真犯人は校長先生第3章 偽りの天秤 3
心臓が、一瞬だけ鋭く跳ね上がった。
しかし、私はすぐに右手を口元に当て、乱れかけた呼吸を完全に支配下に置いた。
ポーカーフェイスは、誰も見ていない暗闇の中でこそ維持されなければならない。
私はスマートフォンのライトをポケットにしまい、静かに顔を上げて天井のスピーカーを見上げた。
「高坂君かね」
私は誰もいない職員室で、普段通りの穏やかな声を出した。
放送室のマイクがこちらの声を拾っている保証はなかったが、彼は必ずどこかで私の動きを見ているはずだった。
『はい。放送室から失礼します。校長先生が午後八時を過ぎても退勤されず、一階の職員室へ向かわれたので、校内ネットワークの監視カメラのログから追跡していました』
スピーカーからの声は、ノイズ混じりでありながらも、恐ろしいほど平坦だった。
『神保先生のボールペンですね。先ほどあなたが窓枠を削るプラスチックの摩擦音を、職員室の集音マイクが感知しました。デシベル換算で四十五。静かな夜の職員室では十分に目立つ環境ノイズです。――証拠の上書き(オーバーライト)ですか?』
「……手厳しいね」
私はゆっくりと歩き出し、職員室を出て、放送室のある特別校舎へと向かった。
「夜の校舎に生徒が残っているのは、校則違反だよ、高坂君。鍵はかかっていたはずだが」
『電子ロックの隙間に、絶縁性のプラスチック板を挟んでおきました。僕にとっては、施錠されたドアを開けるよりも、あなたの論理の矛盾を放置することの方が苦痛なんです』
渡り廊下を渡る私の足音が、夜の静寂に響く。
放送室の前に辿り着き、ノブを回すと、鍵は開いていた。
中に入ると、薄暗い機材のランプに照らされて、高坂君がミキサーの前に座っていた。
彼はやはり私を見ることはなく、インジケーターの緑色の光をじっと見つめている。
「神保君の無実を証明する証拠を、私が自らの手で消してしまった。君にとっては、私のこの行動は『悪』に見えるかね?」
私は彼の背後に立ち、静かに問いかけた。
高坂君はヘッドホンを首にかけ、ゆっくりと首を振った。
『いいえ。僕には善悪の基準はありません。ただ、あなたの行動に新しい「段取り」が加わったという事実だけが残りました。神保先生のボールペンのカスをあえて残すことで、警察の目を一時的に神保先生に完全に固定する。それが、明日の「緊急対策会議」とやらを円滑に進めるための時間稼ぎですね』
「ご名答だ」
私は小さく拍手をした。
「明日、教育委員会とPTAの幹部が揃う。そこで神保君という明確な容疑者がいるからこそ、議論は『誰が犯人か』ではなく、『なぜこんな事件が起きたのか』『被害に遭った困窮家庭をどう救うか』という、私の誘導したい方向へ進むんだ。そして、会議が終わった後、私は警察に『神保君のロッカーから、窓枠のプラスチック片と一致するカードが見つかった(もちろん私が仕込む)』と伝える。だが同時に、そのカードには私の指紋をわざと薄く残しておく。――最終的に、すべての罪は私が被るようにね」
高坂君は、そこで初めて椅子の向きを変え、私の足元を見た。
『自分の社会的破滅まで、最初から「段取り」に入っているんですね』
「当たり前じゃないか」
私はフッと微笑み、胸の万年筆に触れた。
「教育者として、子供たちの未来を社会の理不尽から守るためだ。私の地位や名誉など、そのための安いチップに過ぎない。神保君には後で十分な補償が行われるよう、裏で手を回してある。誰も本当の意味では不幸にならない、これが私の完全犯罪だ」
高坂君はしばらく沈黙していた。
彼の脳内で、私の歪んだ、しかし強固な論理が精査されているのが分かった。
やがて、彼は立ち上がり、鞄を肩にかけた。
『わかりました。あなたの次の段取り、明日の緊急対策会議ですね。僕も「ノイズの監視員」として、その結末を見届けさせていただきます。……ただ、校長先生』
高坂君はドアへと歩き出し、すれ違いざまに言った。
『明日の会議室のスピーカー、少し低音のノイズが混じる設定になっています。僕が明日の朝までに、クリアな音声が通るように調整しておきます。あなたの「話術」が、全員に完璧に聞こえるように』
少年は、私に小さな共犯の笑みを残すこともなく、ただ等間隔の歩幅で暗い廊下へと消えていった。
「ふ……ハハハ」
私は放送室の椅子に深く腰掛け、暗闇の中でまた笑った。
ヒヤヒヤするような緊張感の後に訪れる、この奇妙な高揚感。
天才少年すらも私の舞台の裏方に巻き込みながら、いよいよ明日の最終決戦へと、盤面は進んでいく。

