎日のログを保存していたのか。そこまでは高坂君のハッキングも届かない!)
「チェックメイト、というわけか。霧島先生」
私は小さく呟き、ポケットからスマートフォンを取り出した。
画面を立ち上げると、すでに高坂君から一件のメッセージが入っていた。
『校長先生。霧島景子が言っていた物理バックアップの件、事実です。教育委員会の地下管理室にある、重さ五十キロの耐火金庫の中に、その磁気テープは眠っています。復元までの猶予は、明日の午前十時まで。――どうしますか?』
私は夜の気配が迫る廊下で、フッと口元を歪めた。
危機。絶望。破滅の足音。
それらが私の脳内を駆け巡るたびに、眠っていた私の「演出家」としての本能が、激しく歓喜の声を上げる。
「どうするかも何も、決まっているじゃないか、高坂君」
私は誰もいない廊下で、ポーカーフェイスの裏側にある狂気を、静かに解放した。
「大人の夜の学校への侵入が『悪』なら、今度は教育委員会の地下室への潜入だ。最高に美しい『第三の段取り』を始めよう」

