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「野球ファンはホームズになり、サッカーファンは闇の都市計画官になる」の話

野球は密室殺人、サッカーは違法都市計画だ

のっけから穏やかじゃない見出しで、ビックリされた方もおられるだろうけど、この記事は、筆者の俺が大好きなスポーツである野球とサッカーの面白味の根源を純粋に比較し真面目に深掘った、メチャクチャどうでもいいライトな読み物だ。

それでもいいと思ってくれた物好きで心の広い読者の方のみ、続きを読み進めてもらいたい。

では、前置きはこの辺にして、本題へ。

「野球はプレーが一球ごとに切れる。サッカーは流れ続ける」
「野球は手を使う。サッカーは足を使う。なお、ゴールキーパーだけは手の使用が認められた特別行政区に住んでいる」

両スポーツの違いを語るとき、人はだいたい上記のような“競技スペック”を並べる。

どれも正しい。

正しいのだが、それではまるで競技を家電量販店でよく見かける家電の表向きのスペック表で比較しているだけの、著しく面白味に欠けるものだ。

本当に面白い違いは、画面の中ではなく、画面を見ている俺たちの頭蓋骨の内側で起きている。

因みに俺は、ザックリとだが、野球は「推理」の積み重ねのスポーツで、サッカーは「イマジネーション」の展開のスポーツだと分析している。

野球では真相を追い、サッカーでは未来を建てる。

テレビの前でビールを片手に、頼まれてもいないのに眉間へしわを寄せながら観戦しているあの時間。

俺たちの脳は、競技によってまったく別の職業に就いているんだ。

野球を観ているとき、俺たちは名探偵になる。

過去の証拠を拾い集め、次の一球に隠された「犯行計画」を暴こうとする。

サッカーを観ているとき、俺たちは無資格の都市計画官になる。

まだ存在しない道路をピッチに通し、数秒後に消える街の区画整理を始める。

つまり、こういうことだ。

野球は、一球ごとに解かれる本格ミステリである。
サッカーは、九十分で更地に戻るリアルタイム都市開発である。

そして観客席とリビングには今日も、誰にも依頼されていない名探偵と、誰にも任命されていない闇の都市計画官が大量発生している。

野球場には、一球ごとに「事件前の密室」ができる

野球には句読点がある。

投手がボールを握る。
打者が構える。
走者がリードを取る。
守備陣が腰を落とす。

その数秒間だけ、グラウンドは静止画になり、球場の中央に小さな密室が立ち上がる。

緊迫の事件直前。

事件は、まだ起きていない。

だが、事件が起きる条件はすでに出そろっている。

カウント。
アウト数。
走者。
点差。
打順。
風。
直前の配球。
打者の得意コース。
投手の球数。
ベンチの表情。

証拠は驚くほど公開されているのに、肝心なものだけが見えない。

当事者たちは、次に何をするつもりなのか。

投手は直球で押すのか。

変化球で逃げるのか。

捕手はどこへ導くのか。

打者は何を待っているのか。

走者は本当に走るのか。

それとも「走りそうな顔」で大きくリードしているだけなのか。

この瞬間、全国のリビングにて脳内捜査会議が開始される。

ソファに座るアマチュア・ホームズたちは腕を組み、顎に手を当て、急に声を低くする。

「前の打席は外で仕留めた。ここは裏をかいてインハイだな」
「いや、このキャッチャーは追い込んでから一球遊ぶ。ボールになるフォークだ」

捜査員は全員アマチュア。確信だけがプロ仕様。

捜査員は全員アマチュア。

確信だけがプロ仕様。

誰にも求められていない推理合戦である。

しかも、俺たち捜査員には恐るべき特殊能力がある。

外れた推理だけを、記憶から都合良く即刻完全消去できるのさ。

「絶対に直球」と断言した直後にスライダーが来ても、俺たちは無言で枝豆を1つ食べればいい。

そう、証拠隠滅に関しては一瞬で一級品だ。

ところが狙いどおりのコースに球が来たときだけ、その記憶は8K画質で永久保存される。

俺たちはグラスを少し持ち上げ、誰も聞いていないのに言う。

「ほらな」

この「ほらな」には、三百回の誤推理を埋葬した者だけが出せる深みがある。

一球は、物理現象ではなく「供述」である

投手が投げる。
球種が明かされる。
コースが明かされる。
打者の狙いがスイングに表れる。
走者がスタートを切る。
守備位置の意味が、打球方向によって突然つながる。

その瞬間まで黙秘していた関係者が、一斉に供述を始める。

白球が飛び、関係者が一斉に供述を始める。

白球は飛ぶ。

アリバイは崩れる。

だから野球の一球は、単に白い球が秒速何十メートルで移動する現象じゃない。

隠されていた意図が、結果という形で自白する瞬間なんだ。

初球では容疑者が多い。

しかしカウントが進むにつれて、使える球種、狙えるコース、取れる作戦が絞られていく。

情報が増えるたび、選択肢のアリバイが崩れていく。

野球には、世界がだんだん狭くなる快感がある。

そう、理詰めで逃げ道をなくし、容疑者が徐々に絞られていく感覚。

可能性が削られ、最後に一本の答えへ追い込まれていく。

言うなれば、❝収束の美学❞だ。

だから野球ファンは結果を見ながら、結果だけを見ていない。

起きたことから時間を逆回転させ、選手の頭の中にあったはずの設計図を復元している。

俺たちは、単純に打球の行方だけを見ているんじゃない。

「なぜ、その球を、そこで、そう打てたのか」という犯行動機まで取り調べている。

野球中継にリプレイが多いのは、同じ映像をもう一度見せたいからだけじゃなくて。

俺たちに、じっくり現場検証をさせたいんだ。

サッカーピッチには、道路が一本もない

一方、サッカーには句読点が少ない。

ボールは流れ、人は走り、空間の価値は秒単位で暴騰と暴落を繰り返す。

さっきまで一等地だった場所が、三秒後には誰も寄りつかない原野になる。

サッカーのピッチは芝生に見えるが、実際には地価が毎秒更新される不動産市場である。

しかも、最初は道路も信号も区画もない。

選手たちは走ることで道路をつくり、止まることで広場をつくり、相手を引きつけることで別の場所の地価を上げる。

フォワードが裏へ走る。

相手のセンターバックがついていく。

その移動によって中央に、ほんの二秒だけ使える空白が生まれる。

そこへ別の選手が入る。

ボールが通る。

街ができる。

そして、すぐ消える。

選手が走り回ることにより、地価が乱高下する。

この街の固定資産税はゼロ。

寿命も、だいたい二秒。

サッカーの創造性というと、華麗なドリブルや意表を突くヒールパスなど鮮やかなプレイが注目されがちだ。

もちろん、それらは派手で美しい。

だが本当の創造性は、ときにボールへ触れてすらいない。

次の人が選べる未来を、一個増やすこと。

サイドバックが内側へ入り、外側にバイパスを開通させる。

ボランチがわざとボールを保持し続けて相手を寄せ集め、逆サイドに巨大な更地をつくる。

ウイングが幅を取るだけで、中央の路地が少し広がる。

一人の走りが相手の守備ブロックを数メートルずらし、その数メートルが、まだボールを持っていない味方の未来を救う。

サッカーでは、スペースは「そこにあるもの」じゃなくて。

誰かが別の場所を犠牲にして、発生させるものだ。

可能性は一つへ絞られるのではなく、人の動きによって枝分かれしていく。

こちらは、❝拡散の美学❞である。

俺たちはソファから、無許可で道路を通す

サッカーを観ている俺たちは、じっとしていられない。

野球では腕を組むのに、サッカーでは上半身が前へ出る。

そして、テレビ画面の外側へ向かって人差し指を伸ばす。

「そこじゃない! 一個飛ばして逆!」
「今、中央が空いた!」
「外に出せ! 外! 外!」

身を乗り出し、根拠もない確信だけで勝手な指示を飛ばす。

用地買収ゼロ秒。

住民説明会ゼロ回。

確信だけで六車線が開通する。

画面の中の選手にこちらの声は届かない。

それでも俺たちは、脳内で勝手に道路使用許可を出し、再開発区域を指定し、逆サイドに六車線のバイパスを開通させる。

無許可の脳内行政指導である。

ただ、オフサイドという極めて曲者で厳格な建築基準法が立ちはだかる。

少しでも早く未来へ建物を建てると、旗を持った検査官がすぐ工事を止めに来る。

オフサイドという魔物。素人には分かりづらいルールの筆頭株。

わずか数センチの越境でも、工事は即時停止。

異議申立てはVARへ。

それでも俺たちは懲りない。

「今の走り出しなら合法だった」
「いや、肩が出ていた。違法建築だ」

スロー映像を見ながら、体のどの部位が都市計画法に抵触したかを議論する。

たった一試合で、全国に何百万人もの闇行政官が誕生する。

もちろん全員、無資格である。

野球の失敗は「読み負け」、サッカーの失敗は「未来の時差」

二つの競技の違いは、失敗した瞬間に一番よく現れる。

左は推理が外れた。右は未来の完成時刻がズレた。

挿絵左は推理が外れた。

同右は未来の完成時刻がズレた。

野球の失敗には、推理小説の苦みがある。

変化球を待っていた打者の内角へ、150キロの直球が突き刺さる。

バットは動かない。
審判の手が上がる。
打者は一拍遅れて天を仰ぐ。

そこには「技術が足りなかった」だけでは片づけられないものがある。

読んだ。
外した。
裏をかかれた。

あるいは、読まれていることまで読んだ相手に、そのさらに裏へ回られた。

野球の失敗は、意図と意図が正面衝突したあとの交通事故調査なんだな。

対して、サッカーの失敗には妙な詩情がある。

ミッドフィルダーが、誰もいないスペースへ息を呑むような鋭いスルーパスを出す。

しかしフォワードは走っていない。
その場の足元でパスを受けるつもりだった。

ボールは誰にも触れられず、芝の上を静かに通過し、そのままタッチラインを割る。

スタジアム全体に巨大な疑問符が浮かぶ。

「今の、誰に出した?」

だが、パスを出した本人には見えていた。

テレビの前で同じ未来を見ていた数人にも視えていた。

二秒後、そこに完成するはずだった街が。

パスが間違っていたわけじゃない。

出足が間違っていたとも限らない。

出し手と受け手が、それぞれ別の時刻表で未来へ向かっただけだ。

サッカーには、ときどき一人だけ二秒後の世界から戻ってきたような選手がいる。

問題は、その人の未来に誰も住んでいないことだ。

野球は「なぜ」を暴き、サッカーは「次」を建てる

もちろん、野球にも都市開発はある。

極端な守備シフト、意表を突くバント、エンドラン。

選手の配置によって、グラウンドの意味は変わる。

逆にサッカーにも推理はある。

相手がどこへ誘導しようとしているか、どの瞬間にプレスのスイッチが入るか、守備陣の陣形にどんな意図が隠れているかを読む。

違うのは、どちらの要素が観戦中の脳内で主役になりやすいかだ。

野球を観ながら、俺たちは問う。

「あの人は、あの局面で何を考えていたのか?」

サッカーを観ながら、俺たちは問う。

「この一歩から、次にどんな空間が立ち上がるのか?」

片方は世界の裏側へ潜り、もう片方は世界の先へ手を伸ばす。

野球ファンは、世界の裏側にある理由を暴こうとする。

サッカーファンは、世界の先にある形をつくろうとする。

片方は、見えない意図へ潜っていく。

もう片方は、まだない未来へ手を伸ばす。

野球は、過去の証拠で未来を当てる。

サッカーは、未来の幻で現在を動かす。

俺たちがスポーツを観て興奮するのは、勝敗だけが理由じゃなくて。

自分の頭の中にだけあった推理や道路が、現実と一瞬だけ重なることがある、そのカタルシスを味わいたいからだ。

予想した球が、本当に来る。

見えていたコースへ、本当にパスが通る。

その瞬間、脳内では小さな花火が上がる。

「俺にはわかっていた」

という、きわめて能天気だけど、きわめて気持ちのいい花火である。

試合後、二つの専門職は居酒屋に吸収される

やがて九回が終わる。
あるいは終了の笛が鳴る。

名探偵は一旦帽子を脱ぎ、闇の都市計画官はヘルメットを置く。

そして全員、近くの居酒屋へ向かう。

乾杯のグラスが鳴った瞬間、肩書はひとつに統合される。

居酒屋限定・全権総監督。

采配も語る。
選手起用も語る。
育成方針も語る。
クラブ経営も球団編成も語る。
二杯目からは組織論に入り、
三杯目には国のスポーツ政策まで管轄し始める。

もちろん、誰からも任命などされてはいない。

各々が自分勝手に持論を展開する、メチャクチャ楽しいひととき。

責任は最初からゼロである。

だけど、脳内の権限だけは酒量に比例して増えていく。

だが、それでいい。

いや、それがいい

スポーツ観戦とは、身体を動かしていない人間の脳が、いちばん忙しく走り回る時間なんだから。

野球では密室の真相を追い、サッカーでは存在しない街を建てる。

外しては忘れ、当てては誇り、試合後にはすべてを「俺ならこうする」で再開発する。

俺たちがスポーツ観戦をやめられないのは、勝った夜がうれしいからだけじゃなくて。

この、何の資格もない脳が勝手に世界を解き、勝手に世界を設計するという、愛すべき知性の暴走を、もう知ってしまっているからである。

そして俺たちは今日も、テレビの前という最高の「現場」へ帰ってくる。

そう…

──次の密室と、次の街が、そこで俺たちを待っているかぎり──

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