真犯人は校長先生第6章 新任カウンセラーと影のネットワーク 1
私と高坂蓮が「美しい嘘」で編み上げた平穏は、緑ヶ丘中学校に奇跡のような変化をもたらした。
約束通り、私のポケットマネーから支払われた匿名寄付により、あの五人の生徒たちの給食費未納問題は完全に解消された。さらに、教育委員会の課長が裏で手を回したおかげで、来月からの予定だった「スクールソーシャルワーカー」の派遣が、特例として今週から実施されることになった。
大人が社会の歯車を少しだけ正しく回せば、子供たちの世界はこれほどまでに静かに、そして劇的に救われる。校長室の窓から、新任のソーシャルワーカーに付き添われて笑顔で校門をくぐる佐藤健太君の姿を見下ろしながら、私は上質なコーヒーを口に含んだ。
「これですべてが丸く収まった……そう言いたいところだがね」
私はデスクの上のノートPCに目を戻した。画面に映し出されているのは、校内のネットワークトラフィックの異常検知ログだ。
一昨日の夜から、我が校のサーバーに対して、外部からの執拗な「詮索(スキャン)」が行われている。それも、ただのハッカーによるランダムな攻撃ではない。狙われているのは明確に、先週の「金庫の給食費データ」と「オンライン会議のログ」、つまり高坂君が完璧に書き換えたはずの『過去の改ざん履歴』そのものだった。
「誰かが、あの事件の『ノイズ』を掘り起こそうとしている……」
コンコン。
「黒木校長先生、教育委員会から派遣されたスクールカウンセラーの先生がお見えになりました」
教頭の声とともに、校長室のドアが開いた。
「失礼いたします。本日より着任いたしました、**霧島(きりしま)景子(けいこ)**です」
入ってきた女性を見て、私はわずかに目を細めた。
年齢は三十代前半。仕立てのいい紺色のスーツに身を包み、髪を後ろでタイトに結んでいる。その佇まいは、およそ傷ついた生徒たちの心を癒やすカウンセラーのそれというよりは、鋭利な刃物を思わせる冷徹なエリートの雰囲気をまとっていた。
「霧島先生、お待ちしていました。我が校の生徒たちのメンタルケア、よろしく頼みますよ」
私はいつもの温厚な笑みを浮かべ、立ち上がって彼女を迎え入れた。
霧島景子は私の差し出した手を握りながら、その怜悧な黒目で、私の顔をじっと見つめてきた。
その視線の強さは、他人の嘘を見抜く高坂君のそれとは異なり、まるで私の皮膚の裏側にある「秘密」を強制的に暴こうとするような、強烈な圧迫感を持っていた。
「黒木校長先生。お噂はかねがね伺っております。困窮する生徒たちのために、ご自身の私財を投じてまでセーフティネットを構築されたとか。教育界の鑑(かがみ)のような素晴らしいお取り組みですね」
「ハハハ、滅相もない。私はただ、目の前の子供たちが不利益を被るのが耐えられないだけの、一人の老いぼれ教師ですよ」
「素晴らしいお心掛けです」
霧島はフッと口元だけで笑った。
「――ですが、世の中には『美しすぎる美談』の裏に、恐ろしい怪物が隠れているケースが多々あります。臨床心理学の現場では、過剰な自己犠牲は、往々にして『巨大な罪悪感の裏返し』、あるいは『何かを隠蔽するための段取り』であると定義されているのをご存知ですか?」
部屋の空気が、一瞬で張り詰めた。
心拍数は六十八。許容範囲内だが、私のポーカーフェイスの表面を、彼女の言葉が確実にミリ単位で削り取っていくのを感じた。
この女は、ただのカウンセラーではない。
教育委員会が、私の「不自然な完璧さ」を疑い、送り込んできた『査察官』だ。
「なるほど、心理学とは興味深い。ですが霧島先生、我が校に隠さなければならない怪物などいませんよ。あるのは、未来ある子供たちと、彼らを支える純粋な意志だけです」
「そうであることを、私も切に願います。……では、失礼します」
霧島景子は一礼すると、音もなく校長室を去っていった。
彼女が閉めたドアを見つめながら、私はすぐにノートPCのキーボードを叩いた。
「高坂君、聞こえるかね」
校内チャットの秘匿回線を開き、メッセージを送る。
『気づいています、校長先生。あの霧島という女性が着任した直後から、校内サーバーへの不正アクセスの発信元が、彼女の支給された端末のIPアドレスに固定されました』
一秒と経たずに、高坂君からの返信が戻ってきた。
『彼女はカウンセリングを口実に、生徒たちから「先週の木曜日に何があったか」のヒアリングを始めています。特に、被害に遭ったあの五人の生徒を執拗に狙っている。僕たちが作った「美しい嘘」の綻びを、子供たちの記憶から引っ張り出そうとしているんです』
「猟犬が、鼻を利かせて檻の周りをうろつき始めたというわけか」
私は万年筆を指先で回しながら、暗い笑みを浮かべた。
天才少年のデータ改ざんと、私の完璧な話術。その二つの盾を前にしてもなお、霧島景子という女は「人間の心理」という泥臭いルートから、真実へと突き進もうとしている。
「面白い。第二ラウンドの始まりだ、高坂君。今度の敵は、データではなく、大人の狡猾な心理戦だ」

