真犯人は校長先生第7章 真夜中のオペレーション・コントロール 1
五月十六日、土曜日。午前二時十五分。
教育委員会の庁舎が位置する市街地は、深い静寂に包まれていた。
日中に見せるお役所としての厳格な顔は消え失せ、街灯の光に照らされたコンクリートの建物は、まるで巨大な墓標のようにそびえ立っている。
私は庁舎から二ブロック離れたコインパーキングに車を止め、運転席で静かにシートベルトを外した。
衣服は、夜の闇に完全に溶け込む漆黒のナイロン製タクティカルウェア。
靴底には、足音を極限まで吸収する特殊なラバーソールを備えたスニーカーを履いている。
「高坂君、聞こえるかね」
耳に装着した超小型のワイヤレスイヤホンに向かって、私は囁いた。
『クリアに聞こえています、校長先生。現在、教育委員会庁舎の周辺の防犯カメラの映像を、僕の自宅のサーバーからダミーのループ映像に切り替えました。あなたが正面玄関の死角から地下の搬入口へ向かうための『空白の三分間』を作りました。どうぞ』
イヤホンから返ってきたのは、いつもと変わらない、感情の起伏が一切ない少年の声だった。だが、その声こそが、この無謀な夜間潜入作戦において、私の唯一にして最強の「命綱」だった。
「よし、段取り通りに始めよう」
私は車を降り、音もなく夜の街へと滑り出した。
五十代後半の肉体にとって、深夜の隠密行動は過酷そのものだ。しかし、この一週間の間に、私は高坂君の指示の元、庁舎の構造、警備員の巡回ルート、そして地下管理室のセキュリティシステムのすべてを脳内に叩き込んできた。
中庭の植え込みを抜け、地下へと続くスロープを駆け下りる。
搬入口の重い鉄扉の前で行き止まりになった。
当然、扉は電子ロックによって固く閉ざされている。
私はポケットから、手のひらサイズの小型デバイスを取り出し、電子錠のカードリーダーの隙間に滑り込ませた。
「デバイスをセットした。高坂君、ハッキングを頼む」
『了解。リーダーの回路に高電圧のパルスを注入し、システムを一瞬だけ「セーフモード(強制解錠)」に移行させます。……3、2、1、今です』
カチャリ、と重々しい金属音が響き、鉄扉のロックが解除された。
私は素早く扉を開け、内部の暗闇へと滑り込み、再び扉を閉めた。
建物の中は、外気よりも一段と冷えていた。
非常灯の緑色の光だけが、長く伸びた廊下を不気味に照らしている。
『警備員の配置を伝えます』
耳の奥で、高坂君のタイピング音が微かに響く。
『現在、一階の守衛室に二名。仮眠中の者が一名、モニターを監視している者が一名です。地下の巡回ルートは、通常であれば午前二時三十分から。残り時間は十三分です。廊下の突き当たりを右に折れ、突き当たりにある「地下一階・第三管理室」が目的地です』
私は壁に背を向け、気配を殺しながら廊下を進んだ。
私のポーカーフェイスは、暗闇の中でも健在だった。
いや、むしろこの絶体絶命の緊張感の中でこそ、私の表情は完全な「静寂」を保っていた。心拍数は七十二。完璧なコントロール下にある。
第三管理室の前に辿り着いた。
扉には「関係者以外立ち入り禁止」のプレートがあり、その下には、最新式の生体認証(指紋・静脈)リーダーが設置されていた。
「高坂君。ここは生体認証だ。君のパルス注入でも開かないぞ」
『分かっています。ですから、昨日のうちに霧島景子の「指紋データ」を彼女のカウンセリング用端末から盗み出しておきました。校長先生、あなたのスマホの画面に、高精細な擬似指紋のパターンを出力します。それをリーダーに押し当ててください』
私はスマホを取り出し、画面に表示された霧島景子の指紋の光を、認証リーダーに密着させた。
一秒、二秒の静寂。
ピッと短い電子音が鳴り、画面に『認証成功:霧島景子(スクールカウンセラー)』の文字が浮かび上がった。
「見事だ、高坂君。これで中に――」
扉を開けようとしたその時、イヤホンから高坂君の、本日初めて「焦り」を含んだ声が飛び込んできた。
『待って、校長先生! 戻って! 守衛室のモニター監視員が、地下のカメラの
ノイズに気づきました! 今、一名がエレベーターで地下に向かっています!』

