【#創作大賞2026/#オールカテゴリー部門】応募作品(短編小説)『選べる死、選べない死』―後悔なき終焉のために―
登場人物紹介
麗奈(れな):母親。40代前半。かつて借金と育児に追い詰められ、心中を考えた過去を持つ。現在は冷徹なまでの合理性と静かな平穏を重んじ、娘に対しても過度な干渉を避ける独特の距離感を保っている。
樹奈(きな):娘。大学生。繊細で感受性が強く、日常のふとした瞬間に「死」の誘惑に囚われる危うさを持つ。母親の突き放すような態度に戸惑いながらも、その奥にある真実を求めている。
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私は、死にたいと告白してくる人に、むやみに明るく声をかけたり、必死に慰めたりはしない。それがたとえ、血の繋がった娘であっても。 「死」は、決して特別なものではない。それは日常のすぐ隣に、静かに、しかし確実に口を開けて待っている深淵のようなものだ。私はその深淵を否定せず、ただ見つめることだけを決めている。あえての声かけはせず、ただ「いつでも話せる」空気だけを整えておく。 それが、私なりの、娘の樹奈との向き合い方だった。
先日も、そんな距離感を保っていた。樹奈が買い物に出かけたまま、帰宅が異常に遅かった。24時をゆうに回り、1時近くになろうという頃。窓の外は、底の見えない深淵のように真っ暗で、時折車のヘッドライトが鋭く切り裂いては、また元の重苦しい静寂に戻る。その闇に吸い込まれないよう抗うように、リビングの掛け時計が規則正しい秒針の音を刻んでいた。 私は淹れたばかりのハーブティーの、かすかな湯気の揺らぎをじっと見つめていた。 スマホを手に取って電話しようとしたその瞬間、玄関の鍵が回る音がした。ドアが開くと、そこに立っていた樹奈の姿は、昼間出かけた時よりも明らかに疲れ切っていた。肩が落ち、唇は薄く引き結ばれ、目はどこか虚ろで、いつもの活発さは影を潜めている。買い物袋を両手に提げているのに、その重さが心の重さのように見えた。私は淡々と声をかけた。「遠出して買い物してたの?」樹奈は小さく頷いただけで、荷物をリビングに下ろすと、ふらりと私の部屋に入ってきた。
そして、ためらいもなく私のベッドに腰を下ろした。「ちょっと、外に出かけていたままの格好でベッドに座らないで。着替えてきてよ。埃もついてるでしょ」
麗奈の声は、自分でも驚くほど硬かった。樹奈の絶望に触れるのが怖くて、せめてこの部屋の清潔さと、いつも通りの秩序だけは死守しなければならない。あの借金に追われた日々、心中を考えた夜の、泥を啜るような混沌には二度と戻りたくない。ようやく手に入れたこの静かな平穏を、外から持ち込まれる「死の気配」に壊されたくないという、強迫観念に近い必死さが言葉に混じる。
樹奈は一瞬びっくりしたような顔をしたあと、照れ臭そうに小さく笑った。その笑みの端に、かつての私と同じ、塩を噛んだような苦さが滲んでいるのを私は見逃さなかった。
「……死にたくて、海を見に行ったの。でも、波の音が心臓の音よりずっと大きくて、自分が砂粒みたいに削られていくのが怖くなった。海があまりに広すぎて……私一人が消えても、明日も同じように波が寄せるんだと思ったら、馬鹿らしくなって。だから、生きようと思って、帰ってきた」 その言葉が、私の胸の奥に眠っていた古い記憶の蓋を叩いた。樹奈の見た海と、私がかつて見た海。それは同じ色、同じ残酷なまでの無関心さで、私たちを突き放したのだろう。その拒絶に救われるという皮肉な血の巡りに、私は微かな戦慄と、どうしようもない愛おしさを覚えた。
「心配した……?」樹奈が上目遣いに聞いてきた。
私は少し間を置いて、静かに答えた。「生きるのも死ぬのも、あなたの自由よ。自分で考えて、行動しなさい」言葉は冷たく聞こえたかもしれない。でも、それが私なりの、精一杯の信頼だった。私を「守ってあげたい」という甘い気持ちで縛りたくなかった。彼女の人生は、彼女のものだ。樹奈はしばらく黙って私の顔を見つめていた。
その瞳の奥に、突き放されたことへの戸惑いと、それでも何かを求めているような縋りつきが見えて、私の胸は一瞬、ひどく軋んだ。本当は抱きしめて、「生きていてくれてよかった」と泣き崩れたい衝動が喉元までせり上がっていた。けれど、それをすれば彼女の覚悟を、彼女自身の足で帰ってきたという尊い決断を、自分の感情で塗りつぶしてしまうことになる。
私はあえて視線を外し、すっかり冷めきったハーブティーに手を伸ばした。熱を失い、ただ苦味だけが際立つ液体を喉に流し込む。その冷たさが、昂ぶりかけた感情を無理やり抑え込み、私をいつもの「冷徹な母」へと引き戻してくれる。指先が微かに震えているのを、樹奈に悟られないように。 やがて、ふっと息を吐いて「……うん」とだけ言い、ベッドから立ち上がった。その背中は、先ほどより少しだけ軽くなったように見えた。
それから数日は、お互いにあの夜のことに触れずに過ごした。言葉にすれば、せっかく繋ぎ止めた平穏が、脆く崩れてしまいそうで怖かったのかもしれない。 そして、ある夜更けのこと。
テレビでは、海外の紛争地で食糧難に喘ぐ子供たちの特集が、音量を絞って流されている。痩せ細った子供が力なく地面に座り込んでいる映像を、樹奈はじっと見つめていた。
画面から漏れる青白い光が、樹奈の横顔を無機質に照らし出している。私たちはしばらくの間、言葉を交わすこともなく、ただその絶望的な光景を共有していた。部屋を支配する静寂が、時計の刻む音さえも重く感じさせた。
私は本を閉じ、深入りしすぎない距離を保った。
「お母さん……ああいうの、餓死が一番悲しいって、本当にそう思う?」 画面の向こうの絶望を指すように、樹奈が低く呟いた。
私は静かに頷いた。 「ええ。この世で一番、静かに尊厳を削り取られる死だと思う。借金に追われていたあの頃、あなたの口に食べ物を運ぶのが精一杯で、私は三日間、水だけで過ごしたことがあった」 樹奈が抱えたクッションを、無意識に強く握りしめるのが見えた。 「最初はただ、頭の中から色が失せていくような感覚だった。自分の意志も、愛情も、未来への希望も、すべてが空腹という霧に飲み込まれていくの。選べないまま、ただ命の灯が細くなっていく……。 あれは、自死や心中とは違う。後者にはまだ『自分で終わらせる』というわずかな主体性があるけれど、飢えにはそれすら奪われる絶望があるの」 樹奈は低く呟いた。 「……だから、一番悲しいの?」 「ええ。だから私は、自分の意志とは無関係に、ただ生きる糧を奪われて消えていく命を思うと、胸が締め付けられるのよ」 樹奈はしばらく黙って、私の言葉を咀嚼するように視線を彷徨わせていた。その瞳には、今まで知らなかった母親の欠落に対する、戸惑いと共鳴が混じっている。
「……私も、若い頃、死に近づいたことがある」
二十代半ばの頃、子育てと家族の借金に追い詰められて、心中を考えた。父親を残し、まだ幼いあなたを連れて、すべてを終わらせようと海の近くまで行った。
樹奈が弾かれたように顔を上げた。その瞳が、不安げに揺れている。私はあえて樹奈を見ず、遠い記憶をなぞるように言葉を継いだ。
「あの日も、海は鉛色に濁っていた。あなたが言ったように、あまりに広すぎて、私たちの絶望など飲み込む価値もないと突き放されているようだった」
樹奈が、小さく息を呑むのがわかった。彼女はクッションを抱える腕に力を込め、私の次の言葉を待つように、固唾を呑んでじっとこちらを見つめている。 「まだ温かいあなたの小さな体を抱き上げ、ともに沈もうとする自分がいた。でも、あなたの寝顔を思い浮かべた瞬間、胸の奥で声が響いた。これは殺人だと」
「……殺人」
樹奈が、消え入りそうな声で繰り返した。
「そう。自死は、自分を殺す殺人。心中は、相手を道連れにする殺人。どちらも、誰かの命を奪うことに変わりはない」 樹奈の顔から血の気が引き、唇が微かに震えた。私の言葉を拒絶したいのか、あるいは自分の中の海と重ね合わせているのか、その瞳は激しく揺れ動いている。
沈黙が流れ、時計の秒針の音だけが、私たちの間にある重い空気を刻んでいた。 「私はそのとき、取り返しのつかない罪を犯そうとしていた。結局、思いとどまって帰ってきたけど……あの夜の冷たい風と、吸い込まれそうな海の広さは、今でも忘れられない」
死にたいと思う気持ち自体は、誰にでもある。でも、それを実行に移すかどうかは、命に対する責任の問題だと思った。
私は淡々と続けた。樹奈は何も言わず、ただ大きく見開いた瞳で私を見つめている。その視線は、責めるでもなく、ただ母親という一人の人間の深淵を覗き込もうとしているようだった。
「その経験があってから、私は餓死のことをより深く考えるようになった。ニュースで、紛争地で飢えに苦しむ子供たちの姿を見るたび、胸が締め付けられる。自分の意志とは無関係に、ただ生きる糧を奪われて消えていく命。あれこそが、この世で最も悲しい死だ。だから毎月、決まった額を食料支援や紛争地域の子供たちを助ける団体に寄付している。大した金額じゃない。罪滅ぼしみたいなものかもしれない。でも、誰かが『選べない死』に追い込まれるのを、少しでも減らしたい」娘はクッションの端を指で強く摘み、何かを言い淀むように口を微かに開いた。だが、すぐにそれを飲み込み、挑むような、それでいてどこか縋るような複雑な眼差しを私に向けた。
「……お母さんが心中を考えたなんて、初めて聞いた。でも、寄付なんて……それって、結局は自己満足じゃないの? 偽善っていうか。そんな端金で、誰かが救われるなんて思えない」 娘の声は震えていた。 私は娘を真っ直ぐに見据えた。 「そうよ、偽善よ。救われるかどうかなんて、私にはわからない。でも、何もしないで『悲しい』と嘆くだけの善人より、私は自分の罪滅ぼしのために金を払う偽善者でありたい。それで誰かの一食分になるなら、私の自己満足には十分な価値がある」娘は言葉を失い、しばらく私の顔を見つめていた。その瞳には、私の告白に対する畏怖と、突き放されたような寂しさが混ざり合っているように見えた。
だが、やがて彼女の肩からふっと力が抜けた。張り詰めていた糸が切れたような、それでいて、重い鎧を脱ぎ捨てたような清々しさが、その横顔に宿る。私の冷徹なまでの合理性が、彼女の抱えていた「死にたい」という感傷を、もっと大きな「生への責任」へと塗り替えたのかもしれない。 「……お母さんらしいね」
娘は小さく、しかし確かな声で言った。その口元には、先ほどまでの悲壮感はなく、どこか吹っ切れたような微かな笑みが浮かんでいた。 「私も何か、始めようかな。海に行ったとき、浜辺にゴミが落ちていて、生きてるってことは何かを消費しながら誰かを殺しているような気もしたから……せめて、バランスを取るようなことをしたい。死ぬ勇気があるなら、その分を何かに回せるかもしれないって、今、少しだけ思った」 私は微笑まなかった。ただ静かに言った。「いいんじゃない。あなたが自分で決めて、自分で続けることなら。寄付もボランティアも、所詮は自分のための行為よ。他人を救うためじゃなく、自分が後悔しないために。それで十分」娘は少しの間、私の横顔を見つめていた。やがてベッドから立ち上がり、私の肩に軽く手を置いた。
「お母さんが心中を考えた夜の話……いつか、もっと聞きたい。時間あるときに」「……ええ。いつでも」娘の足音が遠ざかっていく。
私は再び本を開いたが、文字は目に入らなかった。遠くで冷蔵庫が低く唸る音が聞こえ、日常の輪郭をなぞっている。胸の奥で、あの夜の冷たい波の音と、幼い娘の寝顔が、かすかに蘇っていた。私たちは、同じ海に拒まれ、同じ海に生かされた。その皮肉な血の繋がりが、今の私たちをここに留めている。自死も心中も、結局は命を奪うことだ。だから私は思いとどまり、娘にも同じように、自分の命に責任を持って生きてほしいと願う。寄付という名の偽善も、死に近づいた記憶も、すべては「後悔の少ない人生」を完遂するための、静かな闘いだ。
私は本を閉じ、灯りを消した。窓の向こう、あの夜と同じ深く広い闇が広がっていた。 だが、もう溺れることはない。 壁を隔てた隣の部屋で、娘も同じ闇を見つめているだろうか。 私たちはこの暗闇の世界で、それぞれの命を、ただ正しく、静かに、使い切るだけだ。

これからの私たちは、きっと……口角をあげて生きていけるだろう
#創作大賞2026 #オールカテゴリー部門 ----------------------------------------------------------------------
あとがき
最後までお読みいただき、ありがとうございます。 「死」は誰もが避けて通れないものだからこそ、もっと日常の中で、この親子のようにお互いの心の内を対話できる環境が必要ではないかと感じています。重いテーマではありますが、身構えずに語り合えるきっかけになれば幸いです。 それでは、また。
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一転し、ここからは他作品のご紹介です。 一話読み切りの、大人の心を癒すための童話を書いています。森の小さな哲学者ムーンが主人公の、不思議な物語です。 哀しみや切なさが散りばめられた優しい世界観が、あなたの心に届けば幸いです。 興味を持っていただけた方は、宜しければお立ち寄りください(⁎ᴗ͈ˬᴗ͈⁎)
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詩も書いています。詩の世界は、哲学に似てるなぁと思います。お嫌いでなければ是非、ご覧ください。また、興味を持っていただけた方は、詩に触れてみていただけましたら幸いです。°・*:.。.☆
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小説を書いています。私の大好きな妄想、空想の世界で一緒に楽しんでみませんか。お嫌いでなければ是非、ご覧ください。また、興味を持っていただけた方は、お立ち寄りいただけましたら幸いです。°・*:.。.☆
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