母と結婚式
純白のベールとドレスに身を包んだ私は、右腕に父、左手には母の手を握りしめている。

両手に花ならぬ、両手に親。この時点で、結婚式として何かおかしい。普通は父親と歩くものだろう。
「新婦の入場です」
重たい扉がギィィィと音を鳴らして、静かに開く。その瞬間、割れんばかりの拍手が会場を満たしていく。スポットライトに照らされたスモークが、霧の粒子となって、ウェディングドレス姿の私をまばゆく包み込んでいく。
一歩、挙式会場に足を踏み入れると、父はその腕をそっと離して一歩退く。いつも家ではのっそりとテレビの前で寝そべっている父なのに、今日ばかりは随分とキレがよく、動きが滑らかだ。
そういえば父は、高校時代バスケ部のキャプテンで、足が速くてマラソンはいつも1位だったらしい。そんな「過去の栄光」を、これまで父から数百回も聞かされてきた。聞いてもいないのに。
当時の私は「で?」の一言で一蹴していたけれど。さすが、元バスケ部キャプテン。娘を花婿に送り出す本番で、父は緊張する素振りもなく、飄々とした様子で、颯爽と退散した。
家では存在感の薄い父だが、その無味無臭な性格が、大舞台では功を奏していた。下手に目立とうともせず、出しゃばることもなく、動きに癖もない。妻と娘の晴れ舞台を邪魔することなく、引き際がプロだった。いつもテレビを見ているか、過去の武勇伝を話すイメージしかなかったけど、撤回。父、ありがとう。
さあ、ここからが私でも父でもなく、母の見せ場である。黒留袖を着ていた母は、いつもより姿勢がシャンとしてみえた。入れ替わるように、スタッフの方の澄んだ声が響く。
「それではお母様、ベールアップをお願いいたします」
そう、我が家の結婚式は、ベールアップを最初にするのが夫ではなく「母」だ。

結婚当時の私、37歳。母は誘うのが苦手だ。だから、「買い物行こう」「銭湯行こう」と誘うのも、いつだって私だ。マザコンの自覚はある。とはいえ、母は人前に出るのが苦手な人だ。私だって、30代後半にもなって人前でわざわざ「ママ大好きムーブ」をかますつもりはない。では、なぜこんな変則的な演出になったのか。
時を、少しだけ戻そう。
***
結婚式の打ち合わせの際、スタッフの方から「お母様は一度、打ち合わせにお見えになりますか?」と尋ねられた。
「そういう人じゃないです。絶対に来ないです」
思わず、ぶっきらぼうに否定してしまった。スタッフの方は「うーん」と困ったように顔を顰めている。細かい説明をするのが面倒で「そういう人」と片付けてしまったが、母に結婚式を挙げると報告した時、すでに釘を刺されていたのだ。
「打ち合わせとかは、母さん行かないから。私がやるのは親戚への声かけと、遠方から来てくれた友人へのお金の用意だけ。あとは全部自分たちでやりなさい」と。
けれど、それを正直に伝えて、スタッフの方に「家族の仲が悪いのかな」と思われるのは嫌だった。だから私は、口を噤んだ。
私が静かに俯いていると、スタッフの方が、すべてを察したように声をかけてくれた。
「それなら、お母様には当日、ベールを上げていただく役割を任せるのはどうでしょう?」
その声を聞くなり、私は「えっ」と、目を丸くして顔を上げた。
(うちのお母さんに。そんな大役を??)
私の迷いを他所に、スタッフの方は説明を続けた。
「大勢のゲストの前に出るのは緊張されるかもしれませんが。そのシーンは、扉が開いてからすぐに終わるので、お母様も大丈夫ではないかと思います」
スタッフの方の、温かい心配りはありがたい。けれど。いや、本当にそうじゃないのだ。母は、ちょっと一押しすれば「仕方ないわねぇ」と前に出てくれるタイプではない。本気の本気で、母は目立つのが苦手なのだ。
不思議な人だと思う。娘の私が言うのもなんだが、母は目鼻立ちがはっきりしていて、綺麗な人だ。若い頃は、女優の浅田美代子に似ていた。母も「滋賀の浅田美代子と呼ばれている」と自称していたから間違いない。
その癖、私はのっぺりとした平坦な顔をしている。だから子供の頃、授業参観などで母を見た友達から、
「みくちゃんのお母さん綺麗ね。本当にお母さんの子なの?」
と無邪気に聞かれるのが、子供心に結構辛かった。美人は自己肯定感が高くなるのは、母を見て学んだ。そして、美人の母がいると劣等感を抱くというのも、母の元で育ちながら学んだ。

母は、いつも自信満々で羨ましかった。その癖、エキセントリックな人でもあった。
エキセントリックとは一風変わった人という意味だ。母は、どう変わってるのか。まず、美容院に行く時に「中山美穂にして欲しいんだけど」「浜崎あゆみにしてくれる?」と、オーダーしていた。
そもそも、説明の中に「〜の髪型に」が抜けている。美容院の施術にも限界がある。美容師さんも、そう言われて、どうしたらいいかわからなかったのではないか。お客さんに、美容外科行ってくださいとも言えないだろうし。
でも母は、いつも当たり前のような面立ちで美容院へ行く。そして、自信満々に「○○さんにしてください」と伝え、ガラッと髪型や髪の色を変えてくる。そして、美容院から帰ってきた母の顔立ちは、いつも嬉しそうだ。
家に帰るなり、母は私に「どう?あゆになってる?」と、嬉しそうに頬を緩める。私は私で、あまりに自信満々に言うものだから「うん、あゆだね」と返すしか他無い。母はいつも嬉しそうだった。
それほどの自信と自己肯定感に溢れている癖に、外の世界に出ることや、人と関わることは拒む。母という生き物が、さっぱりわからなかった。
今、私が大人になり思う。母から感じた「自信」は、本物だったのだろうか。
本当は、外の世界で傷つくのが死ぬほど怖くて、だからこそ自分の作った狭い世界で必死に生きている人だったのではないだろうか。
私は結局、母のことは何も理解できていなかったのでは。私が大人になり、自分があの頃の母と年齢が近くなるにつれ、ぼんやりと思うようになった。
綺麗な母は、自分を否定する人には絶対に近づかなかった。他人にきついことを言われて、大切に育ててきた自己肯定感を削ぎ落とされるのが嫌なのだと、働かない理由について聞いたことがある。だから彼女は、家族以外の人とは頑なに関わろうとしてこなかった。
夫は長年単身赴任、育ち盛りの子供が3人、おまけに「働きたくない」というトリプルコンボを抱えながらも、母は家庭の中で人生の大半を過ごしてきた。外から見れば、母の視野は狭いかもしれない。
けれど、母はいつも幸せそうだった。
かたや私は「自分はあんな風になっちゃダメだ」と思っていた。視野が狭くなれば、自分の物差しだけで物事を見て周りを振り回し、最後は自己満足の世界で人生を終えることになる。母を見てそう痛感していた私は、意識して外の世界と交わるように生きてきた。
とは言うものの、私はろくに空気も読めず、社会的な適応力もあるとは言えない。意識していた割には、ろくに順応すらできていなかったのだ。けれど、社会から振り落とされないよう、その尻尾へ必死にしがみついてきた。
合コンは1000回以上参加し、よさこいサークルに入って、毎週会う人に「はじめまして」と伝え、フリーランスで営業も重ね続けた。
傷つくことを恐れずに、いろんな人と出会う道を選んだ。傷つくこともあったけど、それ以上に人の出会いを通じて学んだり、嬉しいことも腐るほどあった。その分人間関係に疲れて心が擦り切れたこともしばしば。
そんな時、ふと思うことがある。母のように殻にこもって、その中で自分の機嫌だけを取って生きていく人生も、ひとつの幸せの形だったのかもしれない、と。
自分が満たされたらそれでいい。できれば人と関わりたくない。目立ちたくない。そんな母が、人前で娘のベールを上げるなんて大役、本当にできるのだろうか。
スタッフの方の提案を前に、私の頭の中は、母に対する心配と不安でたちまちいっぱいになっていく。
***
「どうぞ」とスタッフに促され、私は膝をついて座る。これも、スタッフの方が考えた演出だ。母の背が小さかったためである。
それから、母がゆっくりと私の頭にかかるベールを持ち上げる。
ベールを上げた母は、私の顔を見るなり、しわくちゃの手で慌てて口元を押さえ、目をぎゅっと閉じて泣いていた。
あの人は、いつも泣かない人だった。
小さい頃に私が迷子になった日も、新卒の会社をわずか一ヶ月でクビになった不甲斐ない日も、高校の成績がクラスで最下位だと担任から告げられた日も。
心配そうにうろたえることや、仁王立ちして般若みたいな顔で怒ることも数多くあったけれど。母が涙を流す姿なんて、私は一度として目にしたことがなかった。私も、母の前で泣かなかった。お互いに本音を出すこともなかった。
そんな彼女も、私も。今、子どものように声をあげて泣いている。
「新婦、御入場です」
厳かなアナウンスが鳴り、再び父に手をとられてバージンロードを歩む。会場からは、啜り泣く声が波紋のように広がっていく。
ところが、私の嗚咽は止まらない。静粛であるべき挙式会場に、新婦が「うっ……うえええ」と号泣しながら、父と歩く。そのあまりの異様さに、列席者の半数以上が笑いをこらえきれなかったのか。「ふふふふ」と声が漏れ、肩を震わせ、床に向かって俯いていた。
続く誓いのサインでも、私の右手は緊張でガクガクと震えて、一向に文字が書けない。その震えっぷりに、会場からは堪えきれずに「ぶわははは!」と爆笑の渦が巻き起こる。もはや、結婚式というよりも。ドリフのコントだ。
ちょっと待ってほしい。夫には貯金がなかったので、この結婚式は私が独身時代にコツコツと貯めたポケットマネーの400万円を全額投資して挙げたものだ。それなのに、まさか自分が「感動を呼ぶ花嫁」ではなく、爆笑をかっさらう主役になるとは。そんな私の焦りを知ってか知らずか、隣の夫は
「支えたるわな」
と言って、私の右腕の肘を手のひらでそっと支えてくれた。口元をニヤニヤと緩ませているあたり、彼も面白がっているのは丸わかりだったけれど、不思議と緊張が和らいだ。
最後まで名前を書き終えて、私はふぅと息を吐く。夫の手のひらから感じた力は、そう強いものではなかった。けれど、そこにあるのと、ないのとでは大違い。貯金がなくても、手のひらでそっと支えてくれる人でよかった。これからの人生もきっと、こんな風に支え合っていくのだろう。私たちは、きっと。
そんな爆笑の式も後半に入り、私による「花嫁からの手紙」を読み上げるシーンがやってきた。長年の夢だった。ここで両親に今までの感謝を伝え、感動の涙を浮かべてもらうシミュレーションを、これまで幾度となく繰り返してきた。
私は、「お父さんが稼いでくれたお陰で生きられました。お母さんが料理を作ってくれたから、飢えずにすみました」という手紙の内容を涙混じりに告げた。
今振り返って、思う。親への手紙に、お金と食べ物のことしか書いてない。もはや、飢えないことへの感謝を伝えるためだけに、挙式へ400万円もの大金をつぎこんだ気がしてきた。こういう時に、照れ臭くなるような感動的エピソードを綴り、面と向かって伝えられる強い心が欲しかった。
ただ、式場から流れる荘厳なBGMのおかげで、会場全員が大号泣していた。もちろん、父と母もハンカチを何度も目元に当てて泣いていた。お金稼いで、料理作ってくれてありがとうしか言ってないのに。改めて、音楽の力は凄い。
式が終わった後、母から電話があった。
「結婚式、すごく良かった。帰りの電車ね、お父さんと並んで座って帰ったのよ」
いつも家では、無駄な会話をしない二人だ。父の長い単身赴任のせいで、お互いにどう接したらいいかわからない距離があったはずの二人が、電車の中でどんな会話をしたのだろう。
もしかしたら、会話すらしていないのかもしれないけれど。母の電話の声は、嬉しそうに弾んでいた。今まで聞いたことがない声だった。
不器用な母を、あの結婚式が少しだけ素直にさせてくれたのならば。400万円、課金してよかったのかもしれない。
◇
あれから、10年の歳月が流れた。
嫁いだ先は愛知県、実家は三重県。地図で見れば隣同士なのに、「今から帰るね」と気軽に言うには、微妙に遠い距離である。
年に数回だった帰省は、仕事や家事に追われるうちに減っていく。やがて子どもが生まれ、私自身も年齢を重ねるにつれ、気づけば「帰らない理由」ばかりが増えていた。
1年ぶりに家族を連れて三重の実家へ戻ったとき、玄関の引き戸を開けて出てきた母は、以前に会ったときよりも、ずいぶんと小さく、頼りなくなっていた。衣服の中の身体が、ひとまわり縮んでしまったかのように見えた。
「最近あまり体調がよくないから、大したご飯は用意できないんだけどね」
母は申し訳なさそうに寂しく笑い、それから、毎日飲んでいるという薬についてさらりと言った。
「これね、飲むのをやめると、脳梗塞になる可能性があるんだって」
そんな恐ろしい話を、今日の晩ご飯のおかずみたいに言って、ケラケラと笑っていた。でも体調報告すらあっけらかんと語るところは、まだ元気なのか。それとも空元気なのか。でも声は、昔よりも随分と細くて頼りない。
「また、そんな大げさなこと言って」
私はあえて、いつもの調子で高く笑い飛ばしてみせた。母の視線から逃げるように、悪戯っぽく肩をすくめながら。
弱気になるのは、私の知っている母らしくない。どうかいつまでも、あの頃の強気なあなたでいて。その気丈さがきっと、これからの生きる力になるはずだから。いつまでも、どうかお元気で━━祈るようなその本心を、私はベールに包まれた笑い声のなかに、そっと忍ばせた。
【完】
