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【見方を変えた死刑廃止論】死ぬこと、殺すことが「刑罰」って、ぶっちゃけ割に合わなくないですか?(゚Д゚;)

 死刑廃止論。
 そう聞くと、だいたいの人はこう思うわけです。

「またその話? 冤罪があったら取り返しがつかないとか、人権がどうとか言うんでしょ?」

 はい、もちろんそれらはとても大事なことです。冤罪で死刑なんて、国家による過失致死どころの話ではありませんから。
 でも今日は、そういう教科書的な話ではなく、もっとこう、私の個人的なモヤモヤというか、「今の日本のシステムとして、死刑って、なんか割に合わなくない?」と思ってしまった挙句の果てにこんな記事になってしまった、というお話をさせてください。

 …全くもって私独自の視点になってしまいますが、ちょっと聞いていってください。


1. 「死」って、本当に罰になってるの?(むしろ「逃げ」説)

 まず、ここから疑ってかかりたいんです。
 人間、誰でもいつかは死にます。
 事故だったり、病気だったり、寿命だったり、その他色々。この世に生まれた以上、致死率は100%という今までの実績があります。

 で、とてつもなく酷いことをしたその人物が、死刑判決を受けて執行される。
 これ、一見すると「目には目を」でバランスが取れているように見えますが、本当にそうでしょうか?

 死んでしまったら、死なせてしまったら、そこで終わりです。
 罪の意識に苛まれることも、狭い独房で何十年も自分のしたことの重さに押しつぶされることもなくなる。
 言ってみれば、「強制終了(リセット)」であり、自身が真剣に向き合うべき自身の犯してしまった行為の大きさ重さに押しつぶされて、場合によっては自分のそういう心理状態さえも国がその当人の生きる責任を放棄させてあげるという形にさえなってしまっているのかも?です。

 被害に遭われた方のご遺族や関係者の方々は、その行為者が死んだ後も、ずっと悲しみや喪失感と共に生きて行かなければいけない。
 なのに、犯人だけが「死」という形ですべての手続きを終えて、この世からさっさと退場してそれですべての責任を取ったかの顔をされてしまうようなことが公的に許されている。

 これ、犯人にとって一番キツい罰になっていると言えるんでしょうか?
 むしろ、「死ぬまで、そして死ぬ瞬間まで、自分の罪と真剣に向き合い続けさせる」ことこそが、刑罰としては遥かに重く、かつ本質的だとは言えませんでしょうか?

「死んでお詫び」なんて、もう武士の時代ではないんだから。
 生きて、償えない罪の重さを背負い続けさせる。その苦しみから、国が「死刑」という制度で楽にさせてやってどうするんだ、とも思うわけです。

2. 「死にたいから殺した」という最悪のパラドックス

 最近、たまにこういう主張をニュースで耳にすることがありますよね。
「死刑になりたかったから人を殺した」
「自分では死ぬ勇気がないから、国に殺してもらいたかった」
 …というような供述。

 これ、聞いた瞬間に背筋が凍りませんか?
「死刑制度」とその現実の執行がこの国に存在していること自体が、新たな殺人の動機になってしまっている…ってことなのかな?

 もしこの国に死刑がなかったら?
「人を殺しても、死んで楽にはなれない。一生刑務所で生きて生きて生き抜いて苦しみ続けなければいけない、そしてその監視状態によりそこで自ら死ぬことさえ現実的ではなく許されない」という現実しかなかったら?
 少なくとも、「死刑になりたい」などという個人の勝手でふざけた理由で、全く無関係な誰かがランダムに、まるで宝くじで最高額当選するかのように犠牲になってしまったことだけは防げたかもしれない。

「凶悪犯罪の抑止力として死刑が必要だ」という意見は根強いです。
 でも現実には、その制度を逆手に取って、「国に自殺を手伝わせる」ために他人を巻き込む人物がいる。
 
死刑制度が存続する限り、この「自殺願望の巻き添え」になる被害者が生まれ続けるリスクを、私たちはどう考えればいいんでしょうか。

 そしてもっと言えば、この「凶悪犯罪の抑止〜」という意見さえ、実は本当はこの国の少数意見にしか過ぎなくて、それが一部の権力者にとって都合のいい意見であるらしいので、まだまだ影響力の強いテレビなどを使って、その方向に世間の意見を誘導する目的で、如何にも多数意見の様に当たり前であるかの様に流され誘導されている…という説さえ、決して否定し切れない現状が確実に存在します。

3. 「執行ボタン」を押しているのは、実はあなた…だという現実

 そして、一番考えたいのがこれ。
 ここは日本国。主権在民の国です。

 戦前の旧憲法のもとでなら「天皇陛下の名において」執行されていたと言えますが、今は違います。
 法務大臣が執行命令書にサインをする。その大臣を選んだのは総理大臣で、その総理を選んだのは国会議員で、その議員を選んだのは……そう、この国の主権者である私やあなた、国民一人ひとりです。

 死刑執行の現場でボタンを押す刑務官の方々も、私たちの代理として、そして代表として、公務としてそれを行ってくれています。
 つまり、「国が殺す」というのは、「私たち自身が(私たちの代理人であり代表者である法務大臣と現場の執行者に委託する形で)殺す」ということと、構造上はイコールなんです。

「あんな酷い奴は死んで当然だ」とネットで書き込むのは簡単です。
 でも、その「死んで当然」を実行するために、誰かの首にロープをかけ、床を落とす行為。その行為の責任(の一端)を、「主権者」として私もあなたも例外なく背負っている。

 私たちは、日常生活で人の命を奪うことなんて絶対にしませんよね。
 でも、制度を通すと、私たちは間接的にであれ事実として殺人に関与することになるし、現実になっている。
「正義のためなら、私たちは殺人者(あるいはそのスポンサー)になってもいいのか?」
 この問いに、胸を張ってイエスと言える人は、実はそんなに多くはないのではないでしょうか。

4. 「排除」ではなく、「解決」を目指す社会へ

 では、どうすればいいのか。
「目には目を」で犯人をこの世から消去しても、被害者は帰ってきません。時間は巻き戻らない。
 死刑の存在は、ある意味で「思考停止」なのだと思います。
「こいつは社会に不要だから消去して終わり」にしてしまうと、そこで全てが終わってしまう。

 なぜそんな怪物が生まれてしまったのか。
 社会のどこにエラーがあったのか。
 それを徹底的に解明し、二度と同じような悲劇を生まない社会システムを作ること。
 そして、犯人には生きて生きて生き抜いて無理やりにでも生き抜かせて、その検証材料として、また労働力を提供する存在として、社会に貢献させ続けること。

 感情的には「許せない」のは自然で当然で当たり前です。
 でも、社会システムとしては、「復讐」よりも「再発防止」と「真の償いに一歩でも近づけること(その行為者自身がどんなに苦しい状態に陥ろうとも生きて生きて無理やりにでも生きさせてどこまでも生き続けさせること)」を選んだほうが、結果として私たち国民のためになるし、理にかなっている(=コスパがいい)のでは?

 人の命という、本来人間には制御不能であり、またそうであるべきものを、国の制度として無理やり操作するのはやめる。
 そして、私たちは「殺人を行う国家の主権者」という重荷を下ろす。

 そんな風に、ちょっとドライに、でも現実的に「死刑廃止」を考えてみるのも、一つの選択肢だと思いませんか?

 死刑執行という名の「新たな殺人」をこの国に一つ増やすより、これからの「生の質」をどう守るか。
 そろそろ、そっちにリソースを全振りしてもいい時代なのではないかなぁ?、と思う今日この頃です。

5. (2026/6/4追加)死刑以外で若くして亡くなった人って、そんな『悪人』と同等なの??

 …この記事を発表してから数ヶ月。
 書いた当時は考えがまとまらず掲載項目とするのを見送っていたことですが、やはり自分としては書かなければならない、ということを追加します。

 この世の中、いろんな方々が居て、その人その人それぞれに事情は全く様々で、40代、30代、20代、10代、それ未満…『若くして亡くなった』と世間一般に思われ惜しまれその他残された者にとっては誠に言いつくせない形で亡くなられる方が少なからずいらっしゃいます。

 そんな、若くして亡くなられた方は、生前、そんな、この国で『死刑』になるような人物と同程度くらい以上にに悪いことをしていたのですか?そんなことをする人だったのですか?それとも、もともとそんな悪人の素養を持つ人だったということなのですか?
 そういう人がなぜ、この国で重大で許しがたい様な罪を犯した人に対する最高刑と同等の目に遭うのですか?

 ・・・死刑が刑として存在する以上、こういう件に対する、納得できる説明を要求せざるを得ないのです。