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「快楽の園」開かれる三連の夢、閉じられる世界の問い


快楽の園(ヒエロニムス・ボス)

プロローグ:閉じている、開いている

みき:プラド美術館に行って、この絵の前に立ったとき、私はまず閉じた状態の絵を想像しました。両翼が真ん中にぴたりと閉じている、灰色一色の地味な姿を。

教授:ふふ、それは正しい入り口ですよ。三連祭壇画というのは、本来そういう形なんです。普段は閉じられていて、特別な日にだけ開かれる。教会の祭壇画も、貴族の私的礼拝堂の絵も、扉のように左右が中央に重なっている。

みき:閉じた状態の外側には、何が描かれていたんですか?

教授:灰色一色で、まだ植物しか生まれていない地球が描かれています。グリザイユという、色を抑えてモノクロームのように描く技法ですな。透明な球体の中に、芽吹いたばかりの大地。その球体の左上には、ちいさな創造主が浮かんでいて、自分の仕事を満足げに眺めている。

みき:……天地創造の途中。

教授:そう。聖書の創世記でいうと、ちょうど三日目あたり。水と陸が分かれて、植物が初めて生まれた瞬間ですな。「主が仰せられると、そのようになった」という詩篇のことばが、画面の上に書かれている。まだ動物も人間もいない地球が、灰色のシャボン玉のように宙に浮いている。

みき:……そして、その扉を開けると。

教授:はい。閉じていた両翼が左右に開いた瞬間、観客は衝撃を受けるんですよ。灰色の世界の裏側に、色彩が爆発した三つの世界が、いきなり広がる。全幅は、3メートル90センチほど。横長の大きな絵が、両翼を含めると目の前に展開する。

みき:左にエデン、真ん中に快楽の園、右に地獄。

教授:そう。そしてここから、500年以上、世界中の人間がこの絵の前で首をひねり続けてきたんですよ。「この絵は、何を言っているんだろう」と。

みき:……教授、私もずっと、首をひねっています。

教授:いい姿勢ですよ、みきさん。今日はね、答えを出しに行くんじゃなくて、この絵が500年間、答えを与えなかった理由を、一緒に歩きに行きましょうか。

快楽の園・外翼グリザイユ(天地創造の第三日/ヒエロニムス・ボス)

ヒエロニムス・ボス ── 森の町の、謎の画家

みき:教授、まず画家のことから教えてください。ヒエロニムス・ボス。名前からして、もう不思議な響きです。

教授:そうですな。本名はイェルーン・ファン・アーケン。1450年ごろ、現在のオランダ南部のスヘルトーヘンボスという町に生まれました。長い名前ですが、地元の人は短く「デン・ボス(森)」と呼んでいた。「公爵の森」という意味です。

みき:「森の町」。

教授:そう。彼はこの森の町から、生涯ほとんど離れなかった画家なんですよ。同じ頃イタリアでは、ダ・ヴィンチが各地の宮廷を旅し、ボッティチェリがフィレンツェで花を描いていた。みなさん華やかな大都市で活躍していた。けれどもボスは、地元の小さな町に留まり続けた。

みき:移動しなかった画家。

教授:そう。それでね、面白いのが、画家一族の家に生まれているんですよ。祖父も、父も、おじたちも、みんな画家。「ファン・アーケン家」は、町ぐるみで知られた工房だった。彼は子どもの頃から、絵筆と顔料に囲まれて育った。

みき:では「ボス」というのは……。

教授:そう、本名ではなく、生まれた町の名前を画号として名乗ったんですよ。「森の人、ヒエロニムス」。画家として地元に深く根を張った人物の、控えめな自己紹介ですな。

みき:教授、私が驚いているのは、この画家の人生の記録がほとんど残っていないことなんです。

教授:そう、そこが大事なところですな。日記もない、手紙もない、自伝もない。残っているのは、町の公文書と、彼が所属していた聖母兄弟会という宗教団体の会計帳簿の、ごく短い記述だけ。

みき:会計帳簿。

教授:そう。「ヒエロニムスが会費を払った」「集まりに参加した」「亡くなった」──そういう事務的な記録だけ。1516年8月9日に亡くなったことだけは分かっている。けれども性格、信仰の深さ、何を考えていたか、なぜあんな絵を描いたかは、本人の言葉では一行も残っていない。

みき:……それで、あの絵だけが残っている。

教授:そう。「画家本人の声」が消えて、「画面の中の声」だけが残った。シリーズで何度もお話ししてきた「事実と伝説の境目」が、この画家の場合、極端に伝説側に寄っているんですよ。後世のあらゆる解釈は、本人不在の宴になっている。

左翼:エデンの園 ── 静かな朝の、小さな違和感

みき:では教授、いよいよ三枚の扉を、左から順に開けていきましょう。

教授:はい。まず左翼。エデンの園。聖書でいう、人類が最初に置かれた楽園ですな。中央には三人の人物が立っている。

みき:……三人?

教授:そう。よく見ると、若い男女、つまりアダムとイブだけではなくて、彼らの間に立つキリストのような姿の創造主が、二人の手を取り合わせている。「アダムへのイヴの紹介」と呼ばれる場面ですな。

みき:神様自身が、二人を引き合わせている。

教授:そう。背後にはピンク色の不思議な噴水。象、キリン、ユニコーン、見たことのある動物と、見たこともない生き物が、楽園の中を歩き回っている。一見、美しい静かな朝ですな。

みき:けれども、教授、ここに小さな違和感があります。

教授:ほう。

みき:噴水の池の中に、黒い鳥が水を飲んでいたり、空に奇妙な飛行物体のような形が浮かんでいたり……何かもう、楽園にあるはずのないものが、ちらほら紛れ込んでいる気がします。

教授:いい目ですな、みきさん。これがボスの最初の仕掛けなんですよ。「まだ堕落していないはずの楽園」の中に、すでに不穏なものが芽生えている。

みき:始まったばかりの世界に、もう影が差している。

教授:そう。だからこの絵を、「楽園」「快楽」「地獄」の三段階の物語として読むだけでは、まだ足りない。「楽園の中にすでに堕落の予感がある」という、もうひとつの線がある。神が二人を引き合わせている、その手のすぐそばで、世界は少しずつ静かに崩れ始めている。

みき:始まりの絵なのに、すでに終わりのにおいがする。

教授:そう、いい表現ですな。ボスはこのあと、中央パネルで、その堕落を爆発的に展開することになる。

中央:快楽の園 ── 罪なき祝祭か、堕落の祝典か

みき:そして、いよいよ真ん中。

教授:はい。三枚の中で、いちばん広く、いちばん異形の世界。総勢数百人の裸体が、画面いっぱいに、群れ、踊り、抱き合い、果実を食べ、奇妙な乗り物に乗っている。

みき:……教授、これは、何を描いた絵なんですか。

教授:これこそが、500年論争が続いている中心の問いなんですよ。古典的な読み方ではこうなる。「この場面は、堕落した人類の、罪深い快楽の祝祭である」と。中央では水浴びをする男たちを、馬や驢馬に乗った裸の男たちが取り囲んで回っている。イチゴ、サクランボ、ザクロ、ブドウといった、聖書の中で官能や誘惑の象徴とされてきた果実が、画面のあちこちで人々の口に運ばれている。

みき:罪の果実が、宴のように振る舞われている。

教授:そう。だから多くの美術史家は、これを「人類の堕落の警告画」として読んできた。「こんな絵を見て、自分のうちにある欲望を反省しなさい」という、いわば説教絵ですな。

みき:けれども教授、私には、なんだか、この人たちが楽しそうに見えるんです。苦しんでいる顔の人は、ほとんどいません。果実を笑って分け合って、池で泳いで……地獄に行く前の最後のパーティーには、見えません。

教授:そう、そこなんですよ。だから20世紀の美術史家には、まったく逆方向に読む人たちが出てきた。「これは堕落ではなく、人類が堕落する前の、罪なき快楽の姿ではないか」と。

みき:罪なき、快楽。

教授:はい。ドイツの研究者ヴィルヘルム・フレンガーは、こう主張した。「ボスは「自由精神兄弟団」と呼ばれる秘密の異端集団(その一派は通称「アダム派」)に属していて、肉体の喜びは罪ではなく神の祝福だと信じていた。この絵は、彼ら異端の理想郷だ」と。

みき:……それは大胆な説です。

教授:そう、大胆すぎる、というのが今の評価ですな。自由精神兄弟団自体は歴史上確認できますが、ボスがその一員だった文書は一つも見つかっていない。だからこの説は、有名な読み物ですが現代の美術史界ではほぼ完全に否定されている。

みき:また、「事実と伝説の境目」が出てきましたね。

教授:そう。そしてさらに別の流れもある。20世紀末から、ドイツの美術史家ハンス・ベルティングらは、もっと穏やかな読み方を出してきた。「この中央パネルは、罪でも異端でもなく、『もし堕落がなかったら、人類はどう生きていたか』という、画家自身の空想ではないか」と。

みき:もしも、エデンを追われていなかったら。

教授:そう。実現しなかった世界を、絵の中に仮置きしてみる。ボスはその「もしも」を、一枚の祭壇画の真ん中に、堂々と並べてしまった、と。

みき:……「堕落の警告」「異端の理想郷」「もし堕落がなかったらの空想」。読み方が三つも並んでいて、どれも、決定打がない。

教授:そう、まさにそういう絵なんですよ。「絵が解釈を一つに絞らせない」というのが、この絵の最大の特徴ですな。

快楽の園・中央パネル拡大(ヒエロニムス・ボス)

右翼:地獄 ── 楽器が拷問具になる時

みき:そして、いよいよ右翼。

教授:はい。真っ黒な夜の中で、炎に焼かれる町が遠景に燃えている。ボスの地獄は、ヨーロッパ絵画の中でも別格ですな。それまでの中世の地獄は、悪魔が槍で刺すような、単純な構図が多かった。けれどもボスの地獄は、ありえないものたちが、ありえない方法で人間を苦しめる世界です。

みき:教授、これが、ずっと気になっていた箇所なんです。地獄に、楽器がたくさんあります。

教授:おお、よく気がつきましたな。ハープ、リュート、ドラム、フルート。中世から大事にされてきた楽器が、地獄では拷問の道具になっている。男がハープの弦に串刺しになっている。別の男が、巨大なリュートの上に磔のように横たわっている。

みき:……音楽が、罪になっている。

教授:そう。これは中世の道徳観念の表れですな。世俗の音楽、踊りの音楽は、信仰から離れた「肉の喜び」として警戒されていた。教会の聖歌は良い音楽、けれども宴会で奏でる楽器は、人を堕落させる音楽──そういう感覚があった。

みき:今、聞くと、想像できないですね。

教授:そう。けれどもボスは、その感覚を極限まで視覚化した。「楽器を愛しすぎると、楽器に殺される」。地獄に落ちた者は、生前に夢中になっていたまさにそのものによって、苦しめられる。博打打ちはサイコロで叩かれ、大食の者は腹を割かれ、虚栄心の強い者は鏡で焼かれる。

みき:罪と罰が、鏡像になっている。

教授:そう、いい表現ですな。罪そのものが、罰そのものに変わる世界ですよ。

みき:そしてここでもう一つ、有名なのが──中央に立つ「樹木人間」。

教授:はい。胴体が割れた卵の殻になっていて、足は枯れた木の幹、頭の上にはバグパイプの乗った円盤を載せた、奇妙な巨人。その顔だけが、こちらを振り返って、観客を見ている。

みき:……地獄から、こちらを見ている。

教授:そう。長く「自画像説」が囁かれてきた人物像ですな。ボスがこの巨大な異形の中に、自分の顔をひっそりと差し込んだのではないか、と。確証はないんですよ。けれども、もしそうだとしたら──。

みき:「私はこの地獄を見てきた」というサインを、ボス自身が、絵の真ん中に置いた。

教授:そう。前回ファン・エイクが、奥の鏡に「ここにありき」と書き残した話をしましたな。あれと響き合うように、ボスもまた地獄の真ん中で振り返っているかもしれない、というのが、面白いところですよ。

快楽の園・右翼「樹木人間」(ヒエロニムス・ボス)

三枚の絵が一枚に束ねられたとき

みき:教授、こうして三枚を順に見てくると、不思議なことに気づきます。左から右へ、時間が流れているように見えます。

教授:そう、それが第一の読み方ですな。創造 → 堕落 → 罰という、中世の歴史観そのもの。聖書が描く、人類の運命のスケジュールが、左から右へ三幕構成で並んでいる。

みき:でも、それだけだと、真ん中の異常な楽しさの説明がつかないんです。

教授:そう、そこが面白いところでね。三幕として読めば、中央は「堕落の現場」のはずなのに、絵そのものは祝祭のように軽やかで色鮮やか。そして右翼の地獄に行った瞬間、色も光も奪われる。

みき:……まるで、祝祭の最中に、急に幕が落ちるような。

教授:そう、いい比喩ですな。ボスは三枚の扉に、「創造の祝祭」「堕落の祝祭」「祝祭が終わったあとの暗闇」という、三つの祭りを並べたのかもしれない。「楽園」「快楽」「地獄」ではなくて、「祭りの朝」「祭りの真昼」「祭りの夜」、と。

みき:朝、昼、夜。

教授:そう。中央の幻想的な楽しさは、「堕落そのもの」ではなくて、「いずれ夜が来ると、人間が気づかずにいる時間」を描いている、と読むこともできる。祭りの真昼の人々は、夜が来ることを忘れている。そのことがいちばん怖い、という絵かもしれない。

みき:堕落そのものより、堕落に気づいていないことが、ボスの本当のテーマだった。

教授:そう、そこまで読み込むと、説教絵でも理想郷の絵でもなく、「人間という生き物の時間の絵」になってくる。

北斎・東洋の地獄絵と、ボスの細密

みき:教授、最後にいつものお願いです。北斎や東洋との繋がりは。

教授:今日はね、直接の影響関係ではなく、遠く離れた二つの文化が、同じ問いに取り組んでいたという話をしましょうか。ボスが1500年前後に地獄を細密に描いた頃、東洋でも、寺院や絵巻物の中で、地獄図は重要な主題でした。「地獄草紙」のような絵巻物では、剣の山、火の池、針の地獄が細密に描かれている。罪に応じて罰が変わるという発想は、ボスの鏡像の罰と、よく似ているんですよ。

みき:けれども教授、ボスの地獄には、東洋の地獄絵にはない奇妙さがあります。生き物と道具と、楽器と人体が、ぐちゃぐちゃに混ざっている。

教授:そう、そこがボスの独自性ですな。東洋の地獄絵は、罰の場面を整然と並べる。ボスは、罰そのものを夢の文法で歪める。私の先祖、北斎も、晩年に妖怪画を盛んに描いた人物ですな。歌川国芳もそう。東洋にも、ボスとは違う回路で、「常識を歪める想像力」は確かにあった。

みき:地球の反対側で、似たような夢の力が、別々に育っていた。

みきのまとめ

今日学んだこと:

  • 『快楽の園』は、ヒエロニムス・ボスが1490〜1510年ごろ制作した三連祭壇画(オーク板に油彩、高さ約186cm・全幅約390cm、現プラド美術館蔵)

  • 両翼を閉じると、外面にグリザイユで天地創造の第三日(植物が生まれたばかりの地球)が描かれ、開くと色彩の三面が爆発する仕掛けになっている

  • 左翼はエデンの園で、創造主がアダムにイブを引き合わせる場面。一見静かだが、楽園のあちこちにすでに不穏な気配が紛れ込んでいる

  • 中央パネルの解釈は500年論争が続いており、「堕落の警告画」「自由精神兄弟団(通称アダム派)の理想郷」「もし堕落がなければの空想」の3つの読み方が並ぶ。ただし異端集団説(フレンガー)は現代ではほぼ否定されている

  • 右翼の地獄は「音楽の地獄」と呼ばれるほど楽器が多く、世俗音楽への警戒の感覚が極限まで視覚化されている。罪と罰が鏡像になる構造

  • 中央に振り返る「樹木人間」は、画家本人の自画像ではないかという説が古くから囁かれているが、確証はない

  • ボスの伝記情報は極端に少なく、町の公文書と聖母兄弟会の会計帳簿に断片的な記述があるだけで、本人の言葉は一行も残っていない

みき:教授、今日も最後まで、答えは出ませんでした。

教授:そう、出ない絵を、わざわざ500年間、人が見続けてきたわけですな。

みき:それが、すごく不思議なんです。「答えを出さないこと」が、この絵の力になっている。

教授:そう。画家本人が黙ったまま死んでしまったから、絵は永遠に観客側に問いを返すことになった。「この絵は警告か、祝祭か、夢か」──その問いを、観るあなた自身が、自分の中の何かに照らして、選び取らないといけない。

みき:絵が、読者の鏡になっている。

教授:そう、よい表現ですな。ファン・エイクは奥の鏡に「ここにありき」と書きました。ボスは、絵そのものを一枚の大きな鏡にしてしまった。観る人ごとに、違う地獄と違う楽園が映る鏡ですよ。

みき:500年前のオランダの森から、今日の私に向かって、まだ問いが届いている。

教授:そう、それがこの絵が美術史最大の謎と呼ばれ続けている理由ですな。

みき:次回は何を見ましょうか?

教授:今日はヨーロッパの異形の細密を歩きました。次回は東洋に帰りましょう。私の先祖、葛飾北斎の盟友にして好敵手、歌川広重の『東海道五十三次』。日本という国土を、53枚の絵で旅する大連作です。ボスが「夢の細密」を描いたとすれば、広重は「旅の細密」を描いた画家ですな。

みき:地獄の祭壇画から、街道の風景画へ。

教授:そう、振り幅の大きい連続ですが、「人間の時間を絵に閉じ込める」という意味では、ボスと広重は、どこかで繋がっている。次回、その繋がりを、ご一緒に。

みき:では、楽しみにしています。

教授:では、また次回。


次回、vol.17 では、歌川広重『東海道五十三次』── 街道を旅する人々と、日本の天候・地形・時刻が、53枚の連作に閉じ込められた、もうひとつの「世界の細密」に迫ります。 この記事が面白かった方は、フォロー&スキで応援していただけると嬉しいです。

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