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【あなたの心の中だけに在る、知られざるどこかの町の星想譚】~三万二千八百枚の、その先~

母は、私の写真を三万二千八百枚撮った。

眠っている顔。

泣いている顔。

初めて立った瞬間。

転んで膝から血を流し、悔しさを隠すように笑った帰り道。

前歯の抜けた口を大きく開けて、夏の光の中を走る姿。

運動会で最下位になり、誰もいない校庭の隅で靴ひもを結び直している背中。

母はいつも、私の人生より半歩後ろを歩いている気がしていた。

その手には、必ずカメラがあった。

だから私の子ども時代は、どの一秒を切り取っても鮮明だった。

鮮明すぎて、時として他人の人生のように見えた。

私が生まれた町には、少し変わった夜空がある。

写真にも、動画にも、録音にも残されなかった瞬間は、夏になると星になる。

誰にも撮られなかった笑顔。

記録されなかった歌。

日記に書かなかった別れ。

名前すら与えられなかった幸福。

行き場を失った一瞬は、地上を離れ、夜空に小さな光を置く。

町の人々は、それを勿忘星わすれなぼしと呼んでいた。

おとぎ話ではない。

町を見下ろす丘には、本当に勿忘星わすれなぼしの観測所があった。

新しい星が見つかると、職員は光が生まれた日時と方角を割り出し、その日に町で起きた「記録されなかった出来事」を探す。

けれど、星が生まれただけでは、その持ち主は不明のままだ。

本人が夜空を見上げ、

「あれは、私の記憶です」

と認めて初めて、星には名前が与えられる。

それを、星籍登録という。

本人が忘れてしまった瞬間。

誰にも話さなかった出来事。

持ち主が夜空を見に来なかった星。

そうした光は、何年たっても名前を持たない。

星は、誰かに思い出されるまで、ただの光でしかない。

毎年八月、町では「星籍祭」が開かれた。

観測所が一年間に発見した勿忘星わすれなぼしを読み上げ、その持ち主を探す祭りだ。

「あれは、夫が初めて私の手を握った夜です」

「あの星は、息子が家を出る前に振り返った一秒です」

自分の星を見つけた人たちは、泣きながら笑った。

写真がないからこそ、自分にしか分からない。

思い出には、証拠がないほうが美しいものもある。

けれど私は、一度も星籍祭へ参加したことがなかった。

私には、探す星などないと思っていたからだ。

私の人生には、いつも母のカメラがあった。

初めて歩いた日は、連写で百二十六枚。

入学式は、四百八枚。

中学最後の吹奏楽コンクールは、写真と動画を合わせて五時間分。

これほど残されているのだから、撮られなかった時間など一秒もない。

私はずっと、そう信じていた。

母は私の一瞬を、一つ残らず地上へ縫いつけた。

私の記憶には、空へ行ける余白などないのだと。

十八歳の夏。

東京の写真修復工房への採用が決まり、私は八月三十一日に町を出た。

母に見送られながら、駅の改札で言った。

「もう撮らないで」

母はカメラを下ろさなかった。

「最後だから」

「お母さんは、いつもそう言う」

「何が?」

「最後だから。大切だから。忘れたくないから」

母の人さし指が、シャッターボタンの上で止まった。

私は、ずっと胸の中にあった言葉を吐き出した。

「お母さんの写真には、私がたくさんいる」

ホームに電車の音が近づいてきた。

「でも、そこにお母さんは一人もいない」

母の顔から表情が消えた。

「私が思い出したいのは、撮られていた自分じゃない」

到着を告げる音が鳴った。

「お母さんといた私なの」

母は何も言わなかった。

カメラを胸元まで下ろした。

私は改札を通り、振り返らずに電車へ乗った。

その日から十二年間、故郷へは帰らなかった。

東京で、私は写真の修復士になった。

破れた家族写真。

水に濡れた卒業写真。

顔だけ切り取られた結婚写真。

火事で黒く焼けたアルバム。

色を失いかけた一枚に、筆と光を重ね、消えかけた時間を地上へ引き戻す。

依頼人は、よく言った。

「これしか残っていないんです」

私はうなずき、傷を消した。

けれど心の中では、いつも同じことを考えていた。

写真しか残っていないのか。

写真にならなかったものは、本当に消えてしまったのか。

写真は、時間の傷口だ。

覗き込めば、失ったものが見える。

けれど、その傷をきれいに塞ぐほど、何を失ったのか分からなくなることもあった。

母とは、年賀状だけの関係が続いた。

母から届く年賀状には、毎年、町の夜空が印刷されていた。

星の少ない空。

前年よりも、さらに暗くなった空。

人々が何もかも撮影するようになり、勿忘星わすれなぼしは年々減っていた。

食べる前に撮る。

笑う前に撮る。

抱きしめる前に撮る。

人はいつからか、覚えておくためではなく、日常で起きたことを証明するために写真を撮るようになった。

画面の中には思い出があふれ、

夜空からは、記憶が消えていった。

十二年目の夏。

母から、見慣れない生成りの封筒が届いた。

差出人の欄には、母の名前と、故郷の観測所の印が並んでいた。

封を切る。

中に入っていたのは、写真ではなかった。

観測所が発行した、一枚の書類。

星籍確認通知。

発見日時は、十二年前の八月三十一日、午後六時四十七分。

私が故郷を出た、夏の最後の日だった。

発見方角は、町の駅の真上。

所有者欄には、まだ何も書かれていなかった。

通知の余白に、母の字で短く書き添えられていた。

たぶん、あなたの星です。

私はその紙を捨てられなかった。

机の上に置いた。

裏返した。

引き出しへしまった。

けれど翌朝、また取り出した。

写真なら、傷ついても直せる。

破れても、色褪せても、残ってさえいれば修復できる。

けれど星は、直せない。

見失えば、次の夏まで会えない。

私は十二年ぶりに、故郷へ帰ることを決めた。

駅のホームに、母がいた。

カメラは持っていなかった。

代わりに、透明なビニール傘を持っていた。

雨は降っていなかった。

「久しぶり」

母が言った。

「うん」

それ以上、言葉が続かなかった。

十二年という時間は、会話にすると意外に長過ぎて。

母は少し小さくなっていた。

髪が白くなっていた。

けれど右手の人さし指だけは、今もシャッターを押す形に、わずかに曲がっていた。

「カメラ、やめたの?」

私が尋ねると、母は線路の先を見ながら答えた。

「壊れたの」

「買い替えればいいじゃない」

母は小さく笑った。

「カメラじゃなくて、私のほうが壊れてたから」

私は足を止めた。

母は振り返らなかった。

その夜、二人で星籍祭へ行った。

町の照明が消され、観測所の職員が一年分の勿忘星わすれなぼしを読み上げていく。

空には、まばらな光しかなかった。

六月十二日、午後九時二分。商店街南上空。

七月三日、午前零時十四分。旧中学校西上空。

名前のない記憶が、一つずつ紹介された。

観客の中から誰かが、

「あれは私です」

と手を挙げるたび、静かな拍手が起こった。

母は何も言わず、透明な傘を開いた。

「雨、降ってないよ」

「知ってる」

傘の内側には、無数の小さな白い点が描かれていた。

一つひとつの横に、日付と時刻、それから写真のファイル番号が書かれていた。

私が生まれた日から、町を出た日まで。

三万二千八百枚分の記録。

傘の内側に、私の人生が星座のように広がっていた。

けれど、よく見ると、白い点の間には小さな空白があった。

一つではない。

いくつもあった。

空白のそばには、母の字が添えられていた。

熱を出した夜。手を握っていたので撮れなかった。

七歳。眠れないと言って布団に入ってきた。

十歳。秘密を話してくれた。カメラを取りに行かなかった。

十五歳。玄関で泣いていた。理由を聞かず、隣に座った。

知らない出来事ではなかった。

忘れていた時間だった。

写真には残っていない。

けれど確かに、母と私の間に存在した時間。

「これ……」

声が震えた。

「私の星?」

母は首を横に振った。

「分からない」

「どうして?」

「私はその時間を覚えている。でも、星が誰のものか決めるのは、撮らなかった人じゃないから」

母は傘の空白を見上げた。

「その時間を、自分の記憶として見つけた人が決めるの」

私は何も言えなかった。

私には星がなかったんじゃなくて。

星になった時間を、私が知らなかっただけだった。

写真に写っていない場所には、何もないと思っていた。

でも、そこには母がいた。

カメラを持たず、

母として、私のそばにいた。

「どうして、これを写真にしなかったの?」

母に尋ねた。

「写真にしたら、またあなたが一人になるから」

「どういう意味?」

「カメラを向けるとね」

母は、自分の右手を見た。

「私はあなたのいる時間から、一歩外へ出てしまうの」

透明な傘が、夜風に小さく震えた。

「そばにいるつもりで、ずっと観客だった」

母は泣く少し前の顔で笑った。

「人は、失うのが怖いと、残すことばかり考えるのね」

そして静かに言った。

「残すことと、一緒にいることは、似ているようで、全然違った」

観測所の職員が、最後の星を読み上げた。

八月三十一日、午後六時四十七分。駅上空。

十二年前。

私が町を出た時刻だった。

職員の指が、暗い空の一点を示した。

そこに、小さな星があった。

見落としてしまいそうな、頼りない光。

私は、あの日を思い出した。

改札を通る直前、母のカメラが下がったこと。

ホームへ滑り込む電車。

閉まる扉。

動き出した景色。

窓の向こうで、母がカメラを構えずに立っていたこと。

あれは、母が初めて撮ることをやめた瞬間ではなかったんだ。

母は昔から、ときどきカメラを置いていた。

私が熱を出した夜も。

眠れずに布団へ潜り込んだ夜も。

言葉にできない秘密を話した日も。

ただ私は、その時間を覚えていなかった。

いや…

覚えていても、それを「記憶」だと思っていなかった。

あの星は、母が初めてカメラを下ろした瞬間じゃない。

私が初めて、カメラの向こう側にいた母を見つけた瞬間だったんだ。

「あれは、私の星です」

自分でも驚くほど、声は静かだった。

観測所の職員が、私の名前を尋ねた。

私は答えた。

職員は星籍台帳に名前を書き込んだ。

十二年間、ただの光だった星が、その夜初めて私の記憶になった。

「私、あのとき振り返ればよかった」

私が言うと、母は首を横に振った。

「振り返らなかったから、星になったのかもしれない」

「きれいに言わないで」

「ごめん」

二人で笑った。

十二年ぶりだった。

笑った証拠は、どこにも残らなかった。

私は無意識に、スマートフォンへ手を伸ばした。

母と星を撮ろうとした。

けれど、取り出す前にやめた。

母が私を見た。

「撮らないの?」

「うん」

「忘れるかもしれないよ」

私は母の手を握った。

昔より小さくなった手。

けれど、記憶よりずっと温かい手。

「忘れたら、また思い出す」

母の目が細くなった。

「写真は一度で見せてくれるけど」

私は夜空を見上げた。

「記憶は、何度でも会いに来るから」

シャッター音はしなかった。

フラッシュも光らなかった。

投稿する場所も、保存する名前もなかった。

ただ、母の手の温もりだけがあった。

その瞬間。

私たちの視線の先で、小さな光が一つ生まれた。

母が息を飲んだ。

「今の、見た?」

「見た」

母は少し悔しそうに、おどけた感じで笑った。

「撮ればよかった」

「もう撮ったよ」

「誰が?」

私は母の手を、少し強く握った。

「空が」

新しい星は、しばらく明るく瞬いていた。

やがて、どの星とも見分けがつかなくなった。

それでよかった。

私たちだけが分かればよかった。

アルバムには、何も増えなかった。

母のカメラにも。

私のスマートフォンにも。

三万二千八百枚の写真の、その先。

そこには、撮影されなかった一秒があった。

残すことをやめて、

初めて二人で生きた一秒があった。

愛は、残すことじゃない。

消えないように囲うことでもなくて。

消えてしまう瞬間に、ちゃんとそこにいることだ。

あの夜から、町の空には星が一つ増えた。

写真のない私たちの、

最初の記念写真が、

今も夏の夜空に光っている。

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