真犯人は校長先生第5章 チェックメイトの裏返り 2
高坂君は、ポケットから小さなUSBメモリを取り出し、私の手元に置いた。
「昨夜、僕が放送室からネットワークを調整したと言いましたよね。あの時、僕は教育委員会のメインサーバーの仕様を変更し、今日のオンライン会議のログデータ、および校長先生が使用したディープフェイクのプログラムの痕跡を、すべて『ある形』に書き換えました」
「ある形……?」
「はい。現在、教育委員会のサーバーに残されている本日の会議記録には、あなたが二時から三時まで『生身で出席し、途中で音声が途切れたトラブルの記録』だけが残っています。そして、職員室の金庫から消えた二万五千円ですが……」
高坂君は私に、スマホの画面を見せた。そこには、学校の公式オンライン決済システムの管理画面が映し出されていた。
「先ほど午後三時の時点で、その五人の家庭の今月の給食費は、外部の匿名寄付口座(ドネーション・システム)から全額が電子決済で『納入済み』として処理されました。現金が盗まれたのではなく、最初からデータの上で正当に支払われていた。――つまり、最初から『二万五千円の窃盗事件』など、この学校には起きていないんです」
会議室の全員が、耳を疑った。
「待ってくれ! 鑑識が今、下で窓枠を調べているんだぞ!? 神保のPCのログだって……!」
教頭が叫ぶ。
「鑑識が今調べているプラスチック片のデータは、僕が先ほど、警察のデータベースにハッキングして『学校の備品の劣化による樹脂の剥離』という解析結果に書き換えました。神保先生のPCのログも、単なるシステムのバグとして処理されます。警察は間もなく、『事件性はなし、学校側の事務的な勘違い』として撤収します。神保先生も、今頃は任意同行を解かれて、事務室に戻っているはずです」
信じられない。
この少年は、警察の捜査、教育委員会のサーバー、そして事件そのものの存在を、すべてデータの上で「最初からなかったこと」にしてしまったのだ。
「高坂君……君は、一体何を考えているんだ?」
私は震える声で問いかけた。
「校長先生。あなたが犯罪者として破滅する必要はありません。そして、子供たちがメディアの玩具になる必要もありません。僕が作った新しい段取りは、こうです」
高坂君は、長テーブルの上の教職員たち、そして教育委員会の課長を静かに見渡した。
「本日、緑ヶ丘中学校の黒木校長は、自身のポケットマネーから、困窮する五人の生徒のために、匿名のオンライン寄付という形で給食費を全額肩代わりした。その高潔な行為に感銘を受けたPTAと教育委員会は、学校の管理体制の不備を認める代わりに、校長の提案を全面的に受け入れ、来月から『スクールソーシャルワーカー』を実験的に常駐させることを決定する。――事件は起きず、誰も逮捕されず、悪者も生まれず、ただ子供たちを救うためのシステムだけが静かに導入される。これが、僕の考える『美しい段取り』です」
会議室に、長い、長い沈黙が訪れた。
教育委員会の課長が、信じられないものを見る目で高坂君を見つめ、それから私を見た。
「黒木校長……。この生徒の言うことは、事実かね? 我々は、この『美しい嘘』の上に乗るべきなのか?」
私は、机の上のUSBメモリをそっと握りしめた。
敗北感はなかった。あるのは、この少年の圧倒的な知性と、彼が提示したプロットの、あまりの見事さに対する畏敬の念だけだった。
私はゆっくりと、いつもの「穏やかな、信頼に足る校長」の笑顔を取り戻した。
ポーカーフェイスが、再び私の顔に完璧に張り付く。
「課長。大河原会長。……我が校の優秀な生徒が提示した『データ』に、間違いはありません。本日、この部屋で行われた緊急会議の結論は、ただ一つです。――『子供たちの未来を守るため、我々は手を取り合う』。違いますか?」
大河原会長はぽかんと口を開けていたが、やがてフッと苦笑いを浮かべ、椅子に深く座り直した。
「……やれやれ。大の大人が、揃いも揃って一年生の少年に一本取られるとはね。ですが、黒木先生。あなたのポケットマネーからの寄付、という話は、本当に実行してもらうますよ」
「もちろんです」私は深く頷いた。「喜んで、あの子たちの未来に投資させていただきます」
教育委員会の課長も、手元の資料をまとめながら、小さく息を吐いた。
「……今回の件は、教育委員会としても『美しく処理』することにしよう。黒木先生、スクールソーシャルワーカーの常駐に関する申請書を、明日までに私のデスクに届けておきなさい」
「ありがとうございます、課長」
会議室の緊張感が、急速に緩和していく。
大人のエゴと、少年の天才的な論理が編み上げた「偽りの天秤」は、最も完璧な形でバランスを保ったのだ。

