偉人第四話 諸葛孔明「後の出師表(すいしのひょう)」(後編)
諸葛孔明、2度目の決死の出陣とその遺言が語る生き様。
弱小国「蜀」が強国「魏」に対して、如何に向うべきか。
坐して亡びるのを待つか、進んで征伐に向うべきか。敵国「魏」に先制攻撃をするか、それとも敵国が攻めて来るのを待つか。決断の時。
孔明の決断は、勝利は困難であったとしても最後まで戦って、斃れて後已むの外はない。
孔明等軍隊は、戦場において糧食は乏しくなり、一日の食料を2日・3日に分けて食べるあり様。戦闘で既に多くの指揮官・将軍は戦死し、数年経てば、軍隊は、3分の1にまで減る。故に、進んで敵を伐つべきは今である。坐して天下の定まるのを待てば、日に倍々兵力を弱めるだけ。今は、民は困窮し、兵は疲れている。一日も早く攻めるべき。
しかし、前回、馬謖の失敗があり、魏への北伐において、大敗したことで、将軍の中には、今回の出陣に反対する者もおり、帝禪は、この進言を聞き入れようとする。
これに対し、孔明は、帝禪に六つのことを謹言する。
1.漢の高帝「高祖劉邦」は、側近に非常に思慮深い人物がいたけれども、多大な危険を冒して始めて天下を安定せられた。ところが、帝は、持久の策をもって勝利を取り、何もせずにいて天下を平定しようとしておられる。
2.獻帝(後漢の最後の皇帝)のとき、王朗太守は、国を安んずるの法を論じ、「古の聖人が和平を以て世を治めた例」を引いて戦うことを避けようとした。そのため、戦いをしない間に呉の孫策(孫権の兄)は、いながらにしてその勢力を強大、領地を拡大した。
3.曹操ほどの用兵の才ある者にして、幾度も生死の危険に遭い、漸く魏を建国することができた。ところが、帝は、危険を冒さずして天下を定めようとしております。
4.曹操は、有能な人物と雖も戦いに失敗はあります。
5.魏征伐軍を派遣して、今日まで一年間に武将8名、隊長70余人、部隊千人余り失っています。これらは数十年間に集めた天下の精鋭で、この上5,6年も過ぎれば、全軍の三分の二を失うことになりましょう。
6.蜀漢の民も困窮し、兵も疲労しており、魏征伐の戦は一刻も中止することはできません。止まって持久の策を採るも、征きて魏を討つも労力費用は等しいものです。
困難にして思い通りに行き難いものが天下の事です。
曹操は、天下は既に我がものとなったと言いましたが、先帝「劉備」と孫権同盟軍により、曹操を敗りました。しかし、孫権は、同盟を破って戦になり、先帝は大敗し、魏の曹丕(そうひ、曹操の子)が獻帝を廃止し、皇帝を称しました。
天下のこと、予測し難きもので、「ただ鞠躬尽力(きっきゅうじんりょく)、死に至るまで努力するのみです。」

特に、六つ目の言葉には、断崖絶壁に立つ孔明の心情が顕われており、先帝「劉備」に誓った「漢王朝の復興」の困難さとその実現への憶いを物語っている。これこそが孔明の孔明たる所以であり、名だたる武将をも圧倒する。能力的に、曹操を孔明よりはるかに高く評価する学者はいるが、孔明の篤き情に勝るものはない。
その後、孔明は、兵を分けて、各所に屯田、農耕を行った。その結果、土着の住民は、兵に守られ安心、軍営は衣食足りる。
そして、出陣して戦いを挑んだが、敵国魏の将軍「司馬仲達」は、孔明が仲達を侮辱し徴発するも、孔明を恐れて出て来ず、戦いにならなかった。その最中、孔明は病死、54歳の生涯であった。
三国志には、「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」(死んだ諸葛孔明が生きている司馬仲達を逃走させた。)と記述されている。
孔明の功績を考えると、道義を重んじ、人心を正し、古の聖王「堯、舜」を理想とする仁義(孔子、孟子の思想)を名分(身分に応じて守るべき本分)の乱れた世に再興したこと。朱子学者「浅見絅斎」が心酔するのも自然の理である。

義のため、国のため、私を顧みず、生き切った諸葛孔明の生き様は、幕末の志士にとっては、憧憬であり、尊崇なる存在であった。草莽の志士たちは、江戸幕府の末期、悪政と退廃、外国からの圧力に沈みつつあった日本の国を憂い、漢王朝復興に命を賭した諸葛孔明の姿に感服し、己を重ね合わせたに違いない。
明治維新は、流血と無縁ではなかった。幕末に多くの有能な志士を始め、農民・庶民、武士数多くの血が流され、その延長上に生まれた。
そこには、欧米の近代化をもってしても、排斥することができなかった日本精神があり、感性があり、思想があった。日本精神に基づいた江戸儒教(単なる中国からの輸入の学問ではなく、日本の国柄・風土に合った儒教)を学んだ高潔・真義誠実・篤実な学者によって、命を賭した激発が草莽の志士を動かし、御一新へと突き進んだことを忘れてはならない。
浅見絅斎(あさみけいさい)著「靖獻遺言(せいけんいげん)」は、1687年に完成しており、幕末の志士は、この約150年前に書かれた書物に本物を見出していた。

「国家国民のため」と口にするが、我欲が全身から滲み出ている今の政治家に、草莽の志士は無縁である。
山崎闇斎、浅見絅斎、若林強斎三代に渡って引き継がれてゆく志は誠に天晴れである。
諸葛孔明の生き様に、楠木正成を想起する。草莽の志士たちは、国民的英雄楠木正成をも尊崇する。(若林強斎の私塾「望楠軒書院」は、楠木正成公より命名したもの。)
「憤り」は、「志」の顕れであり、「天の憤り」「地の憤り」とともに「人の憤り」は、当然あるべきものであり、「志」ありて人たる所以である。
山崎闇斎の高弟佐藤直方の門人である三輪執齋は、「士心論」において、「四時間断なきは、天の憤。生々息(や)まざるは、地の憤。仁義忠信、時として感通せざることなきは、人の憤。故に、その学ぶ所は、常に士心の憤発にあり。憤は人の誠実精神、人の性は天授の徳。」(執齋全書第11編・訓蒙大意教約和解・士心論)と述べている。志は、士心なり。


治世の今、偉人を仰げども、その道頗る遠く、険しく、困難なもの。
されど、
偉人の生き様にこそ、人の本性、本質がある。
参考文献
靖獻遺言講義/近藤啓吾著/昭和62年9月10日発行
