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一匹のホタルと、母の笑い声。

「あははははは!」

 私の「書く習慣」は、母の笑い声から始まった。

 あれは、私がまだ小学校2〜3年生の頃だった。夏休みの宿題で「読書感想文」を書くことになり、私は児童書『とべないホタル』を選んだ。

 著者の小沢昭巳さんによるこの作品は、生まれつき羽が曲がって飛べないホタルのピピが主人公。ピピの兄弟は、どう接していいかが解らず、ピピを仲間外れにしてしまう。

 ピピは「どうして自分だけ」と寂しい想いを抱えるが、本当は兄弟もピピに歩み寄りたいし、助けてあげたい。

 ただ、その術がわからなかったのだ。

 絶望を感じたピピの元に、ホタル狩りをする人間の子どもが目の前にあらわれる。そこから、今までピピへの接し方に思い悩んでいた兄弟たちが意を決して手を差し伸べ、ピピを助けようとする。その姿が実に感動的なので、気になる方は作品をぜひ読んでみてほしい。



 複数の書籍に目を通し、ライターとして活動もしている今なら、本が伝えたいテーマも理解できる。あの頃の私は、教科書や絵本以外の本を読む経験がほぼなく、本の内容をまるで理解できていなかった。

 感想文を書くのも初めてで、どう書けばいいのかさえ、さっぱり分からない。

 悩んだ末、私は表紙の絵に目を留めた。そこには、たった一匹のホタルがお尻に光を灯すイラストが描かれていた。


「ホタルは一匹じゃキレイではありませんが、たくさんいると綺麗です」


 それが、私の感想文の冒頭一文目だった。物語の内容には触れず、表紙のイラストだけを見て感じたことをそのまま書いた。まさに読解力ゼロを体現するような一文ではあるが、あの頃の私にとってそれが「精一杯」だった。

 不安でいっぱいになりながら、私は感想文を母に見せた。

「これでいいか見てほしい」

 もちろん自信なんてないし、不安だから母に見てもらったのだ。母は一瞬沈黙したのち、突然お腹を抱えて「あはははは」と笑い出した。

「なにこの文章!これは酷すぎる!」

 母は笑いすぎて引き笑いになり、目には涙まで浮かべていた。それは感動の涙ではなく、完全に「笑いすぎ」の涙でしかなかった。ショックだった。

 一生懸命書いたのに。どうして、お母さんは笑っているのだろう。やがて母はヒーヒー笑いながら

「感想文に『ホタルは一匹じゃキレイではありませんが、たくさんいると綺麗です』って、本のテーマと全然関係ないじゃないの!本を読まなくても、そんなことわかるし!当たり前のことを、もっともらしく書いているだけじゃないの!あはははは!」

とのたまったのである。悔しさを感じた私は、母に

「では、どうすればよかったの」

と真顔で尋ねた。すると母は

「本を読まなくてもわかる情報なんて、それはあんたの感想じゃないわ」

とピシャリ。まるで論破王のひろゆきみたいなセリフに、小学生だった私はかなりショックを受けた。

 そもそも母は昔から、子どもを「子ども」として扱う人ではなかった。子どもというより、「同志」のように接してくる。

 母は子どもに対し、常に幼い頃から求める水準もすこぶる高かった。8歳下の弟が幼稚園の頃は「この子は頭の回転が早くて、賢い」からと、バス停で降りてきた子どもと、乗る子どもの姿を見るなり

「今、降りた子どもと乗った子どもは、足すと何人?今すぐ計算して」

と示唆していた。そのエピソードを聞かされたのは、弟が国立大を卒業してからのことだ。どうやら母にとって、地方の国立大を出た弟の存在は誇りらしい。

 4歳下の弟には「この子が一番しっかりしている」と、周りに紹介したりもしていた。あの時はいつも笑顔で誰とでも話せる弟をうらめしくも思っていたが、大人になってから彼がそれなりに苦労していたことや、無理していたことも知った。

 弟達は母の期待に、それぞれ合わせようと奮闘していた。けれども、本当はどうしていいのかわからない『とべないホタル』の兄弟みたいなもので、ただただ迷いながら。自分なりに羽を広げようとしていたのかもしれない。

 私は私で「変わってる。あんただけはどう育てたらいいかわからない」とだけ言われていたので、私もどうしていいかわからなかった。

 年齢を重ねるにつれて、少しずつ母との歩幅が揃ってきた。今では、互いに冗談を言い合える「友達親子」のような関係を築けている。

 思えば、母にとって私は、最初から「娘」ではなく「友達」のような存在だったのかもしれない。小さな頃から、対話の相手として見られていたのだろうか。

 母の厳しさは、私を突き放すものではなく、自分の隣に私を並ばせるためのものだったのかもしれない。母ももしかしたら「親としての飛び方」がわからなかったのだ。

 歩幅の距離が掴めないあの頃は、ただただ母の存在が脅威でしかなかった。

「読書感想文を書くなら、まずは本が伝えたいテーマを理解しないと。それから、初めて『あなたの感想』を書きなさい。そうしないと、本の良さが伝わらないし、感想文として成立しないじゃないの」

 母は私に諭すように伝えた。そこで私は初めて、

「本のテーマや内容が難しくて理解できなかった」

と素直な思いを述べた。すると母は、

「なら、『難しくて、理解できませんでした』と素直に書けばよかったんじゃないの。それが、あんたの感想でしょう」

と、告げた。

 感想文で大切なことは、自分が感じた「素直な感想」を記すこと。そう教えてくれたのは母だった。

 小学生だった私にとって、「素直になる」ということ自体が、ひとつの課題だった。思ったことをそのまま言葉にするのは、怖い。

 転勤族の私は転校したばかりで、友達もいなかった。

 誰かに何かを伝えて、それが間違っていたらどうしよう。変だと思われたらどうしよう。そんな不安が、いつも心の奥に潜んでいた。

 その感覚は45歳になった今でも、完全には消えていない。誰かに何かを伝えるとき、ふと立ち止まってしまう瞬間がある。言葉を選びすぎるあまり、言いたかったことがどんどん言えなくなることなんて、もはや習慣のように続いている。

 きっと「素直さ」とは、単なる性格の問題ではなく、自分の根っこにある「自信」と深く結びついているのだろう。

 誰に何を言われようと、自分の感じたことを信じられるかどうか。その自信があってはじめて、率直な言葉を人に向けることができるようになる。

 素直になるには、勇気がいる。そしてその勇気は、日々の小さな選択の積み重ねの中で、少しずつ育っていくものなのかもしれない。

 読書感想文を、母に初めて読んでもらったあの日。母に笑われたショックや、告げられた言葉が呑み込めず、私は宙ぶらりんのような眼差しで日々を過ごしていた。

 そんな私を見かねたのか、母はそれから数日後、私に一冊の日記を渡した。日記の表紙は青くて、可愛い女の子やクマのぬいぐるみの絵も記されていた。

「今日から、日記を書いて母さんに渡して」

 母は顔色ひとつ変えずに、ぴしゃりと私に言い放った。

「えっ、何でそんなことしなきゃいけないの?」

「自己満足で文章を書いていても上達しないから。母さんがチェックして、変なところがあればアドバイスをする。その繰り返しを続けることで、少しはあんたの文章もマシになるでしょう」

 そう語る母は、仁王像のようにしかめっ面をしていた。あれから何年が過ぎて「どうしていつも怒っていたのか」と尋ねたら「育児ノイローゼ(自称)」だったらしい。

 母に逆らうのが怖かった私は、その日から母の想いを汲み取り、毎日日記を書いて母に提出し続けた。

 誰かに、自分の書いた文章を見せる。その行為は、プロのライターとして活動している45歳になった今でも緊張する。けれども、そのプロセスを踏むことで私は「母に喜んでもらえるには、どうやって日記を書けばいいのか」を考えるようになった。

 母は、私が日記を差し出すと、顔色ひとつ変えず、静かに目を通す。母は滅多に褒めないので、問題がなければ「はい」の一言で終了。

 褒められる訳でもなく、ただ淡々と日記を書いて、流れ作業のように母へ渡し続ける日々が延々と続く。

 毎日書くと、日記というものはネタが尽きる。

「爪を切りました。いつもは上手く切れないけど、綺麗に切ることができて嬉しい」

 時には、1~3行程度の日記を書くこともあった。文を書けないことを誤魔化すように、時には余白の部分にイラストを描くこともしばしば。

 文が短くても、母は「短い」と叱ることはなかった。ただ黙々と「文章におかしなところがないか」についてチェックしていた。その時の顔は、仁王像というより2本のツノが頭角から生えた般若の形相だった。怒っているのではない。真剣だったのだ。

 小学校高学年になると、母に日記を渡さなくなった。母も何かを察したのか、日記を提出しなさいとは言わなくなった。母も、チェックをするのが面倒になったのだろうか。それとも、私が母から自分なりに自立でもしたのだろうか。

 その後も中学校、高校、短大と、私は誰に見せる訳でもない日記をひたすら書き続けた。

 書き続けていると、時折「なぜ自分は誰にも求められない日記を書いているのだろう」と感じる瞬間が訪れる。

 この頃には「書く習慣」が体に染みついていて、書かないと生きていけない体になっていたのだろう。

 書けない時は、1行でも日記を書いていた。書けなくても、続けることは絶対に辞めなかった。気づけば、何も書かない日はウズウズするようになる。

 やがて、書くことが苦にならなくなった。それどころか、自分の悩みや葛藤を文章に綴ることで、頭の中を整理できるようになった。

 それから何十年かしたのち、私はライターとしてデビュー。41歳の頃に、出産のため里帰りをしていた私は、女性の生き方を伝えるメディア『UMU』に掲載されている、不妊治療経験をもつ女性にインタビューをした時の記事を母に見せることにした。

 母は認めてくれるだろうか。

 記事を見るなり母は、目を丸くして携帯画面をじっと凝視していた。

 文章、下手だったのだろうか。
 叱られるのだろうか。
 また下手くそだとか、当たり前のことを書くなとか。
 叱られたらどうしよう……。

 ドキドキしながら顔色を伺うと、母は

「凄い。本当にあんたが書いたの?信じられない……。あんたにも才能があったんだねぇ」

と、嬉しそうに声を上げた。その時ようやく、自分の胸に詰まっていたつかえがとれた気がした。

 私はずっと、書くことで母に認められたかったのだ。

 私の書く習慣は、先天性のものではなく「母が意図的に作った」ことで誕生した。

 母に認められた後も、記事を公開するたび(または記名記事が公開されるたびに)ヒヤヒヤするのは変わらない。

 誰かから「なんだこれは」と突っ込まれたらどうしよう。けれども、名前を出して「書く」というのは、誰に何を言われても「書く」という覚悟が必要なことでもある。わかっちゃいるけど、それがなかなか難しい。

 これからも、自分の中で葛藤を重ねながら、私は息を吐くように書き続けていく。書くことがやめられない。書かないと生きていけない。それが私にとっての書く習慣なのだから。

【完】

⭐︎この記事を書いた人


【追伸】

こちらのエッセイは、いしかわゆきさん主催のコンテスト「人生を変えた書く習慣 noteコンテスト」にて「最初の読者は「母」で賞」を受賞した作品です。

#創作大賞2026 #エッセイ部門  にも、応募しようと思って執筆していました。ぜひ、応募させていただきます。


(追記)
 こちらの記事は、年末恒例ハスつかさんの企画「 #2025のいっぽん 」にも参加しています。

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