「あなたのため」という名の虐待。親と学校が押し付ける“正解”が、私たちから奪うもの
RADWIMPSの楽曲「正解」に、こんな一節があります。
「答えがすでにある問いなんかに用などはない(要旨)」
まったく、そうだと、私は感じます。
そもそもこの広い世界に、いや銀河を見渡したところで、万人に共通する絶対的な「正解」などは存在しません。
私たちは、長きにわたる学校「教育」と呼ばれるものの中で、
「正解にたどり着くこと」
・・・を至上命題として指導され、一種の、あまりにも恐ろしき洗脳を何年も繰り返され続けて育って来ました。
しかし、学校という特殊に閉ざされた空間で与えられる「正解」という幻想など、現実社会においては単なるまやかしに過ぎません。
実社会に出れば、そこは多様な状況と人間関係が入り乱れる大きな海です。
ナントカ先生というような誰かの如何にも有難い、いや怪しい教えを乞うのではなく、実地で揉まれて、相手に合わせながらも自分を主張して、精一杯生きていく、その泥臭い過程の中にこそ、その時の自分にとっての「唯一の『正解』」が立ち現れます。
そしてそれは、学校で学んだ模範解答とは原則として全く一致しないものです。
私自身、社会での様々な、語りつくせない数多くの理不尽さを乗り越えて時には乗り越えずに廻り道をする様な経験を経て、ようやくその真実に続く道にたどり着きました。そして引き続きより真実に近づいて行きます。
そう考えると、幼少期から大人になるまで、子どもではあったがそれにしても無批判に「学び」続けてしまったあの学校生活は、いかに無駄な時間と空間の浪費で、しかもその後の人生を長年にわたって大きくただただ誤り続けて来た原因だったと、そう痛感せざるを得ません。

親のコンプレックスと「愛情という名の虐待」
学校の「正解」を絶対視する構造は、往々にして、一部の富裕層を除く、この国の中の極めて多くの家庭内でも再生産され続けています。
例えば、私の母親を例に挙げると、自身が中学までしか行くことが出来ず、高校へ通う同世代に対して大変惨めな思いがあった様子でした。
だからこそ、家計が苦しい中でも「自分の手で、せめて子どもは高校まで卒業させたのだから、親として感謝されるべき」という強い自負そして思いがあったことと推定します。
しかしそれは、当時子どもであった私の人生への強制的な介入であり、親の、実に、あまりにも思い上がった、そして勝手な理想の押し付けでしかありませんでした。
当時の私は、とりあえず何も考えない状態で県立高校の普通科という、ただ年齢に合わせてそして中学三年生の時の担任の誘導と洗脳に乗ってしまって行ってしまっただけという、自分にとっての目的も意義もなかった環境に自分自身やがて無理が生じていました。
県立の普通科という規格化され過ぎてしかも何の意義も特徴もなかった形だけの「教育」の枠にはめ込まれ続けることは、自分自身に関してだけは、自分の人間的な成長を阻害すると、ようやく気付き始めていました。
この世のシステムによって大量生産されただけの、到底尊敬できない大人があまりにも多く混じりすぎた集団の者たち、そしてそんな中にも人間的には本来は尊敬し見本とすべき人が中に居たとしてもその学校そして県や国や文部科学省の制度上教育者ではなく管理者として動かざるを得ないそんな者たちを無条件に「先生」と呼ぶことを強制される環境。
そんなところから脱出し、自分の責任と意思で生きていきたい。
そういう風に、ささやかながら、それまで子供だった自分がこれから大人になるにあたって自分のために本当に必要な方向に進んで行こうと思い始めていたのでした。
しかし、それには、当時未成年だった私にとって、母親の権力と強制力は絶対的な壁として立ちはだかったのでした。
親は、私自身の「学校を辞める」という、自分で自分が成長するためでそしてそのために余計な事を行わず社会に早く出て多くの現実を学び大人になろうという意志を、例え理由がどうあろうと、残酷にも、決して、その絶対的権力で許さなかったのでした。
世間一般の「常識」という幻想や「周囲の目」など、今となって思えばこれからの日々成長し代わって進歩していく社会の現実を全く見ずに、自分の凝り固まった過去の概念をただただ金科玉条の様に押し付け続け、
「高校を辞めたらまともな大人になれない」
「あり得ない」
・・・などと、ありとあらゆる形で私を責め立てて追い込んだのでした。
そして、そのあまりにも恐ろしいまでの強権圧力に、当時の自分を自分で曲げ切ってでもただただ耐えるしかなかった私は、
「自分の人生は自分のためではなく、自分をここまで女手一つで育ててくれた母親のためのもの」
・・・と自分で無理やり強制的に自分の中で思い違いを行い、そしてやむを得ずそのまま、本来ならそして自分がこの世で生き続けて天寿を全うするのにはどうしても必須なものである、自分にとって何よりも大切にすべきはずの自分の「心」を自分自身で継続して「殺し」続けながら(今から思えばこれぞまさしく自分もこの国にあまりにも多い若年層自殺の一人に、何か一歩でも間違えばそうなっていた可能性も大きかった、という、なんとも恐ろしい心理状態。自分fで自分を、よくそんな環境で、よく生きて来られたなと、自分である意味呆れる状態)、県立高校の普通科という何の特徴も意味もない所(中学3年の時もっとちゃんと自分の意思をもって、何の特徴も意味もない県立普通科ではなく、例えば別の市の市立商業高校へ行くとか、あるいは自分自身(こんな程度の高校の卒業やこの高校から多数行く大学には行かずに自分だけこの高校からは誰も現役合格しない様な大学の学部に行くためにひたすら頑張った受験勉強を高3ではなく中3の時に行って県内にある国立工業高専を目指すべきだった、そうすれば内申点を気にして中学教師という怪物どもに自分をひん曲げて不本意に媚を売る必要も全くなかったのにという後悔)に通い続け、学習意欲どころか高校卒業への誇りもなくあまりに大きな自分の惨めさばかりを心の奥底に隠し続けたまま高校にただただ囚人の様に通い続けて形だけ卒業し、そしてその捻じ曲がった精神の影響で、その卒業後の進学先選択の大きな誤りそして過ち、大新聞社の新聞奨学生という名の実は世間を知らない若い者に何の抵抗もなく多額の借金をさせてそれを名目に日々強制労働させるための口実を作る制度の被害にも遭い(その他、この制度の利用に関しては、その大新聞社の名という、社会的に信頼された会社の制度のもとに行くのだから大丈夫だと信じて疑わなかったのがあまりに世間知らずで、その弊害のため現実には、その制度の下で最初の6ヶ月だけで済みはしたものの、現実に、後に暴力団の構成員として逮捕されたと報じられた新聞販売店長のもとで過酷な働かされ方をしていた現実。今後稿を改めて発表する予定)学業さえままならず、その他数々の本来なら避けられたはずの失敗そしてそれより重篤な自分自身のみじめさそして不幸さを抱えたまま、非常にまずく不完全でなんと言っても一般常識がなくそれを身に付けようともしない状態の社会人にならざるを得なかった、という現実が容赦なく襲い掛かり、そしてそののち、何十年もの自分の人生にわたってつい最近まで公私にわたって自分の人生を誤り続けるという、大変にまずい状態に陥りながら、何とか自分の命と健康という最低線だけぎりぎりつないできた状態でした。
「失敗する権利」を奪われた子どもたちの末路
親は、圧倒的な権力と経験(と言っても実はこれからの社会には通用しない過去の常識でしかない物も多数含む)の差をもって、子どもにとって全く「正解」ではないものを強要してきます。
この問題の最も残酷な点は、その選択によって将来子どもに当然のように数多くの悪影響が生じたとしても、親はその責任を取らないし、取れないし、取ることさえ物理的に無理だということです。
数十年後、子どもがその弊害に直面する頃には、親はすでに寿命を迎えているか、老いて心身が弱っていて、今更・・・責任を問うのは残酷だとさえ思わせます。
被害者である子どもは、加害者である親を責めることも、謝罪を求めることもできず、ただ過去の呪縛を抱えたまま生きるしかありません。
親の権力によって無理やり自分が間違いと思わされ、そして自分の人生の選択権を奪われた子どもは、健全に大人になることを許されません。
その結果生まれるのは、年齢と体だけは大人になっても、自立した精神という「中身」が全く伴わない実体です。
私自身がまさにそうであったと、実体験をもって証言します。

個人の空洞化は、国家の崩壊に繋がる
自己決定権を持たずに、自分の頭で考えられない「中身のない大人」が増えれば、それは確実に地域社会、ひいては国全体に取り返しのつかない悪影響を及ぼしていきます。
これはまるで、現在のこの国のあり方そのものではないでしょうか。
膨大過ぎる国費を軍備につぎ込んで、なおかつ「後年度負担」という制度を使って国家的規模で大規模で超多額の分割・リボ払いまで行い、「表面的」な威容だけを整えようとしていますが、この国の内部では貧困化が進み続け、社会の土台が崩れかけています。いや、このままではごく近いうちに必ず崩れます。
いくら外側を見かけだけハリボテのように武装(いや正しくは偽装かも)したところで、他国から軍事や武力で攻撃されるまでもなく、経済や貿易を一部の他国からほんの少し操作されただけでこの国はあっさりと崩壊してしまうような、極めて脆い状態です。
これが、千代に八千代に継続して歴史を積み重ねて行くべきこの国、日本の現実です。
親や学校が押し付ける「外側の正解」で形だけ武装させられ、内部の「自分で考える力」が育っていない個人。
軍備という「外側の力」に格好だけ依存して、内部の「社会の豊かさ」が実体なく空洞化している国家。 両者の構造は、あまりに恐ろしいほどに似通っています。
私たちはもう、誰かが用意した「正解」を生きるのをやめるべきです。
たとえ間違え、傷つくことになったとしても、自分自身の頭で考え、自分の意志で選び取る。
その責任を引き受けることこそが、本当の意味で「大人になる」ということであって、この脆い社会を根底から立て直す唯一の道、そうなのだと、私は確信しています。

そして…大変遅きに失した感は…自分としてはあるのですが、自分が今からでも「自分らしく、自分に責任を持って」生きて行くための、自分自身の必要な事として…
この歌…もう50年前後、前の歌かも??で、その中に、
「男は」「女も」「人間なんて」
いずれも「2通り」であると、歌われています。
自分自身、長年人生を経験してわかったことは、上の3つだけでなく、この世のありと、あらゆるものは、象徴的に必ず「2通り」あるということです。
例えば…高齢者男性だって、
クソジジイ(老害)
豊富な人生経験を今に有益に活かす、尊敬すべき賢人で先達というべき方
…の、2通り。こんな例は、この世のあらゆる物や事に、存在します。
「家族」というものも2通り。
両親と兄弟姉妹、そして祖父母やそこから連なる親戚縁者。
・・・それが、ひとつ。自分では全く選べない存在。自分にとって過去の存在。
もう一つは、自分の配偶者・今から未来へのパートナー。
そしてそこから連なる自分らの子どもたちや、その他、関係する人たち。
・・・それが、もうひとつ。自分にとって、現在の存在、選べるそして選ばれる存在。
そして、未来に連なる存在。
つまり、選べない家族と、選べるあるいは自分で制御できる家族。
家族って、そんな2通り。
このうち、私は、やはり遅きに失した感はないでもないのですが、今からでも、より良く生きて行って人生をきちんと全うするため、そして何より、このままでは決して自分の性格上否定しきれない、今後自分の人生を自分で放棄してしまう可能性を完全にゼロにしてしまうために、という非常に大きな意味合いを込めて、やむを得ず、前者の「選べない」側の家族を、完全に切り捨て今後全く関係のないものとする、こととしました。
